第39話:二つの皿
三日目の朝は、子フェンリルは来なかった。
ひなたは勝手口の敷居の内側にしゃがんで石段を見ていた。霧は晴れて森は澄んだ緑に沈んでいる。苔の上の光の粒が昼に向かって数を減らしていく。
「来ないね」
「うん」
「元気になったんだから来なくていいんだよ」
「ひなちゃん自分に言い聞かせてる」
「言い聞かせてない」
和也が笑いを噛み殺した。ひなたは立ち上がって膝の土を払おうとして、土などついていないことに気づいた。敷居の外には一歩も出ていない。
皿は用意していなかった。それでも手は朝から鶏を煮ていた。ひなたは火を止めて鍋の蓋を閉めた。あの子の分ではなく自分たちの味噌汁にしようと決めた。
四日目の朝は小雨で、森の葉が雨粒を受けて静かに鳴っている。扉を開けた途端に湿った土の匂いが厨房に流れ込んだ。
「ひなちゃん」
和也が目を閉じたまま言った。
「石段に何かいる」
「あの子?」
「違う。もっと」
和也は言葉を探して眉を寄せた。
「数がいる」
ひなたは視線を落とした。
石段の三段目に銀色の毛並みが座っていた。
子フェンリルだった。雨に濡れた毛が肌に張りついて体が一回り細く見える。左前脚は地面にしっかり着いていた。青い目がひなたを見て尻尾が一度だけ揺れた。
「来てた」
「うん」
「ずっと待ってたのかな」
「雨宿りしてたのかも」
そう言いながらひなたの胸が熱くなった。表には出さずに子フェンリルから視線を少し外す。
その後ろで何かが動いた。苔の石段の四段目に小さな影が立っていた。子フェンリルの背に隠れるようにして。
最初は鳥かと思った。けれど嘴の根元から首にかけて淡い金の羽毛が生えている。体の後ろ半分は柔らかな茶色の獣の毛並みで尾は細く長く先が房になっていた。翼はまだ産毛に包まれたまま背中でしぼんだように垂れている。
「グリフォン」
和也が息を呑んだ。
「雛だ」
「雛」
「たぶん。まだ飛べないんだと思う。翼がほとんど育ってない」
グリフォンの雛は子フェンリルの尻尾に前足をかけたまま立ち尽くしていた。琥珀色の目は半分閉じかけている。立っているのが精一杯という体だった。
呼吸が浅い。胸の起伏が細かくて速い。羽毛の根元に艶がない。脱水と空腹と疲労が重なっている。傷は見えなかった。ただ何日も歩いてきた体だった。
ひなたは視線を伏せた。
触らない。診ない。それでも見えてしまう。
「連れてきたんだ」
和也が小声で言った。
「あの子が」
「うん」
「ご飯があるよって」
「そんなこと」
「わかんないけど」
和也は、子フェンリルの背中を見つめていた。
「でもそうとしか思えないくらい守る位置にいる」
確かにそうだった。子フェンリルは雛を雨風から庇うように体を斜めにして立っていた。自分は濡れてもいいという立ち方だった。三日前に初めて会ったときあれほど怯えていた子が。
ひなたは息をゆっくり吐いた。
「ご飯作る」
「うん」
「二人分」
「二人分」
「たぶん足りない」
言ってしまってから自分の口が勝手に動いたことに驚いた。足りない。それが何を意味するのか考える前に手は厨房の奥へ向かっていた。
雛には鶏の胸肉を使った。
脂を落として細かく刻み湯の中でくたくたになるまで煮る。繊維が口の中でほどけるくらいに。そこへ半熟の卵黄をひと匙溶かして人肌まで冷ました。獣医の頃に雛や幼獣の保護でよく作った流動食に近い配合だった。頭の中の灯りが量と温度を細かく教えてくれた。
子フェンリルには前と同じ鶏と米の煮物を作った。ただし今日は人参のほかにほうれん草を茹でて細かく刻んだものを少し混ぜた。傷が治った体には栄養が必要だった。
皿は二枚。白い深皿とそれより浅い小皿。どちらも森の子専用の棚から取った。
「ひなちゃん」
「うん」
「俺が持っていくよ」
「いいの」
「ひなちゃんは今日たぶん目を合わせすぎる顔してるから」
「してない」
「してるよ。雛のほうばっかり見てる」
否定できなかった。ひなたは口を閉じて皿を和也に渡した。和也は両手で受け取って慎重に敷居をまたいだ。
石段の上に二枚の皿が並んだ。
子フェンリルが先に動いた。深皿のほうへ鼻を寄せて匂いを嗅ぐ。それから首を巡らせて小皿の前に雛を押し出すように鼻先で背中を押した。
雛はよろよろと皿の前へ出た。
嘴が小皿の縁に触れた。一口。二口。それから急に勢いづいて顔ごと埋めた。細い喉が忙しく上下した。産毛の翼がぶるぶると震えていた。
ひなたは目を逸らして雨の森を見ていた。聞こえる音だけで足りた。ぴちゃぴちゃと柔らかな音。皿を舐める音。やがて鼻を鳴らす音が加わった。
子フェンリルも食べ始めていた。
二匹の食べる音が雨音に混ざって石段に響いた。
和也が隣に戻ってきて腰を下ろした。ひなたは横目で和也の顔を見た。唇を噛んでいる。笑ってしまいそうなのをこらえている顔だった。
「何」
「いや」
「何」
「ひなちゃんが怒ってない顔してる」
「怒ってないよ」
「違う。なんていうか」
和也は言い淀んだ。
「地球にいたときの顔」
ひなたは何も返さなかった。胸の奥を探った。確かにそこにあたたかいものがあった。獣医になったばかりの頃に初めて自分の手で一匹の犬を退院させた日の感覚に近かった。
「治したのは和くんだよ」
「ご飯作ったのはひなちゃん」
「半分こ」
「半分こ」
雨が少し強くなってきた。
皿が空になるころ雛の体はさっきより丸みを帯びて見えた。羽毛の根元に艶が出て翼の産毛が少しだけ持ち上がっている。子フェンリルが顔を寄せて雛の頬を舐めた。ヒナは琥珀色の目を細めて子フェンリルの首元に額を押しつけた。
和也がそっと立ち上がった。
「雛の様子を見るね」
「うん。いい?」
「俺の魔法で脱水とか疲れを取れるはず。体力だけでも戻したい」
「ゆっくり」
「わかってる」
和也は昨日と同じように敷居の縁で止まった。右手を石段へ伸ばして手のひらを上に向ける。指先に金色の灯りが生まれた。
雛の目がそれを見た。
子フェンリルが小さく鼻を鳴らした。雛は光を怖がらなかった。そろりと首を伸ばして灯りの周りをくるくる回った。まだ踏ん張りの利かない脚がもつれた。
光が雛の体を包んだ。
淡い金色の中で羽毛の毛並みが整っていく。呼吸が深くなり胸の起伏が穏やかになった。しぼんでいた翼の産毛がふわりと膨らんだ。雛は自分の体を見下ろして嘴を大きく開けた。声にならない短い鳴き声が出た。
「ぴ」
小さな高い音だった。
和也が思わず笑った。
「鳴いた」
「うん」
「ひなちゃん聞いた? ぴって」
「聞いた」
「かわいい」
「うん」
雛は子フェンリルの足元をぐるぐる跳ね回っていた。元気になった体を持て余している。子フェンリルは呆れたような顔でそれを見下ろしていた。
ひなたは笑った。声に出して笑ったのは久しぶりな気がした。
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