第19話:試食会
店の厨房に入れるのは自分達だけなので、試作は母屋の台所でやることにした。
作業台の上には、ネットで取り寄せた材料が並んでいる。生クリームの紙パックが四つ。バター。苺のパック。薄力粉に卵に牛乳。ひなたは苺のパックをそっと持ち上げて光にかざした。赤が濃くて粒が揃っている。
「苺ってこの世界じゃ、超高級品なんだよね」
和也が隣で腕まくりをしながら言った。
「商店街の八百屋さんに聞いたら、遠くから運ぶだけで傷むから貴族の食べ物だって」
「こっちは、箱の中で時間が止まってたからね」
「ずるいよなあ」
「ずるくていいの」
ひなたは笑ってエプロンの紐を結んだ。
足元には犬たちが三角形に座っている。ムギが一番前でその後ろに大福とミルク。作業台に前足をかける子はいない。猫たちも台所の入口あたりに集まっていた。檸檬は和也の足元で、ラスクとショコラは冷蔵庫の脇の日だまり。あんずはひなたのスリッパの横で丸くなっていた。
「ごめんね。今日は味見が多いけど、私たちのぶんだけだから」
そう言うとムギが短く鼻を鳴らして伏せた。みんなそれにならった。
まずはプリンから。
卵を割り牛乳を温め砂糖を溶かす。手が勝手に動いた。ざるで濾すタイミングも、蒸し器の火を落とす瞬間も、頭の中に先に灯りがともる。前回、作った家庭用の分量ではなく店で出す何十個分の段取りまでが最初から地図のように見えた。
「ひなちゃん、今日は手が止まらないね」
「うん。ちょっと変な感じ」
「気持ち悪い?」
「ううん」
ひなたは小鍋のカラメルを見つめた。縁から茶色が広がり泡が細かくなる。焦げる一秒前に火を止めた。これは考えたというより知っていた。
「私の手がずっとやってきたことを、先回りして教えてくれる感じ」
「ひなちゃんの手が優秀すぎて、頭が追いついてないんだ」
「そうかも」
和也が真面目な顔で頷いたので、ひなたは吹き出した。
蒸し上がったプリンを冷ましている間に、スポンジを焼いた。卵白を泡立てる。粉をふるう。さっくり混ぜる。オーブンの扉を閉めたときひなたは息を詰めていた。ホテルの厨房では失敗する日もあった。膨らまなかった日。焼きすぎた日。けれど今日は不思議と祈る気持ちにならなかった。
扉の向こうで、スポンジがゆっくり背を伸ばしていく。
「あ」
和也が窓を覗き込んで小さな声を上げた。
「膨らんでる。すごい均等に」
「ほんとだ」
焼き上がりを取り出して粗熱を取り生クリームを泡立てた。ボウルの底を氷水に当てて羽根を回す。ふんわりとした白がつのの形に立ち上がる直前で手を止めた。
「(今だ)」
自分でも驚くほど迷いがなかった。クリームの先端が少しだけ頭を垂れる。まるで雪が降り積もったあとの柔らかな肩みたいだった。
スポンジを三枚に切ってクリームを塗り苺を並べる。重ねるたびに断面に赤と白の層ができた。最後に表面を滑らかにならして苺を一粒ずつ置いていく。
「できた」
ひなたが言うと和也は、皿の前に立ち尽くしていた。
「きれいだ」
「食べてみて」
「いいの」
「そのために作ったんだよ」
和也はフォークを入れて切り分けた。クリームがすっと割れて断面から苺の果汁がにじんだ。一口運んで口を閉じて、固まった。
「和くん?」
「溶けた」
「え」
「口に入れた途端に溶けたんだけど。クリームが雪みたいに」
和也の目がゆっくり開いてひなたを見た。
「ひなちゃん天才なんじゃないの」
「大げさ」
「大げさじゃない。待って。もう一口」
二口目を食べてまた黙った。三口目で自分の頬を押さえた。
「俺こんなの食べたことない」
「それは、取り寄せの生クリームがいいからだよ」
「違うよ。ひなちゃんが作ったから」
ひなたは自分の分を切って口に運んだ。唇に触れた瞬間にクリームがほどけた。甘さの輪郭がふわりと広がって、苺の酸味がすぐあとを追いかけてくる。スポンジはしっとりとして舌の上で形を失った。
確かに今まで作ったどのショートケーキとも違っていた。それなのに知らない味ではなかった。何度も頭の中で描いてきた通りの味だった。
「おいしい」
自然と声が出た。
「でしょ」
「うん」
胸の奥でとくんと小さな音がした。ホテルの厨房でも毎日お菓子を作っていたのに、誰かのために焼いたものがここまで嬉しいと思ったのは久しぶりだった。
次はプリン・アラモードだった。
冷やしたプリンを皿の真ん中に据える。周りに苺を切って並べ缶詰ではなく取り寄せの桃を薄くスライスして添えた。泡立てた生クリームを絞り袋でぐるりと絞り最後に小さなアイスクリームを一つ。ミントの葉を一枚のせれば完成だった。
