第27話:門の向こうの小豆
老婦人が通うようになって七日目の午後に窓の外に犬がいた。
厨房の窓越しにひなたが最初に気づいた。通りに面した門の少し先の街灯の根元に小さな茶色い塊が伏せている。
「和くん」
「うん」
「外に犬がいる」
和也がカウンターの内側から身を乗り出して窓の外を見た。
「あ。あのお婆さんのところの子かな」
窓辺の二人掛けに座った老婦人が日傘を椅子に立てかけていた。向かいには十歳くらいの男の子が座っている。足をぶらぶらさせながらプリンを食べていた。孫だと老婦人は先ほど和也に紹介していた。
入口の脇には小さな硝子瓶が置いてある。手指用のアルコールだった。開店の前日にひなたがネットで取り寄せ和也が「お手元によろしければ」と客に勧める決まりになっている。男の子も入ってくるなり和也に言われて素直に手を拭いていた。リードを握っていた手だった。
その仕草を厨房の窓から見ていたので今日のひなたは落ち着いていられた。
「ご迷惑かしら」
老婦人が先ほど言っていた言葉を思い出す。
「この子を連れてくる日は、どうしても外で待たせることになってしまって」
「申し訳ありませんが、お店の敷地には入れません。門の外でしたらどうぞ」
和也はそう答えていた。老婦人は穏やかに頷いた。
窓の外の犬は年を取った雑種だった。茶色の毛並みの鼻先と眉のあたりが白く抜けている。耳は片方だけ折れていた。腹をつけて前足を揃え顔だけをまっすぐこちらへ向けている。
ひなたはその目と目が合った気がして手を止めた。
動物に好かれる体質だというのは昔から言われてきた。公園で知らない犬が寄ってくる。道端の猫が足を止める。けれどあの犬は寄ってこない。ただ見ている。窓一枚と道一本を隔てて静かにひなたを見ていた。
呼吸の速さ。後ろ足の置き方。起き上がるときに左の腰が下がるだろうと予想できる座り方。毛の艶は悪くない。飼い主にきちんと世話をされている老犬だった。それ以上は見えなかったし、見ようとも思わなかった。
「ひなちゃん」
「うん」
「ゼリー二つ。お孫さんが追加だって」
「はい」
ひなたは目を逸らして硝子の器を取り出した。その前に石鹸で手を洗い直した。人前に出す皿を扱う前の習慣だった。指先がほんの少しだけ冷えていた。
その日の営業が終わったのは夕方に近い時刻だった。
和也が看板を裏返し扉の鍵を掛けようとしたとき、通りのほうから声がした。
「すみません」
老婦人だった。日傘をたたんで門の外に立っている。その隣に男の子が犬のリードを握って立っていた。
「厨房の方にひと言お礼を申し上げたくて」
和也がひなたを振り返った。ひなたは手を拭きながら少し考えた。直接客と顔を合わせるのは得意ではない。けれど断る理由も見つからなかった。
「行ってくる」
「俺も行く」
「いいよ、私ひとりで」
「だめ」
即答だった。
「ひなちゃんが行くなら俺も行く」
「過保護」
「うん」
二人で扉を出て門の前まで歩いた。夕方の風が頬を撫でた。浮き灯りが濃い橙色に染まり始めている。
「お嬢さんがお作りに」
「はい」
ひなたが小さく頭を下げると老婦人は両手を前に揃えて深く礼を返した。
「初日にいただいたプリンを今でも思い出すのですよ。何十年も前に亡くなった主人がこういうものを作ってくれたことがあって」
「そうでしたか」
「どうしてかしら。味は全然違うはずなのにね」
老婦人は淡く笑った。それ以上は何も言わなかったし、ひなたもそれ以上は尋ねなかった。人の過去が流れ込んでこない距離がありがたかった。
足元で小さな音がした。
爪が煉瓦を打つ音だった。
視線を落とすと犬が立っていた。男の子の手からリードがゆるく垂れている。老犬は誰にも促されないまま二歩三歩と歩いてひなたの膝の前で止まった。
見上げる目が澄んでいた。
「あれ」
男の子が目を丸くした。
「ポチ、自分から行った」
「ポチではないでしょう。小豆です」
老婦人が窘めるように言ったが、声は少し震えていた。
「この子が自分から人に寄っていくのは珍しいのです。もう年で人見知りがひどくて。うちの者にしか懐かないのですよ」
老犬は小さく鼻を鳴らした。それからゆっくりひなたの膝に顎を乗せた。重みがじんわりと服越しに伝わってきた。体温があった。毛の下で脈が静かに打っていた。
ひなたの手が動きかけた。
指が持ち上がって犬の頭へ向かった。額を撫でて耳の後ろを掻く。いつもの動きだった。ムギにも大福にもミルクにも毎日そうしている。
その手が途中で止まった。
空中で指が固まった。
老犬の腰の骨の位置が目に入った。左の後ろ足の付け根にほんのわずかな歪みがあった。呼吸のたびに肋骨の動きが一拍遅れる。年を取れば誰でもそうなる。けれどこの子を撫でれば、きっとそれ以上のことを手が覚えてしまう。何かを知ってしまう。知ってしまえば見過ごせなくなる。
手術をするかしないか。続けるか見送るか。
あの診察室の低い声が耳の奥で鳴った。
あんたが殺したんだ。
指先がすっと冷えた。
自分のペットなら怖くなかった。自分の家の子は自分が責任を取れる。けれどこの子は違う。この子の命の線は他人の手の中にある。撫でた指が何かを背負わせてしまうかもしれない。
そして、もうひとつ頭の隅で冷静な声がしていた。どれほど大事にされていても外で暮らす犬の毛には街の土と水が染み込んでいる。この足元の煉瓦道をあの子は毎日歩いている。その体に触れた手で家のあの子たちには触れられない。
ひなたの手は宙に浮いたまま下りもしなかった。
その手をあたたかいものが包んだ。
和也の手だった。
何も言わずに指と指を絡めてひなたの手ごと下へ降ろした。それから半歩前に出て老犬とひなたのあいだに自分の肩を入れた。
「小豆くん」
和也がしゃがんで犬の目線に合わせた。
「俺でよければ撫でるよ」
老犬は和也を一度だけ見上げた。それからまたひなたの膝のほうへ視線を戻した。尻尾がゆっくり一度だけ揺れた。
「ごめんね」
和也は犬の背中にそっと手を置いて撫でた。力を入れない撫で方だった。老犬は目を細めて少しだけ身体を預けた。
「こちらのお嬢さんは、動物が好きすぎて照れるんですよ」
和也が笑いながら老婦人に向かって言った。
「好きすぎて」
「ええ。自分の家の子たちで精一杯なんです」
「まあ。そういうこともあるのでしょうね」
老婦人はそれ以上詮索しなかった。ひなたは小さく息を吐いた。肩の力が抜けるまでに少しかかった。
「申し訳ありません」
「いいのですよ。この子は誰にでも懐く子ではないから。寄ってきたということがもう十分です」
老婦人は微笑んだ。男の子がリードを引き直した。老犬は名残惜しそうにもう一度ひなたを見てから孫の足元へ戻った。
「また参りますね」
「お待ちしております」
和也が言った。ひなたは小さく頭を下げた。
三つの影が通りの向こうへ遠ざかっていく。小さな茶色の背中が時々振り返った。ひなたはその姿が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
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