第30話:不穏な影
その噂は甘い匂いに混ざって店に入ってきた。
昼下がりの窓辺の円卓に、洋装の女が三人座っていた。ショートケーキを前に、小声で話している。ひなたは厨房で苺を切りながら、聞くともなく声を拾っていた。人の話し声は景色のようなものだった。流れ込んではこない。ただ耳の外を通り過ぎていく。
だけど、その言葉だけは通り過ぎなかった。
「隣の区で犬がまとめて連れていかれたんですって」
「まあ。どうして」
「保菌しているって。改札の機械が鳴いたとかで」
「犬が改札を通るの」
「飼い主が連れて通ったのよ。そうしたら鳴ったって」
ひなたの包丁が一瞬だけ止まった。
苺の赤い断面がまな板の上で濡れて光っていた。
「それで」
「その場で札をつけられて黒い車に。飼い主は泣いて縋ったけれど、聞いてもらえなかったそうよ」
「怖いわねえ」
「ええ。だから私は家の子を外に出さないことにしたの」
三人は声を落としてケーキにフォークを入れた。ひなたは苺を切る手を再び動かした。切り口は少しだけ斜めになった。
「ひなちゃん」
厨房の窓の向こうで和也が目だけで呼んでいた。注文の紙を差し出すふりをして小声で言う。
「聞こえた?」
「うん」
「後で話そう」
「うん」
ひなたはそれだけ答えて紙を受け取った。
プリン・アラモードとブレンド。
いつも通りの注文だった。手は迷わず動いた。盛りつけの間に頭の中の灯りがひとつ消えたような気がした。
噂はその日の客の間でもう一度出た。
夕方近くに入ってきた初老の男が会計のときに和也へ漏らした。
「この辺りでも聞きましたか。川向こうの研究所の話」
「研究所ですか」
「ええ。なんでも動物を集めているとか。野良も飼い犬も。金を出して買い取るそうで」
男は言葉を選ぶように間を置いた。
「何に使うのかは誰も知りません。ただ夜になると煙突から変な匂いがすると」
「そうですか」
和也は表情を変えなかった。釣り銭を数えて手渡し丁寧に頭を下げる。
「お気をつけてお帰りください」
「ええ。お兄さんも」
男が扉の向こうへ消えると和也は静かに息を吐いた。それからカウンターの下の紙に何かを書きつけた。ひなたがあとで見ると短い言葉だった。
川向こう。研究所。煙突。




