第31話:約束の指輪
夜の母屋は静かだった。
犬たちは居間の隅で寝息を立てている。猫たちはキャットタワーの上で丸くなっていた。ひなたは台所で湯を沸かし、和也は食卓に頬杖をついて窓の外を見ていた。
「紅茶いれるね」
「ありがとう」
カップを二つ運ぶと、和也がゆっくり顔を向けた。
「ひなちゃん」
「うん」
「今日の噂のこと」
「うん」
ひなたは向かいに座ってカップを両手で包んだ。湯気が頬に触れた。
「本当かどうかはわからない」
「うん」
「でも二つとも聞こえた。犬が連れていかれる話と、動物を集めてる場所の話。別々の人から」
「そうだね」
「危険察知は何も言ってない。今は」
和也は自分の胸のあたりに指を当てた。
「今は何も感じない。この家の周りも店の周りも静かだよ。でもこれから先のことは俺にもわからない」
ひなたは頷いた。わからないのは当たり前だった。先に何かが起きるとは誰も言っていない。あるのは耳に入った話だけだ。
「怖い?」
和也が尋ねた。
ひなたは少し考えた。
「怖いというより」
言葉を探した。
「確かめたい。うちの子たちは本当に外に出さなくて大丈夫なのか。このままで大丈夫なのか」
「出さないままなら、今は大丈夫だと思う」
「うん。犬たちは今まで通り庭だけにしよう。庭の外には絶対に連れ出さない」
「いいの?」
「いい」
即答だった。庭の外の道は、あの子たちにとって何も得るもののない場所だった。浄水場の前の道も、改札のある通りも、近づけたくなかった。
「庭が広くてよかった」
「うん。春兄の家のときはそんなに広くなかったもんね」
「ね」
そう言ってからひなたは自分の言葉に小さく胸を突かれた。春兄達と口にした声が思ったより自然だった。けれどそれ以上は広げなかった。
「ひなちゃん」
「うん」
和也が手を伸ばしてひなたの左手を取った。
テーブルの上で二人の手が重なった。結婚指輪の上に銀の輪が重なっている。和也は指先でその輪をゆっくりなぞった。内側に刻まれた月のような模様が灯りに小さく光った。
「これちゃんとつけてる?」
「つけてるよ。外してない」
「お風呂のときも」
「お風呂のときも」
「寝てるときも」
「寝てるときも」
和也は頷いた。それからひなたの指を一本ずつ確かめるように撫でた。薬指に来たところで少し力を込めた。
「ヒヅキ様が言ってた。つけている間は街の仕組みに見つからないって」
「うん」
「だから大丈夫。ひなちゃんは改札を通っても鳴らない。俺もそう」
「うん」
「でも」
和也は言葉を区切った。
「家の子たちはそうじゃない」
ひなたの手がわずかに強張った。
「あの子たちは指輪をつけられない。外に出れば、仕組みに引っかかるかもしれない」
「うん」
「だから外には出さない。この家と庭だけで暮らす。それが一番安全だと思う」
「うん」
ひなたは自分の声が思ったよりも穏やかなのに気づいた。心の中の線は静かに引かれていた。街のことは街のこと。見えても聞こえても手を伸ばさない。けれどこの家の中にあるものだけは。
「和くん」
「うん」
「私たちの子たちを守るのは私だけの役目じゃないよね」
「当たり前でしょ」
和也が顔を上げ、まっすぐにひなたの目を見た。
「何があってもひなちゃんと、この家の子たちは俺が守るから」
その声は店で聞く「いらっしゃいませ」とも夜の甘い囁きとも違っていた。低くて静かで一本の線みたいに揺れなかった。
「危ないものは俺が先に見つける。危険察知も地図もそのために貰ったんだから」
「うん」
「ひなちゃんは台所にいて。あの子たちのそばにいて。それだけでいい」
「それだけじゃないよ」
「え」
「私だって守る」
ひなたは和也の手をもう一方の手で包んだ。指輪が重なった。
「私は料理しかできないけど。あの子たちの体のことなら誰よりもわかる。何か起きたら一番に気づく。それは私の役目」
「うん」
「だから半分こ」
「半分こ」
和也は目を丸くした。それからゆっくり笑った。嬉しさをこらえきれない笑い方だった。
「ひなちゃんには敵わないなあ」
「何が」
「全部」
「大げさ」
「大げさじゃない」
和也はひなたの手を持ち上げて、薬指の指輪に唇を落とした。
寝る前にひなたは二階の窓をひとつずつ見て回った。
格子の錆。ガラス戸の鍵。窓ガードの貼り具合。すべて確かめて頷く。猫たちはキャットタワーの上で、ももとゆずが寄り添い檸檬たちが丸くなっていた。あんずだけが目を開けてひなたを見ていた。
「大丈夫だよ」
小さな声で言って、白い頭を撫でた。
階下に降りると犬たちが一斉に顔を上げた。ムギが立ち上がって近づいてきて膝に額を押しつける。ひなたはその首筋に手を置いた。
「ムギ」
返事はなかった。尻尾が床を一度だけ打った。
「みんな私が守るよ」
言ってからひなたは自分の声の静かさに少し驚いた。誓いというより事実を告げるような響きだった。
居間の灯りを落としたとき、和也が寝室の前で待っていた。ひなたの手を取りいつものように指を絡める。
「寝よう」
「うん」
暗がりの廊下を二人で歩いた。窓の外では浮き灯りがゆっくり揺れている。遠い川の向こうで何が起きているのか、二人はまだ何も知らない。ただ噂の影だけが夜の端に細く落ちていた。
ベッドに入ると和也が腕を回してきた。指輪が触れ合う小さな音がした。
「ひなちゃん」
「ん」
「おやすみ」
「おやすみ。和くん」
足元にももが乗ってきて丸くなった。ひなたは目を閉じた。聞こえるのは隣の鼓動だけだった。
見えない場所の影はまだ遠かった。けれどこの家の中の温度は確かにここにあった。
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