第34話:地図にない森
風がいちどに吹き込んできて髪を揺らした。葉擦れの音が耳に広がる。夜ではなかった。夕暮れとも違う深い緑の光が扉の向こうに満ちていた。
森だった。
扉の敷居から先はすぐに土だった。苔むした石が三段だけ段になって降りていて、その先に巨大な木々が立ち並んでいた。幹は大人が十人手を繋いでも囲めないほど太く樹皮は深い皺を刻んでいる。枝は遥か高みで絡み合い葉の隙間から金色の光が糸のように落ちていた。
足元の苔の上で小さな光が漂っていた。
蛍のようで蛍ではなかった。丸くて淡い光の粒が風もないのにゆっくり浮かんでは消える。浮き灯りに似ていたけれど街のものよりずっと小さくずっと自由だった。
「すごい」
声が自然に漏れた。
和也は何も言わなかった。ひなたの隣で目を見開いて森を見ていた。
「ひなちゃん」
「うん」
「ここ帝都じゃない」
「うん」
「地図が空白になった。どこにも繋がってない森なのに」
和也は言葉を探すように目を閉じた。
「でも感じる。ここは安全だ。さっきまで店の中にいたときと同じ静けさ」
ひなたは左手を見下ろした。結婚指輪の上で銀の輪が小さく温かかった。いつもはひんやりしているはずなのに今は掌の熱を吸ったように柔らかかった。
「指輪あったかい」
「俺もそうだ」
和也が左手を持ち上げた。同じ銀の輪が薄く光っていた。
「ヒヅキさんが言ってた。加護の指輪をつけている間は街の仕組みに見つからないって」
「うん」
「もしかしてこの扉も」
「見つからないんだね」
二人は顔を見合わせた。
誰かが用意してくれたのか指輪が呼応したのかはわからなかった。ただこの扉だけは誰の目にも触れないまま二人のためにここにあるのだと理解した。理由はわからなくてもその確かさだけは胸にすとんと落ちた。
ひなたは敷居の手前でしゃがんだ。
苔の上の石段を見た。人の足跡はなかった。獣の足跡もなかった。ただ湿った土の上に落ち葉が柔らかく積もっている。ひなたは指を伸ばしかけてやめた。靴を脱いで触れるべきではない場所のような気がした。
「ひなちゃんなんか顔が変わった」
「え」
「嬉しそう」
「そうかな」
頬に手を当てた。確かに口元が緩んでいた。
人の世界の景色には何も動かないのにこの森は違った。木の匂いも苔の湿り気も光の粒の漂い方も全てが生き物の呼吸のようだった。胸の奥が静かに膨らんでいた。獣医だった頃に山の中の保護施設へ研修に行った朝のことを思い出した。霧の中で鳥の声が一斉に上がった瞬間と同じ高鳴りだった。
「わくわくしてる」
「ひなちゃんが?」
「うん」
和也は目を丸くしてそれから溶けるように笑った。
「そっか」
「何」
「いや。ひなちゃんがそう言うの久しぶりに聞いた」
「そうかな」
「うん。わくわくするって」
ひなたは返事に詰まった。確かに久しく使っていなかった言葉だった。
森の奥で何かが動く気配がした。
和也が肩を張った。ひなたの手を握り直す。けれど危険察知の合図は出なかった。木々の向こうで小枝が小さく鳴り光の粒がふっと揺れた。それだけだった。
「今日は開けただけにしよう」
ひなたが言った。
「うん」
「今は何もわからないから。明日もう一度ゆっくり見る」
「賛成」
和也はあっさり頷いた。ひなたはもう一度だけ森の景色を目に焼きつけてから扉を引いた。
蝶番が低く鳴って風が止んだ。閂を下ろし鍵を回す。真鍮の鍵はやはり冷たく滑らかだった。
扉が閉まると店の中がふっと静かになった。
「夢じゃないよね」
「夢だったら二人で同じ夢を見てることになる」
「それはそれで嬉しいけど」
「ひなちゃん」
「冗談」
「半分でしょ」
ひなたは小さく笑い、和也が背後で鍵を確認していた。もう一度回して引いて確かめる。そのあとカウンターの下から紙を取り出して何か書きつけた。
勝手口。森。指輪。
ひなたが覗き込むと短い走り書きだった。
「危ないものは今のところなし」
「うん」
「明日朝一番に俺が先に見る」
「お願い」
「ひなちゃんは台所で待っててね」
「やだ」
「え」
「一緒に見る」
「それは俺がちょっと困る」
「半分こ」
和也は口を開いて閉じた。それから頭を掻いて白旗を上げるみたいに笑った。
「負けた」
母屋の扉を開けると三つの顔が格子の向こうに並んでいた。ひなたは玄関の脇で石鹸を泡立てた。和也もその隣で手を洗う。
「ただいま。遅くなったね」
二重の扉を順に開けてしゃがむとミルクが胸に飛び込んできた。大福が膝に前足をかけムギは弟たちが落ち着くのを待ってから肩に額を当てた。ひなたはひとつずつ背中を撫でて呼吸と体温を確かめた。
三匹ともいつも通りだった。
猫たちもキャットタワーから降りてきて足元に集まった。檸檬が足首に体を巻きつけラスクとショコラが和也の脛に額をぶつける。あんずはひなたの足の甲に前足を乗せた。ももとゆずは窓辺で待っていて二人が近づくと背伸びをした。
「お待たせ。ごはんにしようね」
犬たちのごはんを専用の器に並べた。「よし」の合図で三つの顔が同時に沈む。猫たちのごはんも棚の上に並べた。誰も人間の夕飯の皿には鼻を向けなかった。
食事のあいだひなたはときどき店の方角へ目をやった。窓の外には庭の桜と浮き灯りが見えた。その向こうの別棟の屋根のさらに奥のあの扉の向こうで深い緑の光がまだ揺れているのかと思うと胸の奥がくすぐったかった。
「ひなちゃんまた考えてる」
「バレた」
「顔に書いてあるよ。森のことって」
「うん」
「明日楽しみだね」
「うん」
素直に答えると和也が嬉しそうに口元を押さえた。ひなたは湯気の立つ味噌汁の椀を持ち上げた。いつもの夕飯のはずなのにいつもより少しだけ味が深い気がした。
窓の外の浮き灯りがゆっくり揺れた。ふとその光が森の光の粒と同じ速さで漂っているように見えた。
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