第26話:二人の時間
母屋の玄関を開けた瞬間に三つの影が飛んできた。
ミルクが先頭で、大福が滑りながらそのあとを追う。ムギは一歩遅れて歩いてきて、ひなたの膝に額を押しつけた。夕方に一度顔を見に来たはずなのに、三匹とも今初めて会ったみたいな勢いだった。
「ただいま。待たせたね」
しゃがみ込むと大福が胸に体当たりしてきた。支えきれず後ろへ手をついたところを、和也が背中から受け止めた。
「危ない。ひなちゃん今日は足が弱ってる」
「弱ってない」
「弱ってるよ。階段で一回ふらついたの見た」
「見てたの」
「見てた」
否定できなかった。立ち仕事は慣れているつもりだったのに、今日は朝から一度も座っていない。ホテルの厨房でも、ここまで続けて立った日は少なかった。
まず犬たちのごはんを用意した。専用の器に入れて並べ、「よし」の合図で三つの顔が同時に沈む。猫たちのごはんも低い棚に並べた。キャットタワーの上から、降りてきた六匹がそれぞれの器の前に座った。ももとゆずは並んで檸檬は和也の足元でラスクとショコラは棚の端で。あんずだけは少し離れてひなたを見ていた。
「あんずもおいで」
手を差し出すと白い体が遠慮がちに近づいてきて、自分の器の前に座った。それからひなたの指に一度だけ鼻先を当てた。
水を替えトイレを確かめて窓の鍵を一つずつ見て回る。獣医の頃から変わらない夜の手順だった。和也は何も言わずについてきて、背後で猫の尻尾を踏まないように気を配っていた。
全部終わってソファに沈み込んだとき、身体の芯からため息が出た。
「あー」
「声が年寄り」
「中身は三十歳だもの」
「じゃあ三十歳の足を見せて」
和也が床に膝をついてひなたの足首を持ち上げた。ひなたは慌てて引っ込めようとした。
「何するの」
「ふくらはぎ固いでしょ。ほら」
「触らないで。くすぐったい」
「マッサージしようか」
「和くんのマッサージは力が強すぎるからいい」
「失礼な」
言いながら和也の手が止まった。ひなたの足首を持ったまま急に黙り込んだ。
「どうしたの」
「ひなちゃん」
「うん」
「俺、使えるじゃん」
「何を」
「癒やしの魔法」
ひなたは目を瞬いた。
「あ」
「二人とも忘れてたね」
「ほんとだ」
笑いが先にこみ上げた。マッサージの話をしている間ずっと選択肢の外にあったのだ。ひなたは足を差し出した。
「お願いします」
「はい。じっとしてて」
和也が両手でふくらはぎを包んだ。目を閉じる。手のひらから淡い光がにじみ出た。熱ではなかった。冷たくもない。ぬるい湯に足を沈めたときみたいに、じんわりと染み込んでくる。
固く張っていた筋がほどけていくのがわかった。足首の重さが抜けて、膝の裏の鈍い痛みが溶ける。血が巡ってつま先まで温かくなった。
「うわ」
思わず声が出た。
「すごい」
「痛くない?」
「全然。気持ちいい」
「よかった」
和也の顔が少しだけ得意げに緩んだ。光はそのまま足から腰へ上がっていく。ひなたはソファの背にもたれて目を閉じた。
獣医の目が勝手に動いた。筋肉の疲労物質が流れ出ている感覚。血流が戻る速さ。炎症の熱が引いていく様子。マッサージなら一時間かかる回復が数分で終わろうとしている。
「ねえ和くん」
「うん」
「これ薬と全然違う」
「そうなの」
「うん。ただ治すだけじゃなくて元の状態に戻していく感じ。ずっと使うと便利すぎて怖いくらい」
「ひなちゃんと動物にしか使えないけどね」
「そこがいい」
ひなたは目を開けた。
「他の人にまで使えたら絶対に厄介なことになったよ」
「うん」
和也が穏やかに頷いた。それからふと手を離して自分の肩を回した。
「俺もやろう」
自分の胸の上に手を置いて目を閉じる。淡い光がほんの数秒だけ、和也の身体を包んだ。肩の力が抜けて、首の凝りがほぐれた。
「あー」
「声が年寄り」
「うるさい」
ひなたが笑うと和也も笑った。