「かわいい」
和也が皿の前で手を合わせた。
「写真撮っていい?」
「撮っていいけど溶けるよ」
「ちょっとだけ」
スマホを構えて何枚も撮ってる。ひなたはその間にコーヒーを淹れた。取り寄せた豆を和也が挽いてくれて、深く香ばしい匂いが台所に広がる。
「このコーヒーと合わせて出そう。甘いものに苦いのが合うから」
「接客は任せて。俺がお客さんに合う飲み物を選ぶ」
「営業の腕の見せどころだね」
「元営業だからね」
和也が胸を張った。プリンにスプーンを入れ一口食べて目を細める。そのままコーヒーを一口含んで深く息を吐いた。
「ひなちゃん」
「うん」
「これ毎日食べたい」
「毎日出すお店だよ」
「そっか。そうだった」
二人で笑った。
台所には甘い匂いとコーヒーの匂いが混ざって立ち込めていた。窓の外では浮き灯りが昼の光の中でぼんやりと揺れている。
足元ではまだ犬たちがおとなしく座っていた。ひなたは、作業台の下の小さな箱を開けた。昨夜のうちに取り寄せておいた犬用のおやつと猫用のおやつ。それぞれの袋に名前が書かれている。
「お待たせ。みんなもお疲れさま」
袋を開けるとムギの耳がぴんと立った。ひなたは手のひらに乗せて差し出した。犬用の小さなビスケットを一つずつ。ムギは前足を揃えたままゆっくり口を近づけて受け取った。大福は一粒を咥えて嬉しそうに首を振りミルクは膝に前足をかけて催促した。
「順番だよ」
猫たちにも猫用のおやつを分けた。檸檬が一番に近づいてきて掌に鼻先を押しつけた。ラスクとショコラは和也の手のひらにそれぞれ顔を寄せている。あんずだけが遠慮がちにひなたの膝の端から手を伸ばした。
「あんずもどうぞ」
小さな前足がそっと掌に乗った。ざらりとした舌が指先をなでた。ももとゆずはいつの間にかひなたの足元に来ていて二匹並んで同じ器の前に座っていた。
ケーキの皿には誰も鼻を向けず、自分たちのおやつだけを見ている背中が並んでいる。ひなたはそれを眺めて胸の奥がゆっくりとあたたまるのを感じた。
「ひなちゃん」
「うん」
「こっち見て」
和也が向けたスマホの画面に犬と猫と自分たちが一緒に映っていた。勝手に撮られていたらしい。ムギが真ん中で大福とミルクが左右に寄り添い猫たちがその周りに丸くなっている。ひなたはクリームのついた頬のまま笑っていた。
「これ待ち受けにしていい?」
「だめ。顔にクリームついてる」
「それがいいんだよ」
「やだ」
ひなたが画面を取り上げようとすると和也は腕を伸ばして逃げた。ミルクが足元でぐるぐる回って二人の間に割り込んだ。ひなたは笑いながら体勢を崩し和也の肩に寄りかかる形になった。
「あ」
「ごめん」
「謝らなくていいよ。むしろもっと」
「調子に乗らないの」
けれど離れなかった。
ひなたは和也の肩に頭を預けたまま目を閉じた。スキルというのは不思議だと思った。作れないはずのものが作れてしまう。けれどそれで胸の奥まであたたかくなるのは、自分の中にもともとあった何かが応えているからだ。味見をしなくてもわかる。それでもこの人が笑ってくれる顔だけは、頭の中で作った味では測れなかった。
「ひなちゃんの料理は世界で一番だ」
「世界で一番は大げさ」
「この世界でもあの世界でも」
「もう」
照れくささが耳まで届いた。ひなたは和也の袖をつまんで顔を埋めた。
試食会は夕方まで続いた。ゼリーも試しコンフィチュールを溶かす紅茶も試した。ひとつ食べるたびに、和也が感想を言い足りなくなって黙り込み、ひなたが笑った。
日が落ちる頃台所は、甘い香りでいっぱいだった。犬たちは床に伸びて寝息を立て、猫たちは窓際で毛づくろいをしている。ひなたは洗い物を片付けながら窓の外を見た。別棟の屋根の上に浮き灯りがひとつゆっくり色づいていく。
「あそこで、これを出すんだね」
「うん」
「お客さん来てくれるかな」
「来るよ」
和也が迷いなく言った。
「こんなにおいしいんだから」
ひなたは頷いて、スポンジの最後の一切れを皿に取った。半分に割って片方を和也の口元に運ぶ。和也は目を丸くして、それから嬉しそうにぱくりと食べた。
「ひなちゃんの手から食べると倍おいしい」
「調子に乗らない」
「はい」
言いながらもひなたの口元は緩んでいた。窓の外の灯りの下で店の看板が静かに夜を待っている。
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