第23話:初めてのお客さん
最初の十五分は誰も来なかった。
和也はカウンターの内側で何度もコップを拭き直していた。ひなたは厨房で何度も同じ皿を並べ替えた。二人とも同じことをしているとわかって、顔を見合わせて吹き出した。
「焦っても仕方ないね」
「来るときは来るよ」
「うん」
そのとき扉の外に影が差した。
日傘の影だった。
白い日傘をたたんで入口に立っていたのは、先日窓の外から店の中を覗いていた老婦人だった。藤色の着物にきちんと結い上げた白髪。小さな手提げ袋を両手で抱えるように持っている。
「あの」
声が少し震えていた。
「こちらは女が一人で入ってもよろしいのかしら」
和也の背筋が静かに伸びた。さっきまでの緊張がすっと消えて目の色が変わった。人嫌いのくせに人当たりが、別物だと言った顔だった。
「いらっしゃいませ」
その声が店の中に柔らかく響いた。
「お一人でもお二人でも大歓迎です。お好きなお席へどうぞ」
老婦人は目を瞬いた。それから小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
「まあ」
「窓際の席が日当たりいいですよ。お荷物はそちらの籠にどうぞ」
「ありがとう。ご親切に」
老婦人は窓辺の二人掛けに腰を下ろした。背筋はまっすぐなのに、手提げ袋を膝の上に置いた手が少し落ち着かなかった。和也は水の入った硝子のコップをそっと卓に置いた。
「こちらがお品書きです。ゆっくりご覧ください」
ひなたは厨房の窓からその様子を見ていた。
当たり前だが、知らない人の顔だった。以前なら、視線の先にいるだけで肩が固くなってたけれど、今は窓一枚隔てた向こうの景色として、落ち着いて見ていられる。人の気持ちが流れ込んでこない。ただ和也の背中だけは見ていて飽きなかった。
「いらっしゃいませ」
もう一度小さく聞こえた。
ひなたはその響きを胸の中で転がした。営業職だった頃の和也が使っていた声とは違った。もっと低くてやわらかくて芯に温度がある。誰に向けた言葉でもないのに、この店の空気をまるごと受け止めるような声だった。
自分でも気づかないうちに、口元が緩んでいた。
「ひなちゃん」
厨房の窓越しに和也が小声で呼んだ。
「注文入った。プリン・アラモードとブレンド」
「はい」
「あのお客さん一番大きいやつがいいって」
「一番大きいの?」
「顔がちょっとだけ迷ってたから」
ひなたは頷いた。ガラス皿にプリンを据え周りに苺と桃を並べた。生クリームを絞りアイスクリームを一つ乗せる。ミントを一枚。完成した皿を窓越しに差し出すと和也が両手で受け取った。
「行ってくる」
「うん」
和也が卓へ運ぶあいだひなたはコーヒーを淹れた。深煎りの豆の香りが湯気と一緒に立ちのぼった。カップを温めて静かに注ぐ。
窓越しに老婦人の顔が見えた。
皿の上の艶やかなプリンを見て目を丸くしている。それから小さなスプーンを持ち上げ恐る恐る一口すくった。口に運ぶ。
和也が少し離れたところで微笑んで待っている。老婦人の目がゆっくり閉じた。それから静かに開いて遠いところを見るようにスプーンを見つめた。
「あら」
小さな声が厨房まで届いた。
「懐かしい」
ひなたの手が止まった。
「どこかで食べたことのあるような」
老婦人はもう一口食べた。カラメルのほろ苦さを舌の上で確かめるようにゆっくりと。それから残りを一さじずつ大切に口に運んでいった。皿が空になるまで誰も声をかけなかった。
最後の一さじを食べ終えて、老婦人は少しの間、動かなかった。それから和也のほうを向いた。
「お嬢さん方に伝えてくださる?」
「僕がお伝えします」
「こんなに丁寧な甘いものを食べたのは、何十年ぶりかしら。生きているうちにまた食べられるなんて思わなかったわ」
和也はゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます。厨房の者に必ず伝えます」
「それと」
老婦人はコーヒーカップを両手で包んだ。
「このお珈琲もおいしいのよ」
「ありがとうございます。そちらは僕が淹れました」
「あなたが」
「はい」
「そう。ふたりとも才能があるのね」
