第24話:店の噂と行列
開店から五日目の朝に店の前に人が並んでいた。
和也が二階の窓から見下ろして固まった。
「ひなちゃん」
「どうしたの」
「並んでる」
「何が」
「お客さん。開店の一時間前なのに」
ひなたはエプロンの紐を結ぶ手を止めて窓辺に寄った。通りの端まで細い列ができている。着物の女性たち。洋装の紳士。学生帽の少年が二人。みんな妙に静かに待っていた。
「どうして」
「わからない。でも昨日の夕方くらいから変な感じはしてた」
「変な感じ」
「おいしかったってお客さんが言うたびに、次のお客さんが増えてた。口から口に回ってる」
ひなたは窓の外の列を見ていた。胸が高鳴るわけでもなく怖いわけでもなかった。ただ仕込みの量が足りるかどうかだけが頭に浮かんだ。
「プリンを倍焼く」
「そっち?」
「そっち」
和也が吹き出した。
犬たちのごはんは早めに済ませた。ムギと大福とミルクを家の中に置き水を満たす。ミルクが玄関の格子の前から動かないので、額に鼻先をくっつけて小さく話しかけた。
「今日は少し長くなるかも。お昼にちゃんと来るからね」
ムギがミルクの隣に座り直した。横顔に落ち着いた色があった。ひなたはそれに背中を押されるように二重の扉を閉めた。
扉を開けると最初の客がまっすぐカウンターに向かってきた。
「ここの生クリームは本物だと聞きました」
背広の中年の男だった。目の下に隈があり指先が荒れている。商店街の端で洋食の店を開いている主人だと名乗った。
「本物と申しますと」
和也が穏やかに返した。
「うちも昔は仕入れていたんです。バターも生乳も。ですが今は運ぶだけで傷む。氷を積んでも着く頃には匂いが変わる。貴族の屋敷でしか本物には出会えなくなりました」
男の視線が厨房の窓へ流れた。ひなたはそちらを見ずに手を動かした。
「ここの噂を聞いて確かめに来ました。一皿いただけますか」
「ショートケーキでよろしいですか」
「それを」
和也が皿を運び、ひなたは厨房で次の準備を続けた。窓の向こうで男がフォークを入れるのが見えた。クリームが割れる。口に運ぶ。
しばらく、固まっていた。
そして男は、手の甲で目の下を拭った。それから何も言わずに、最後の一口まで食べ切った。
「お代はおいくらで」
「お品書きの通りです」
「安い」
男は低く言った。
「こんな値段であっていいわけがない」
「うちはこの値段でやります」
和也は笑顔のまま変えなかった。男は少し黙ってから深く頭を下げて出ていった。
ひなたは泡立て器を握り直した。この世界で、生クリームがどれほど遠いものなのかは、商店街で知っていた。けれど、目の前で食べる人の顔を見るのは別だった。
その顔を胸の奥にそっと仕舞った。それ以上広げる必要はなかった。
昼前には店の中の円卓がすべて埋まった。
和也は水を注ぎ、注文を聞き、皿を運び、会計を済ませた。ひとつの動きの間に必ずひと言添えた。
「お待たせしました」
「熱いのでお気をつけて」
「そちらの席は日が当たりますよ」
客の顔がほどけていくのが厨房の窓越しにわかった。
ひなたは、仕込みの合間に窓から客席を見た。人の気持ちは流れ込んでこない。ただ客の背中と手元と皿の空き具合だけが、静かに目に入った。それで十分だった。
窓際の二人掛けには、若い女がひとりで座っていた。
袖口の擦り切れた着物に細い手首。髪はきちんと結われているのに、爪の間だけが灰色に荒れていた。女はお品書きを両手で持って長い間、動かなかった。
和也が近づいた。
「お決まりですか」
「あの。一番安いものは」
声が小さかった。
「ゼリーならこちらです」
「ではそれを」
「承知しました」
和也が戻ってきて、厨房の窓越しに目で合図を送った。ひなたは頷いた。紫から橙へ染まった硝子の器を取り出し銀の匙を添える。
「ひなちゃん」
「うん」
「あの人ゼリーを一個だけ頼んだんだけど」
「うん」
「ちょっとだけ多めにって言ったら失礼かな」
「失礼だと思う」
「だよね」
ひなたは少し考えて、ゼリーの上に薄切りの苺を二枚足した。余った切れ端だった。和也は何も言わずに受け取った。
女の卓に器が置かれた。
苺に気づいた女の目が少しだけ見開かれた。和也を見上げた。和也は穏やかに微笑んで、一礼するだけで何も言わずに離れた。
女は匙で苺をすくい口に運んだ。
それから静かに肩を震わせた。
ひなたは窓から目を逸らした。見ていてはいけない気がした。人の感情が流れ込んでくるわけではない。ただ人が黙って食べる姿に、余計な視線を向けないことは昔から知っていた。
会計のとき女は小さな布袋から硬貨を数えて出した。
「あの」
「はい」
「兄が水の仕事をしていて。給金が出たので。たまにはと思って」
和也は笑顔のまま頷いた。
「お越しいただきありがとうございます」
「また来てもいいですか」
「いつでも」
女が出ていったあと、和也は窓際の卓を片付けながらひなたの方を向いた。口は動かなかったが、目が言っていた。
あれは俺たちの世界の話じゃない。
ひなたも小さく頷いた。
今はただ空いた器を洗う。それがここでの自分たちの仕事だった。