そのとき足元に重いものが乗った。ムギだった。ソファの前に座り込み、ひなたの足の甲に顎を乗せている。目を閉じている。耳が少しだけ後ろに倒れていた。
ひなたはムギの背中に手を置いた。
「ムギも疲れてた?」
答えのかわりに低く息を吐いた。ひなたが和也を見ると和也は頷いて手を伸ばした。ムギの首筋にそっと触れる。柔らかな光が毛並みの上に広がった。
ムギの目がゆっくり細くなった。そのまま体重を預けてきた。
「今日はずっと留守番だったもんね」
「弟たちの面倒も見てくれてた」
大福とミルクは、居間の隅で折り重なって眠っていた。猫たちは窓辺のクッションで丸くなっている。檸檬が和也の膝に乗り喉を鳴らしていた。ひなたは、膝の上のももの背中を撫でながら静かに言った。
「幸せだね」
「うん」
「毎日こうだといいのに」
和也は少し間を置いてから言った。
「毎日こうだよ。これから」
「そっか」
その言い方が、ひどく穏やかで当たり前のことみたいに響いたので、ひなたは返事を探すのをやめた。
風呂を終えて寝室へ戻ると和也はもうベッドに腰かけて待っていた。
髪が濡れたままでタオルを首にかけている。ひなたが近づくと両腕を広げた。
「おいで」
「髪濡れてる」
「ひなちゃんが乾かして」
「甘えん坊」
「うん」
素直に頷かれてひなたは笑ってしまった。ドライヤーを持ってきて、和也の背後に回る。熱風を当てながら、指で髪をほぐすと黒髪がふわりと乾いていく。
「ひなちゃんの手が好き」
「何その唐突」
「今日ずっと思ってた。厨房の窓から見える手が」
「見てたの」
「ずっと見てた。仕事してる手がかっこよくて」
ひなたはドライヤーを止めた。耳が熱かった。
「仕事中は見てないで接客して」
「ちゃんとしてたよ」
「してたけど」
「ほら」
和也が振り向いてひなたの腰を引き寄せた。ベッドに座ったままの体勢で、額をひなたの首に押し当てる。
「今日もお疲れさま。ひなちゃん」
声が耳元で低く響いた。さっきまでの店での「いらっしゃいませ」とはまるで違う声だった。ひなたの背筋に小さな震えが走った。
「和くんもお疲れさま」
「ひなちゃんが作るもの全部おいしかった」
「いつも言ってる」
「毎日言いたいんだよ」
「毎日言ったら重くなるよ」
「重くていい」
和也はひなたをそのまま抱き上げてベッドに倒れ込んだ。慌てて手を伸ばしたけれど逃げ場はなく腕の中にすっぽり収まった。背中に回った腕が強く熱い。
「ちょっと」
「ひなちゃん」
「なに」
「顔見せて」
ひなたは首を横に振った。
「やだ」
「なんで」
「今絶対変な顔してる」
「見たい」
「だめ」
「じゃあいい。俺が見ないでいるから」
和也はひなたの頭を胸に引き寄せた。ひなたの顔は彼のシャツの布地に埋まり、心臓の音が耳に響いた。とくとくと少し速い。
たぶん、自分の鼓動のほうがきっと速い。
昔は人の近くにいるだけで、感情が入り込んできて苦しかった。この人の近くだけが違った。鼓動も体温も呼吸も、全部がひとつの音になって胸の奥で落ち着く。
ひなたは顔を埋めたまま小さく言った。
「和くん」
「うん」
「ありがとう」
「今日の?」
「今日の、昨日の、全部」
「どういたしまして」
和也の腕が少しだけ強くなった。ひなたは目を閉じた。
ベッドの端が少し沈んだ。足元にももが乗ってきてくるりと丸くなる。反対側にゆずが跳び乗り尻尾でひなたの足を叩いた。ひなたは和也の胸に頬を押しつけたまま笑った。
「邪魔されるね」
「いいよ。みんな一緒で」
「そうだね」
窓の外では浮き灯りが夜の色を深めていた。足元の二匹の寝息が少しずつ静かになっていく。ひなたはゆっくり身体の力を抜いた。
足は軽かった。肩も軽かった。そして何より、胸の奥がふくらむように温かかった。
「ひなちゃん」
「ん」
「おやすみ」
「おやすみ。和くん」
耳元に小さな唇が触れた気がした。ひなたは目を閉じたまま口元を緩めた。
明日もきっと同じ朝が来る。そう思えることが贅沢だった。