和也は少しだけ照れたように笑った。それから厨房を振り返り窓越しに目で合図をした。ひなたは小さく手を挙げた。
それだけでよかった。
老婦人が支払いを済ませ日傘を広げて店を出るとき、扉の前で振り返った。
「また来てもいいかしら」
「お待ちしております」
和也が言った。声が少しだけ弾んでいた。
扉が閉まると店の中がふっと静かになった。和也が厨房の窓までやって来て額を窓枠に押しつけた。
「ひなちゃん」
「うん」
「最初のお客さん」
「うん」
「食べてくれた」
「うん」
「俺、今泣きそうなんだけど」
「泣かないで」
ひなたはそう言いながら、自分の胸の奥が確かに熱くなっているのを感じた。涙は出ないけれど温度だけがゆっくり広がっていく。
窓の向こうで和也が笑った。嬉しさが溢れて止まらない笑い方だった。ひなたはその顔を見ていて自然に口元が緩んだ。
「次のお客さん来るよ」
「え」
「ほら」
通りから足音が近づいていた。二人連れの女学生が立ち止まり、看板を見上げて扉に手をかける。和也が慌てて背筋を伸ばしコップを拭く振りをした。
「いらっしゃいませ」
厨房の窓越しに聞こえる声がもう一度店の中を満たした。ひなたは布巾を置いて息を整えた。
ここからが本番だった。
昼を過ぎるころには、客席の六つの円卓のうち四つが埋まっていた。
窓辺の二人掛けでは、女学生たちが皿を挟んで小声で笑っていた。奥の円卓では洋装の夫婦が、ショートケーキを前に黙って見つめ合っている。「溶ける」という言葉が何度も聞こえた。誰かが大きな声で「雪みたい」と、言い隣の席の客が思わず頷いた。
ひなたは休む暇なく手を動かした。プリンを盛りケーキを切りゼリーを硝子の器に移す。迷いのない手を頭の中の灯りが静かに導いてくれた。
だけど、忙しさの中でも、たまに窓の向こうに目をやった。和也が客と目を合わせて、笑い皿を置きコーヒーを注ぐ。その背中は軽やかで少しも疲れて見えなかった。
「ひなちゃん」
和也が窓越しに声をかけた。
「今ちょっと昼休みでもいいかな。母屋の子たち見てきて」
「行ってきて。私はここで平気」
「ひなちゃんは行かないの」
「私は和くんが戻ってきてから」
「俺が見てくるね」
和也が出ていく背中を見送り、ひなたは窓から外を眺めた。浮き灯りが、昼の光にうっすら溶けて通りを歩く人の頭の上で、ゆっくり漂っている。
数分後に戻ってきた和也が小声で報告した。
「ムギたち全員元気。ミルクが玄関で待ってたけど俺の顔見たら尻尾振ってた。猫たちはタワーの上で昼寝」
「よかった」
「ひなちゃんによろしくって言ってた気がする」
「気がするだけでしょ」
「そうかな」
和也が笑った。ひなたも釣られて笑った。
午後は少しずつ客足が落ち着いた。夕方に近づくころには店の中は静かになりカウンターの前で和也がコップを拭いていた。ひなたは厨房の窓際で最後の皿を磨いた。西日が窓から差し込み床板を朱色に染めている。
「お疲れさま」
「うん。お疲れさま」
和也が看板の札を裏返しに行った。
「営業中」が「準備中」に戻った。扉の鍵をかけて店の中に戻ってくると、二人はカウンターの内と外で向かい合った。
「初日が終わった」
「うん」
「どうだった?」
「ひなちゃんの料理が全部なくなった」
「それは和くんが運んでくれたから」
「違うよ。みんな言ってた。また来るって」
和也がカウンターを回って厨房へ入ってきた。ひなたの前で立ち止まり、少し照れたように頭を掻いた。
「俺これからもここで『いらっしゃいませ』って言っていい?」
「何それ」
「言いたいんだよ」
「毎日言うんでしょう」
「毎日言う」
「じゃあ毎日聞くよ」
和也が嬉しそうに口元を押さえた。ひなたは布巾を置いて背伸びをした。和也の肩に額を軽く押し当てる。
「お疲れさま。和くん」
「ひなちゃんもお疲れさま」
窓の外で浮き灯りが、ゆっくり夕暮れの色に染まっていく。母屋のほうから小さな犬の鳴き声が一度だけ聞こえた。きっとムギだと思った。
「帰ろうか」
「うん。みんなが待ってる」
二人は手を繋いで店を出た。看板の「ルーチェ」の文字が夕日の中に黒くくっきりと浮かんでいた。




