第28話:消えぬ傷と隣の手
店に戻って扉の鍵を掛けると、急に膝の力が抜けた。
ひなたは厨房の作業台に手をついた。和也がすぐ隣に立った。
「大丈夫」
「うん」
「ごめんね、勝手に割り込んで」
「ううん」
ひなたは首を横に振った。
「助かった」
「ひなちゃんが嫌な顔したから」
「してた?」
「してない。でも手が止まったのがわかった」
「そっか」
見られていたのだと思った。昔なら人の視線が痛くて自分の変化を隠した。今は隠す気にならなかった。この人には隠さなくていい。
「あの子の腰がちょっと悪いの」
「うん」
「見えちゃって。触ったらもっとわかる気がして」
「うん」
「わかったら見過ごせなくなる気がして」
「うん」
和也は一度も遮らなかった。ひなたの手を握ったまま静かに聞いていた。
「怖いんだと思う」
「怖い」
「他の人の子に触るのが。自分の子じゃないから」
言葉にすると思ったよりも小さな話だった。ひなたは自分で少し可笑しくなった。
「触れないだけなんだ。嫌いなわけじゃなくて。可愛いとは思う。本当に可愛かった」
「知ってる」
「うん」
「ひなちゃんは優しいよ」
「優しくないよ。手を出さなかった」
「手を出さないのも優しさだと思う」
和也は迷いなく言った。
「無理して触って後悔するより、触らないって決めてる人のほうが俺は信用できる」
ひなたは和也の顔を見上げた。夕方の光が彼の横顔を縁取っていた。
「俺はひなちゃんが、いつ触りたくなってもいいし、触りたくならなくてもいい。どっちでも隣にいる」
「和くん」
「でもひなちゃんが触るなら、俺が隣にいるから。それだけ覚えといて」
ひなたは何も言えなかった。胸の奥が静かに温かくなった。涙は出ない。けれど温度は確かに広がっていた。
「ありがとう」
「うん」
少しの沈黙のあとひなたは顔を上げた。
「和くん手洗って」
「え」
「犬触ったでしょう」
「あ」
和也は自分の右手を見下ろした。それから急に真面目な顔になった。
「そうだった」
「石鹸で二回。手首まで」
「はい」
和也は素直に洗面台へ向かった。ひなたも並んで蛇口をひねった。泡を立てて指の間を一本ずつ洗う。獣医だった頃に何千回と繰り返した順番だった。ホテルの厨房でも同じだった。
「ひなちゃんの膝」
「うん」
「顎乗せられてたよね」
「うん。ここ」
ひなたはコック服の膝のあたりを指さした。和也が頷いてすぐにエプロンの紐を解くのを手伝った。上着ごと脱いで、店の隅の籠に入れる。母屋に着て帰らないための決まりを、今決めた。
「着替えは明日の分を店に置いとこう。外の毛とか土とか家に持ち込みたくない」
「うん。そうしよう」
ひなたは手拭いを湿らせ膝の当たっていた腿のあたりを拭いた。それからアルコールのボトルを取り出して手のひらに広げた。
「もう一回」
「念入りだ」
「あの子たちのためだから」
和也は何も言わず頷いた。ひなたの手のひらを見て、自分の手にも同じようにアルコールを広げた。
それから二人で閉店後の除菌に取りかかった。
円卓の天板を一つずつ拭く。椅子の背と肘掛け。カウンターの縁。メニューの表紙。コップを置く盆。入口の扉の取っ手は内側も外側も念入りに拭いた。窓辺の二人掛けは老婦人たちの座っていた卓だったので布巾を替えて二度拭いた。
「毎日やってるけど今日は丁寧だね」
「今日はちょっとだけ余計に」
「うん」
床の入口付近も拭いた。外の土を運んでくるのは靴だった。老婦人の履物も孫の靴も客の誰であっても同じだった。
最後に入口脇のボトルを新しいものに替えた。この世界の人たちはまだ手を拭いてから食べる習慣をほとんど持たない。それでも客は和也が柔らかく勧めるたびに手を差し出してくれた。それが少しだけ嬉しかった。
母屋の扉を開けると、三つの顔が格子の向こうに並んでいた。
「ただいま」
ひなたは、その前にひとつだけ確かめることがあった。玄関の脇の洗面所で和也と並んでもう一度石鹸で手を洗った。それからアルコールを広げた。
「ひなちゃんは犬に触ってないのに」
「でも店で道具とか触ったから」
「うん。念のためね」
和也は笑って泡を流した。それでも二人は黙々と手首まで洗った。
二重の扉を順に開けてしゃがみ込むと、ミルクが胸に飛び込んできた。大福が膝に前足をかけ、ムギは弟たちが落ち着くまで待ってから、肩に額を押しつけた。ひなたは三匹の背中を順に撫でた。迷いなく手が動いた。毛の下の骨の位置も、呼吸の速さも指先がすぐにわかった。
大福は少し興奮している。ミルクは寂しがっていた。ムギは今日は疲れていない。
ひとつずつ確かめるたびに肩の力が抜けていった。この子たちの体なら怖くなかった。この子たちの命に責任を持つと決めたのは、他の誰でもない自分だった。
「ごめんね。いつもより遅くなった」
ムギが尻尾を一度だけ床に打った。
その向こうでキャットタワーの上から、六つの影がこちらを見下ろしていた。檸檬がするりと降りてきて、足首に体をこすりつけた。喉の奥でごろごろと音を鳴らしている。ひなたは抱き上げて胸に収めた。小さな心臓の音がとくとくと伝わってきた。
「この子たちだけでいい」
呟いた声が思いのほか穏やかだった。
だけど、心の底のほうでは、別の小さな音が鳴っていた。あの老犬の澄んだ目が頭の隅から離れなかった。
いつか私は、あの目に手を伸ばせる日が来るのだろうか。
答えはまだなかった。ひなたは、猫の背中を撫でながら、ゆっくり目を閉じた。窓の外では、浮き灯りが夜の色に変わっていた。和也が台所から顔を出し、湯気の立つマグカップを差し出した。
「ひなちゃん。ココア作った」
「ありがとう」
受け取った両手があたたかかった。




