第33話:開かないはずの裏扉
その夜の片付けは和也のほうが先に手を止めた。
閉店後の除菌を終えて円卓の椅子を揃えていたときだった。和也が厨房の奥のほうを向いたまま動かなくなった。
「ひなちゃん」
「どうしたの」
「地図がおかしい」
ひなたは布巾を持ったまま顔を上げた。和也は目を閉じて眉を寄せている。危険を知らせるときの顔ではなく、難しい問題を前にした子どもみたいな顔だった。
「この店の裏って路地のはずなんだ。最初に見たときは煉瓦の壁と細い道があった」
「うん。ごみ置き場の横でしょ」
「今は違う。道がない」
「なくなったの」
「なくなったんじゃなくて」
和也は言葉を選ぶように間を置いた。
「知らない場所が見える。木がいっぱいある。地図に載ってないのに知ってる感じがする」
「危ないの」
「危なくない。それが逆に変なんだ」
ひなたは布巾を籠に入れて手を念入りに洗った。それから和也の隣に立った。
厨房の奥の壁に小さな扉があった。台所の勝手口だった。開店前に何度も確かめたけれど錆びた鍵がかかったままで一度も開いたことがない。ごみを出すのも仕入れの受け取りも表の通りでこと足りていた。
扉の前に立つと足元に微かな風を感じた。
下の隙間から冷たい空気が細く流れ込んでいる。湿った土と若い葉の匂いが混ざっていた。路地裏の匂いではなかった。ここは街の真ん中なのに森の奥の匂いがした。
「開けてないよね」
「開けてない」
「鍵は」
ひなたはしゃがんで鍵穴を覗いた。錆はなかった。真鍮が内側から磨かれたように柔らかく光っていた。鍵は差さったままで指で触れると冷たかった。
「ずっと錆びてたのに」
「うん」
「こんなにきれいだった?」
「今日だけ変わったのかな」
和也の声は落ち着いていた。けれど繋いだ手に少しだけ力が入っていた。
ひなたは自分の胸の内を探った。怖いかと問うた。そこにあったのは怖さより小さな引っかかりだった。知らない扉の向こうに何があるのかを確かめたい気持ちがじわりと広がっていた。
「開けるのやめる?」
和也が聞いた。
「やめない」
「だよね」
「でも私が開ける。和くんは少し後ろ」
「なんで」
「危険察知が何も言わないなら私が先でも同じでしょう」
「それは理屈としておかしい」
「おかしくないよ」
「危なかったらどうするの」
「そのときは和くんが引っ張って」
和也は短く息を吐いて笑った。
「わかった。手は離さないから」
「うん」
ひなたは鍵に指をかけた。ゆっくり回すと軽い音がして閂が外れた。取っ手に手を置く。金属が掌にひんやりと馴染んだ。
扉を内側へ引くと、一瞬で空気が変わった。
ストックを溜めたいので、明日から1日1回更新です




