第25話:おつかれさま
午後三時を過ぎて列がようやく途切れた。
和也がカウンターに両肘をついて額を押しつけた。
「ひなちゃんもう足の感覚ない」
「座ってて。コーヒー淹れる」
「俺が淹れるよ」
「いいから」
ひなたは新しい豆を挽き湯を細く落とした。深煎りの香りが厨房に広がる。カップを二つ並べ片方を和也の前に置いた。
「お疲れさま」
「ありがとう」
和也が一口含んで長く息を吐いた。
「今日の売り上げ見た?」
「見てない」
「数えたけど怖くなった」
「どれくらい」
「商店街の人が一か月で稼ぐくらい」
ひなたは目を瞬いた。それから小さく笑った。
「そんなに」
「ひなちゃんのせいだよ」
「和くんのコーヒーもでしょう」
「そうだけど」
窓の外では浮き灯りが午後の光を受けて淡く揺れていた。通りにはまだ店を振り返っていく人の姿があった。
「ねえ、ひなちゃん」
「うん」
「混みすぎたら体壊すよね」
「そうだね」
「人数絞ろうか。一日に出せる数だけ作って終わったら閉めるとか」
「いいと思う」
ひなたは即答した。
「あの子たちが待ってるから。夕方には閉めたい」
和也が優しい顔になった。
「それ一番大事なやつだ」
「うん」
ひなたはコーヒーを飲み干しカップを置いた。
「ちょっと顔見てくる」
「俺も行く」
二人で母屋の扉の前に立った。鍵を回して外の扉を開けると内側の格子の向こうに三つの顔が並んでいた。ムギは行儀よく座っている。大福とミルクはその後ろで身を乗り出していた。
「ただいま。待っててくれたの」
二重の扉を順に開けてしゃがんだ。三つの鼻先が手のひらに順番に触れた。ひんやりと湿っていた。大福が膝に前足をかけミルクが頬を舐めようとする。ムギは弟たちが落ち着くまで待ってから肩に額を押しつけた。
「えらかったね」
その向こうで猫たちがキャットタワーの上から見下ろしていた。檸檬が一段だけ降りてきて足首に体をこすりつけた。ラスクとショコラは和也の足元に寄り添い、あんずはももとゆずのあいだに挟まれてじっとこちらを見ていた。
ひなたは、犬たちのごはんの器に目をやり水を満たし直した。それから猫の水入れも確かめた。ひとつずつ点検する。獣医の頃の癖がそのまま暮らしの習慣になっていた。
「あと夕方に交代で出すから」
「うん」
「ごはんは店じまいの後でゆっくり」
和也が頷いた。ひなたは扉を閉める前に、もう一度、三つの顔を見た。ムギが尻尾を一度だけ床に打った。
夕方に店を閉めると、和也が看板を裏返して鍵を掛けた。
「ひなちゃん」
「うん」
「今日の最後のお客さんがね」
「うん」
「帰りに言ってたよ。この店のおかげで明日も仕事に行ける気がするって」
ひなたは少し黙った。それから静かに答えた。
「そう」
「嬉しくない?」
「嬉しいよ」
ひなたは和也の袖を軽くつまんだ。
「ただ私は和くんが笑ってるのが、一番嬉しい」
和也は一瞬動きを止めた。それから耳の先まで赤くなって顔を逸らした。
「そういうのは営業後に言ってくれればいいんだよ」
「いま営業後だよ」
「あ。ほんとだ」
二人で笑った。母屋の窓には灯りがともり、二階の窓辺に小さな影がいくつも並んでいた。浮き灯りが夕暮れの空に、ひとつずつ色を濃くしていく。
噂は街を渡る水のように静かに広がっていた。けれど二人の帰る家は、いつもと同じ温度のままそこにあった。
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