↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傷ついた神獣と帝都の片隅の夫婦カフェ  作者: もも


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/33

第31話:約束の指輪

 夜の母屋は静かだった。


 犬たちは居間の隅で寝息を立てている。猫たちはキャットタワーの上で丸くなっていた。ひなたは台所で湯を沸かし、和也は食卓に頬杖をついて窓の外を見ていた。


「紅茶いれるね」


「ありがとう」


 カップを二つ運ぶと、和也がゆっくり顔を向けた。


「ひなちゃん」


「うん」


「今日の噂のこと」


「うん」


 ひなたは向かいに座ってカップを両手で包んだ。湯気が頬に触れた。


「本当かどうかはわからない」


「うん」


「でも二つとも聞こえた。犬が連れていかれる話と、動物を集めてる場所の話。別々の人から」


「そうだね」


「危険察知は何も言ってない。今は」


 和也は自分の胸のあたりに指を当てた。


「今は何も感じない。この家の周りも店の周りも静かだよ。でもこれから先のことは俺にもわからない」


 ひなたは頷いた。わからないのは当たり前だった。先に何かが起きるとは誰も言っていない。あるのは耳に入った話だけだ。


「怖い?」


 和也が尋ねた。


 ひなたは少し考えた。


「怖いというより」


 言葉を探した。


「確かめたい。うちの子たちは本当に外に出さなくて大丈夫なのか。このままで大丈夫なのか」


「出さないままなら、今は大丈夫だと思う」


「うん。犬たちは今まで通り庭だけにしよう。庭の外には絶対に連れ出さない」


「いいの?」


「いい」


 即答だった。庭の外の道は、あの子たちにとって何も得るもののない場所だった。浄水場の前の道も、改札のある通りも、近づけたくなかった。


「庭が広くてよかった」


「うん。春兄の家のときはそんなに広くなかったもんね」


「ね」


 そう言ってからひなたは自分の言葉に小さく胸を突かれた。春兄達と口にした声が思ったより自然だった。けれどそれ以上は広げなかった。


「ひなちゃん」


「うん」


 和也が手を伸ばしてひなたの左手を取った。


 テーブルの上で二人の手が重なった。結婚指輪の上に銀の輪が重なっている。和也は指先でその輪をゆっくりなぞった。内側に刻まれた月のような模様が灯りに小さく光った。


「これちゃんとつけてる?」


「つけてるよ。外してない」


「お風呂のときも」


「お風呂のときも」


「寝てるときも」


「寝てるときも」


 和也は頷いた。それからひなたの指を一本ずつ確かめるように撫でた。薬指に来たところで少し力を込めた。


「ヒヅキ様が言ってた。つけている間は街の仕組みに見つからないって」


「うん」


「だから大丈夫。ひなちゃんは改札を通っても鳴らない。俺もそう」


「うん」


「でも」


 和也は言葉を区切った。


「家の子たちはそうじゃない」


 ひなたの手がわずかに強張った。


「あの子たちは指輪をつけられない。外に出れば、仕組みに引っかかるかもしれない」


「うん」


「だから外には出さない。この家と庭だけで暮らす。それが一番安全だと思う」


「うん」


 ひなたは自分の声が思ったよりも穏やかなのに気づいた。心の中の線は静かに引かれていた。街のことは街のこと。見えても聞こえても手を伸ばさない。けれどこの家の中にあるものだけは。


「和くん」


「うん」


「私たちの子たちを守るのは私だけの役目じゃないよね」


「当たり前でしょ」


 和也が顔を上げ、まっすぐにひなたの目を見た。


「何があってもひなちゃんと、この家の子たちは俺が守るから」


 その声は店で聞く「いらっしゃいませ」とも夜の甘い囁きとも違っていた。低くて静かで一本の線みたいに揺れなかった。


「危ないものは俺が先に見つける。危険察知も地図もそのために貰ったんだから」


「うん」


「ひなちゃんは台所にいて。あの子たちのそばにいて。それだけでいい」


「それだけじゃないよ」


「え」


「私だって守る」


 ひなたは和也の手をもう一方の手で包んだ。指輪が重なった。


「私は料理しかできないけど。あの子たちの体のことなら誰よりもわかる。何か起きたら一番に気づく。それは私の役目」


「うん」


「だから半分こ」


「半分こ」


 和也は目を丸くした。それからゆっくり笑った。嬉しさをこらえきれない笑い方だった。


「ひなちゃんには敵わないなあ」


「何が」


「全部」


「大げさ」


「大げさじゃない」


 和也はひなたの手を持ち上げて、薬指の指輪に唇を落とした。




 寝る前にひなたは二階の窓をひとつずつ見て回った。


 格子の錆。ガラス戸の鍵。窓ガードの貼り具合。すべて確かめて頷く。猫たちはキャットタワーの上で、ももとゆずが寄り添い檸檬たちが丸くなっていた。あんずだけが目を開けてひなたを見ていた。


「大丈夫だよ」


 小さな声で言って、白い頭を撫でた。


 階下に降りると犬たちが一斉に顔を上げた。ムギが立ち上がって近づいてきて膝に額を押しつける。ひなたはその首筋に手を置いた。


「ムギ」


 返事はなかった。尻尾が床を一度だけ打った。


「みんな私が守るよ」


 言ってからひなたは自分の声の静かさに少し驚いた。誓いというより事実を告げるような響きだった。


 居間の灯りを落としたとき、和也が寝室の前で待っていた。ひなたの手を取りいつものように指を絡める。


「寝よう」


「うん」


暗がりの廊下を二人で歩いた。窓の外では浮き灯りがゆっくり揺れている。遠い川の向こうで何が起きているのか、二人はまだ何も知らない。ただ噂の影だけが夜の端に細く落ちていた。


 ベッドに入ると和也が腕を回してきた。指輪が触れ合う小さな音がした。


「ひなちゃん」


「ん」


「おやすみ」


「おやすみ。和くん」


 足元にももが乗ってきて丸くなった。ひなたは目を閉じた。聞こえるのは隣の鼓動だけだった。


 見えない場所の影はまだ遠かった。けれどこの家の中の温度は確かにここにあった。

お読みいただきありがとうございました。

もし良ければブックマークと評価ポイントをつけていただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。