↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傷ついた神獣と帝都の片隅の夫婦カフェ  作者: もも


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/36

第17話:生体フィルター

 朝の川沿いを歩こうと言い出したのは、和也のほうだった。


「ひなちゃん、今日は川のほうまで行ってみない?」


「いいけど」


「地図がね、川の先に大きな建物があるって教えてくれてる。見ておきたいんだ」


 ひなたは少し考えてから頷いた。犬たちを庭で走らせてから、家の中へ戻し水を満たす。玄関の格子の前に三つの顔が並んだ。ミルクが鼻先を格子に押しつけたまま動かない。


「すぐ戻るよ。お留守番お願いね」


 ムギがミルクの隣に座り直した。弟分を見張るように体を寄せている。大福はその後ろで首を傾げていた。ひなたは二重の扉を閉める前に、一度だけ振り返った。三匹とも同じ場所に座ってこちらを見ていた。


 二人で外へ出ると、煉瓦の道は夜露でうっすら濡れていて、ひなたは自然と和也の手を取った。商店街とは、反対の方角へ歩くと人通りはすぐに減った。朝の光が建物の壁を白く照らしている。


「ムギたち連れてこなくてよかったね」


「うん。あの子たちは庭で十分」


「ムギは外に出たがらないしね」


「大福は出たがるけど」


「大福は庭でも全力だから」


 笑っているうちに、道の先に大きな建物が見えてきた。


 赤煉瓦の壁が川に沿ってどこまでも続いている。屋根の上には太い煙突のような筒が何本も突き出し、そこから白い蒸気が静かに立ちのぼっていた。壁には鉄の管が蔦のように這い、建物の腹の部分から川へ向けて太い樋が伸びている。


「あれ」


「うん。地図が教えてくれた」


 和也が足を緩めた。


「魔素式巨大浄水場。街の水の九割はここを通ってるって」


 ひなたは建物を見上げた。美しい建物ではなかった。けれど醜くもなかった。ただ巨大で整然としていて、人が近づく気配をまるで拒んでいるように見えた。


 道が建物の脇門の前を通っていた。鉄の門の前には小さな人だかりができていて、女が数人と子どもが二人、誰も声を出さず門の向こうをじっと見ている。


「止まって」


 和也が低く言った。


「危険察知が反応してる。嫌な感じじゃないけど、何か」


「何か?」


「重い」


 門が軋んで開いた。


 中から白い作業着の男たちが、三人ずつ組になって出てきた。付き添いに見える男が左右に一人ずついて、足元のおぼつかない人間の腕を支えている。腕を支えられている人たちは、皆顔色が灰色だった。水に長く浸かった紙のように、皮膚が白くふやけ指先の皺が深く刻まれている。目は開いているのに、何も映していないようだった。


「父ちゃん」


 人だかりの中から小さな声がした。


 五つか六つくらいの男の子が、一人の男に駆け寄った。男は立ち止まり顔を声のほうに向けるが、何も言わなかった。口がわずかに動いただけで音にならなかった。子どもが手を握ると、男はようやくそちらを見て、呆けたように笑った。


「今日は返ってきたね」


 隣にいた若い女が小さく呟いた。


「ここのところ三日に一度は返ってこなかったから」


 付き添いの男が封筒を女に渡した。女は何度も頭を下げて受け取り、中身を確かめもせず懐に入れた。男の子は父親の手を引いて歩き出す。その後ろ姿が、朝の光の中でゆっくり遠ざかっていった。


 ひなたはその全部を見ていた。


 灰色の皮膚。濁った目。子どもの手に握られた指。


 胸の奥を探った。


 何も動かなかった。


 可哀想だと思う。頭の中で文字になる。けれどそれだけだ。昔なら喉が熱くなり視界が滲んだはずの場面だった。今はガラス一枚隔てた向こうの景色を見ているようだった。


「ひなちゃん」


「うん」


「行こうか」


「うん」


 けれど足が動く前に、背後から声がかかった。


「あんたたち新しい人かい」


 振り返ると籠を提げた年配の女が立っていた。昨日の乾物屋の女将ではない。けれど同じ年代の同じような眼差しをしていた。


「この辺りは初めて?」


「はい。最近引っ越してきて」


「そうかい。あれはね、水の子たちの交代の時間さ」


 女はまるで天気の話でもするような口ぶりで言った。


「うちの隣の坊やもあの中にいるんだよ。触れた水が澄む力があってね。十二のときに見つかって今は十七になったか。給金は悪くないんだよ。うちの亭主の三年分を月でもらえるんだから」


「三年分」


「だから、うちの子が、ああならなくてよかったなんて、誰も言えないのさ」


 女は籠を持ち直し歩いていった。


 和也が小さく息を吐いた。ひなたは、繋いだ手に力が入っているのに気づいた。それは和也のほうだった。


「ひなちゃん」


「うん」


「あの人たち水を出してる間に、何かが削れてるんだと思う。見ればわかるくらい」


「うん」


「でも俺たちは何もできない」


「そうだね」


 ひなたは建物を見上げたまま言った。声は思っていたよりもずっと静かだった。


「かわいそうだとは思う。本当に。でも私たちの世界じゃない」


 言葉にしてしまうと、胸の中が少し軽くなった。


「あの人たちを助けようと思ったら、この街の仕組みごと変えなきゃいけない。私にはそんな力はないし、誰かの人生を背負う気もない。関与はしない」


 冷たいと思われても構わなかった。手を伸ばして救えなかったときの手の冷たさを、ひなたは一度知っている。


 和也は何も言わずにひなたの手を握り直した。それから静かに言った。


「俺もそう思う」


「うん」


「俺たちが守るのは、家にいる子たちとひなちゃんだけでいい。それ以外まで抱えたらどっちも潰れる」


「和くん」


「冷たいかな」


「私も同じ」


 二人はお互いの顔を見て小さく笑った。笑いはどこか乾いていたけれど、互いにそれが本音であることだけは確かだった。


「帰ろう」


「うん」


 帰り道は何も話さなかった。


 家の門が見えた頃には、朝の光がすっかり白くなっていた。玄関の鍵を開けて外の扉を引くと、内側の格子の向こうに三つの顔が並んでいた。ひなたたちの姿を見るなり、ミルクが小さな体を弾ませて格子に前足をかける。


「ただいま。ごめんね、待たせて」


 その前にひなたは玄関の脇の洗面所で、和也と並んで手を洗った。石鹸で二回手首まで。それから二重の扉を順に開けてしゃがみ込んだ。ミルクを抱き上げると体温が胸に染み込んできた。小さな舌が頬を舐めた。くすぐったくて少しだけ笑った。


 大福が膝に前足をかけた。ムギは弟たちが落ち着くのを待ってから、ひなたの手の匂いを嗅ぎ肩に額を押しつけた。いつもより長かった。ひなたは首の後ろをゆっくり撫でた。


「大丈夫。どこにも行ってないよ」


 ムギが長く息を吐いた。


 その温かさの中で、朝見た男の子の手を思い出した。握られていた父親の指。けれど思い出してもそれ以上は広がらなかった。胸の中の線は静かに引かれたままだった。


 和也が、台所の蛇口をひねってコップに水を汲んだ。


「ひなちゃん」


「ありがと」


 受け取って一口飲んだ。冷たくてほんのり甘かった。街の噴水の水よりもずっと透き通っている気がした。これがどこから来た水なのか知っているのは、ヒヅキと自分たちだけだ。


「この水だけは大丈夫なんだね」


「うん」


「ヒヅキ様に感謝しなきゃ」


「ほんとに」


 コップを置いてひなたは窓の外を見た。庭の桜の木の向こうに煉瓦の塀があり、塀の向こうに屋根が連なり屋根の向こうの川沿いに、白い蒸気がまだ細くたなびいていた。


 見えているだけだ。それ以上でも以下でもない。


 階段の上では、猫たちが並んで階下を見下ろしていた。檸檬が手すりの隙間から顔を出し、ひなたと目が合うとゆっくり瞬きをした。ひなたも同じように瞬きを返した。


「ただいま」


 小さな三毛の体が一段降りた。それからまた一段。最後は小走りになって、ひなたの足首に体をこすりつけてきた。喉の奥でごろごろと音が鳴っている。


 その温かさを抱き上げて、胸に収めながらひなたは思った。


 この小さな体を守ることだけで、私の両手はいっぱいだ。


 それでいい。それがいい。


 台所では、和也が朝ごはんの支度を始めていた。卵を割る音とフライパンの油が跳ねる音。いつもの朝の音がいつもより、ずっと優しく聞こえた。

お読みいただきありがとうございました。

もし良ければブックマークと評価ポイントをつけていただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。