第18話:ネットショッピングと防衛策
猫たちのごはんの袋が、心許なくなっているのに気づいたのは夕方だった。
ひなたは台所の戸棚を開けて袋を振った。かさりと軽い音がした。前の家から持ってきた分はもう底が見えている。ドッグフードの袋も同じだった。
「和くん」
「ん」
「ごはんが、あと少ししかない」
居間で大福の足を拭いていた和也が顔を上げた。ミルクが拭き終わった足でそのまま膝に乗ってくる。
「あ」
「昨日から数えて、三日はもたないかな」
「商店街にないかな」
「あっても買わないよ」
ひなたは即答した。魚屋の台を飛んでいたハエが頭の隅に残っていた。肉屋の軒先の染みも。人間の口に入るものでさえ、あの状態なのだ。あの子たちの体に入るものを見ず知らずの店で選ぶ気にはなれなかった。
「取り寄せるよ」
「全部?」
「全部」
スマホを取り出して、買い物かごのアイコンを開いた。猫砂を頼んだときの画面がそのまま出てくる。検索欄に使っていたメーカーの名前を打ち込むと、見慣れたパッケージが並んだ。
「あった」
声が少し跳ねたのが自分でもわかった。
「前と同じやつ」
「同じ袋だ。この青いの」
和也が肩越しに覗き込む。ひなたは一つずつ商品の説明を開いた。原材料の並び順。たんぱく質と脂質の数値。獣医の頃に癖になった確認の仕方だった。
「大福とミルクはまだ成長期だから子犬用が要る。ムギは成犬用。猫は檸檬たちが子猫用で、ももとゆずはもう少しだけ待って成猫用に切り替える」
「ひなちゃん早口」
「ごめん」
「謝らなくていいよ。楽しそうだから」
言われて初めて頬が緩んでいるのに気づいた。指先は画面の上を迷わず動いていた。
数量の欄に入れた数字を見て和也が吹き出した。
「十袋?」
「止まるんでしょ。箱の中は」
「まあそうだけど」
「腐らないし湿気もしないし。ここで切らすほうが怖い」
「それはそうだ」
購入ボタンを押すと、数秒後に和也が目を閉じた。
「入ってる。ずらっと」
「全部?」
「全部。袋の山」
「猫砂のときみたいに、六袋って押してないよね」
「今日はちゃんと確認したよ」
笑い合ってから次の画面に移った。
人間の食べ物のページはひなたの想像以上に揃っていた。お米。味噌。醤油。みりん。鰹節。昆布。海苔。冷凍の魚の切り身まで並んでいる。ひなたは画面をスクロールする親指を止めた。
「納豆がある」
「え」
「納豆」
「うそ」
和也がスマホを奪いかけて自分の手を引っ込めた。ひなたの手元にそっと顔を寄せる。
「ひなちゃん、それ買おう。絶対買おう」
「和くん納豆好きだったっけ」
「今好きになった」
「単純だなあ」
そう言いながら、ひなたもかごに入れた。気づけば味噌も醤油も前の家で使っていた銘柄を探している自分がいた。それを選ぶたびに胸の奥が静かに温かくなった。あちらの台所の匂いがここにも来る。
和也が横から指を伸ばして、別の商品を叩いた。
「これは」
「ポテトチップス」
「入れていい?」
「一袋だけ」
「ひなちゃんが決めるの?」
「私が食べる分もあるから」
和也の顔がぱっと明るくなった。ひなたは小さく笑ってかごの端にもう一袋足した。
届いたものはどれも日本の包装のままだった。ひなたは作業台に袋を並べて一つずつ手のひらで撫でた。見慣れた文字。見慣れた色。見慣れた匂い。
「帰ってきたみたいだ」
和也がぽつりと言った。
「ね」
「ここ、日本じゃないのにね」
「でもこれは日本だよ」
ひなたは醤油の瓶を持ち上げて光にかざした。琥珀色の液体が小さく揺れた。
