第22話:開店準備
開店の朝は、目覚ましより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から藍色の光が細く差していて、隣では和也が仰向けで寝息を立てていた。珍しく腕が腰に回っていない。代わりに指先だけがひなたの袖をつまんでいた。
「和くん。起きて」
「ん……まだ暗い」
「今日は開店でしょう」
その一言で和也は目を開けた。天井を見て数秒黙り込み、勢いよく起き上がった。
「開店だ」
「うん」
「俺なんか緊張してきた」
「営業の人が?」
「営業だったからこそだよ。初日が一番怖いの知ってるもん」
寝癖のついた頭でそう言うので、説得力がなかった。ひなたは笑って先にベッドを出た。
階段の下ではムギが座って待っていた。その後ろに大福とミルク。リビングのキャットタワーの上では、猫たちがそれぞれの高さで丸くなっている。ひなたが近づくと、檸檬が一番に降りてきて足首に体をこすりつけた。
「おはよう。今日はね、私たちお店に行ってる時間が長いの」
返事の代わりに檸檬の尻尾が足に巻きついた。
犬たちのごはんを器に入れると、ムギと大福とミルクが並んで座り、「よし」の合図で三つの顔が同時に沈む。猫たちのごはんも低い棚の上に並べた。自分達の朝ごはんは、台所の隅で立ったまま済ませた。
犬たちを庭で走らせる時間は短くした。ひなたが芝の上で三匹を見ているあいだに、和也が別棟の鍵を開けに行った。戻ってきた顔が少し赤かった。
「店の中あったかかった。ひなちゃんが昨日のうちに火入れてたの偉い」
「オーブンは温めておくものだからね」
三匹を家の中に戻して水を満たした。ミルクが玄関の格子の前で鼻先を押しつけたまま動かない。ひなたはしゃがんで背中を撫でた。
「お留守番お願いね。お昼に一度、顔を見に来るから」
ムギがミルクの隣に座り直した。弟分を見張るみたいに体を寄せている。それを見て胸の奥が少しだけ軽くなった。
二重の扉を閉めて庭に出た。
店に入ると、窓から朝の光が床いっぱいに流れ込んでいた。
ひなたは厨房に立ち手を洗った。ネットで取り寄せた白いコック服に袖を通す。ホテルの厨房で毎日着ていたものと同じ形だ。襟を整えて帽子を被ると背筋が自然に伸びた。
プリンは昨夜のうちに蒸して冷やしてある。ショートケーキのスポンジも焼き上がっている。あとは生クリームを立てて苺を飾るだけだった。ゼリーは硝子の器の中で夕暮れの色に固まっている。紫から橙へ。バタフライピーと柑橘が溶け合う境目が窓の光で透けている。
「きれい」
いつの間にか和也が厨房の入口に立っていた。黒いシャツに黒いエプロン。髪を撫でつけて前髪だけが少し跳ねている。
「どうかな」
「何が」
「これ。変じゃない?」
ひなたは和也の頭の先から足の先までゆっくり見た。二十歳に戻った顔にきちんとした服がよく似合っていた。ひなたは自分の頬が緩みそうになるのをこらえた。
「変じゃない」
「ほんと」
「かっこいいよ」
和也は片手で顔を覆って後ろを向いた。耳の先まで赤くなっている。
「そういうのは営業前に言わないで」
「事実を言っただけ」
開店の時刻まであと半刻だった。和也がカウンターの内側に立ち、コーヒーの豆を挽くと、香ばしい匂いが店の中に広がっていく。ひなたは生クリームを泡立てた。羽根が回るたびにボウルの中で白がしなやかに立ち上がる。
「いまだ」
手を止めた瞬間にクリームの先が小さくお辞儀をした。
和也が厨房の窓から覗いて親指を立てた。
「完璧」
「まだお客さん来てないよ」
「俺はもう食べたいけど」
「だめ。お客さんが先」
ひなたは、苺を一粒ずつ並べた。
窓の外ではいつもの通りに人が歩いていた。着物姿の女の子たちが笑いながら通り過ぎる。洋装の紳士が立ち止まって、看板を見上げる。袴の学生が連れ立って足早に過ぎていく。
「ルーチェ」
誰かが小さく読み上げる声がした。
和也がカウンターの内側で背筋を伸ばした。ひなたは厨房の窓の向こうで布巾を握り直した。
「開けるね」
「うん」
和也が入口まで歩いていった。扉に手をかけ札を裏返す。
「準備中」が「営業中」に変わった。
扉を開けた瞬間に朝の風が店の中に入ってきた。




