第32話:それぞれの居場所
開店から一ヶ月が過ぎた朝に、常連の席が決まっていた。
窓辺の二人掛けは老婦人の席だった。入口に近い円卓には、商店街の洋食屋の主人が肩をすぼめて座る。奥の壁際では、袴の女学生が、三人でゼリーの色を日にかざして眺めていた。誰が決めたわけでもないのに、皆がいつの間にか自分の居場所を見つけていた。
ひなたは厨房の窓からその景色を見ていた。
人の気持ちは流れ込んでこない。だけど、背中と手元と皿の空き具合を見ていれば足りた。肩の力が抜けた背中が増えた。それがこの店の仕事の成果なのだと静かに思えた。
「ひなちゃん」
和也が窓越しに紙を差し出した。
「今日は百二十で打ち止めにしようか」
「うん。それ以上は作らない」
「みんなに伝えておく」
一日に出す数を決めてから店の空気はやわらかくなった。並ぶ人は減らなかった。でも、待つ人の顔から焦りが消えた。売り切れた日の客は「また明日」と笑って帰っていく。和也が扉の外まで出て、一人ひとりに頭を下げるのが日課になった。
洋食屋の主人が会計の時にぽつりと言った。
「うちの娘がね。ここのケーキの話をするようになったんですよ」
「娘さんが」
「病気がちでずっと笑わなかった子が。雪みたいに溶けたって何度も言うんです」
和也は手を止めずに頷いた。
「今度ぜひ連れてきてください。窓際の席を空けておきます」
主人は少し黙ってから深く頭を下げた。
厨房でひなたは泡立て器を握ったまま動かなかった。胸の奥が静かにあたたまった。涙は出ない。それでも温度だけは確かに広がった。
昼を過ぎると和也が母屋へ様子を見に行った。戻ってきて小声で報告する。
「ムギが玄関で待ってた。大福は爆睡でミルクは俺の靴に顔を突っ込んでた」
「靴に」
「匂い嗅いでたんだと思う」
「それはお留守番がんばった証拠だね」
「猫たちはタワーの上。ショコラだけ降りてきて足を舐められた」
ひなたは笑った。母屋の景色が目に浮かぶようだった。
午後は老婦人がいつもの席でゆっくり紅茶を飲んでいた。孫は学校なので今日はひとりだった。
「お嬢さん」
厨房の窓の前を通りかかったひなたに、老婦人が声をかけた。ひなたは足を止めた。
「このお店が出来てから町を歩くのが楽しくなりましたの」
「そうですか」
「ええ。帰りにここを思い出すと足が軽くなるのです。不思議ですね」
「ありがとうございます」
ひなたは小さく頭を下げた。それ以上の言葉は出なかった。だけど、老婦人は満足そうに頷いて紅茶に口をつけた。
夕方に近づくと客足が落ち着いた。和也がカウンターの内側でコップを拭きながら言った。
「ひなちゃん今日の最後の注文」
「うん」
「ココアだって。甘いやつ」
「ココアはメニューにないよ」
「でも頼まれた」
「誰に」
「俺が自分に」
ひなたは呆れて布巾を投げた。和也は片手で受け止めて嬉しそうに笑った。
営業を終えて除菌を済ませると、二人は母屋へ戻った。
洗面所で手を洗い、二重の扉を開ける。ミルクが胸に飛び込み大福が膝に前足をかけムギが最後に額を肩に当てた。
「ただいま。ごめんね遅くなった」
三匹の背中を順に確かめるように撫でた。大福の呼吸は穏やか。ミルクの心臓は少し速い。ムギの肩は今日もしっかり張っていた。
猫たちはキャットタワーから降りてきて、足元に集まった。檸檬が足首に体を巻きつけ、ラスクとショコラが和也の脛に額をぶつける。あんずはひなたの足の甲にそっと前足を乗せた。ももとゆずは窓辺で並んで待っていて、二人が近づくとようやく立ち上がって背伸びをした。
犬たちのごはんを器に並べた。「よし」の合図で三つの顔が同時に沈む。猫たちのごはんは、棚の上に並べた。自分たちの夕飯は、台所の食卓で湯気を立てていた。
「今日は和風ハンバーグにしたよ」
「やった」
食事を終えて洗い物を済ませると、和也がソファに沈み込んだ。ひなたも隣に座る。すぐにももが膝に飛び乗り、檸檬が肩の後ろに回り込んだ。
「ひなちゃん」
「うん」
「この店やってよかったね」
「うん」
「最初は、何も知らない世界に放り出されて、怖かったけど」
「うん」
「今は、帰ってくる場所がちゃんとある」
ひなたは頷いた。足の上の温かい重みを確かめるように撫でた。
窓の外では浮き灯りがゆっくり夜の色を深めていた。庭の桜の木が風に揺れていて、遠くの空に細長い車体が音もなく横切っていった。降りる客の声がかすかに風に乗って届いた。
「和くん」
「うん」
「明日は少し早く起きて店の窓を磨こうかな」
「俺も手伝う」
「ほんと」
「ひなちゃんと一緒なら窓拭きも楽しい」
「それは言いすぎ」
「事実だよ」
「それ便利な言葉だね」
笑い合う二人の足元で、ムギがごろりと横になった。いつの間にか大福とミルクもその背中に寄り添っている。猫たちは窓辺の毛布の上で順に丸くなっていった。
寝室へ向かう気配に気づくと犬猫たちは一匹ずつ顔を上げた。誰も急がずゆっくりと立ち上がり二人のあとをついていく。廊下の灯りの下に小さな影がぞろぞろと続いた。
その夜ひなたは眠る前に店の裏口のことをふと思った。別棟の台所の奥に小さな勝手口がある。開店前に何度も確かめたけれど錆びた鍵がかかったままで一度も使ったことがない。ただそれだけの扉だった。
「どうしたの」
「ううん」
ひなたは和也の肩に頭を預けて目を閉じた。足元で猫が寝返りをする。
窓の外の灯りはいつもと同じ速さで揺れていた。
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