犬たちのごはんは専用の器に入れて並べた。ムギと大福とミルクが並んで座り合図を待つ。ひなたが「よし」と言うと三つの顔が同時に器へ沈んだ。袋の中身が前と同じだと確かめるように、ムギが最初のひと口をゆっくり噛みしめた。
二階では、まだ降りてこない猫たちのごはんを用意した。檸檬たち四匹の器とももとゆずの器。それぞれの前に置くと乾いた粒を噛む音が踊り場に静かに広がった。
「喜んでる」
「うん」
「ひなちゃんが、顔でわかるって言ってたもんね」
「わかるよ」
その夜片付けを終えたあと、和也がタブレットを持ってきた。
「ひなちゃんこれ見てみて」
画面にはフォルダがずらりと並んでいた。パソコンから移した家族写真。ホテルの厨房。ムギを迎えた日。結婚式。和也が慣れた手つきで一つ開くと画面いっぱいに三人の笑顔が現れた。
朝陽と春翔のあいだに挟まれて、笑顔の小さなひなたがいた。ランドセルを背負ってる姿、七五三の着物を着てる姿。
「あ」
声が出る前に喉の奥が熱くなった。ひなたは画面から目を離せなかった。
「ひなちゃん」
和也が何も言わずに肩を寄せた。ひなたは画面の中の兄たちの顔を見つめた。十二歳上の二人は、同じ顔でちっとも似ていない笑い方をしていた。朝陽は目尻を下げて、春翔は歯を見せて、小さな自分は二人の袖を握っていた。
指で画面に触れると写真が滲んだ。そのとき頬を雫が伝った。静かに指で拭ってもまた落ちた。
「お兄ちゃん達元気かな」
「うん」
「私のこと覚えてないんだよね」
「うん」
和也はそれ以上何も言わなかった。ただひなたの手を取り、タブレットを持つ指ごと包んだ。膝の上ではももが丸くなっていた。足元ではムギが体を預けている。
「写真が残ってよかった」
「うん」
「もう会えなくても」
ひなたはそこで言葉を切った。続きを口にすると涙が止まらなくなる気がした。和也が親指で目尻を拭ってくれた。
しばらくしてひなたは息を整えた。
「和くん」
「うん」
「決めたことがある」
和也が顔を上げた。ひなたはテーブルの隅から帳面を引き寄せた。店の名前を書いた頁の隣に新しい頁を開く。
「この家で口に入れるものは全部ネットで買う。私たちのも、あの子たちのも。外のものは買わない、食べない、与えない」
「うん」
「卵と砂糖だけは例外。あれは洗って火を通せば大丈夫そうだったから。ただ卵かけご飯を食べたい時は取り寄せる」
「ひなちゃんが決めるなら」
「水は家のだけ飲む。外では飲まない。瓶にも入れて持ち歩く」
ひなたは頁に項目を一つずつ書いていった。字は丸くならなかった。迷いなく筆圧のかかる線で並んでいく。
「それから」
「うん」
「ここの人たちのことには手を出さない。見えても、わかっても」
筆が一瞬止まった。浄水場の前で、子どもが握っていた父親の指が頭に浮かんだ。けれど、それは遠い景色のままだった。
「うん」
和也が静かに頷いた。
「俺たちが守るのは、家と店とこの子たち」
「うん」
「そこだけ」
ひなたは最後の行に小さく書き足した。
あの子たちが毎日、おなかいっぱい眠れること。
書き終えて顔を上げると和也が笑っていた。優しい笑い方だった。
「これ全部ひなちゃんの字だ」
「うん」
「完璧」
「何が」
「防衛ライン」
「そんな大げさなものじゃないよ」
「大げさだよ。でもいい」
和也は帳面を閉じてテーブルの端に置いた。それからひなたの手を握り直した。結婚指輪の上で加護の銀の輪が小さく触れ合った。
窓の外では浮き灯りがゆっくり揺れていた。台所には醤油と鰹節の匂いがほのかに残っている。
足元でムギが長く息を吐いた。
ひなたはそれを聞いてようやく肩の力を抜いた。守るものの数がはっきりした夜は、不思議と眠りが深くなる。そう思いながら和也の肩に頭を預けた。




