第17話:生体フィルター
朝の川沿いを歩こうと言い出したのは、和也のほうだった。
「ひなちゃん、今日は川のほうまで行ってみない?」
「いいけど」
「地図がね、川の先に大きな建物があるって教えてくれてる。見ておきたいんだ」
ひなたは少し考えてから頷いた。犬たちを庭で走らせてから、家の中へ戻し水を満たす。玄関の格子の前に三つの顔が並んだ。ミルクが鼻先を格子に押しつけたまま動かない。
「すぐ戻るよ。お留守番お願いね」
ムギがミルクの隣に座り直した。弟分を見張るように体を寄せている。大福はその後ろで首を傾げていた。ひなたは二重の扉を閉める前に、一度だけ振り返った。三匹とも同じ場所に座ってこちらを見ていた。
二人で外へ出ると、煉瓦の道は夜露でうっすら濡れていて、ひなたは自然と和也の手を取った。商店街とは、反対の方角へ歩くと人通りはすぐに減った。朝の光が建物の壁を白く照らしている。
「ムギたち連れてこなくてよかったね」
「うん。あの子たちは庭で十分」
「ムギは外に出たがらないしね」
「大福は出たがるけど」
「大福は庭でも全力だから」
笑っているうちに、道の先に大きな建物が見えてきた。
赤煉瓦の壁が川に沿ってどこまでも続いている。屋根の上には太い煙突のような筒が何本も突き出し、そこから白い蒸気が静かに立ちのぼっていた。壁には鉄の管が蔦のように這い、建物の腹の部分から川へ向けて太い樋が伸びている。
「あれ」
「うん。地図が教えてくれた」
和也が足を緩めた。
「魔素式巨大浄水場。街の水の九割はここを通ってるって」
ひなたは建物を見上げた。美しい建物ではなかった。けれど醜くもなかった。ただ巨大で整然としていて、人が近づく気配をまるで拒んでいるように見えた。
道が建物の脇門の前を通っていた。鉄の門の前には小さな人だかりができていて、女が数人と子どもが二人、誰も声を出さず門の向こうをじっと見ている。
「止まって」
和也が低く言った。
「危険察知が反応してる。嫌な感じじゃないけど、何か」
「何か?」
「重い」
門が軋んで開いた。
中から白い作業着の男たちが、三人ずつ組になって出てきた。付き添いに見える男が左右に一人ずついて、足元のおぼつかない人間の腕を支えている。腕を支えられている人たちは、皆顔色が灰色だった。水に長く浸かった紙のように、皮膚が白くふやけ指先の皺が深く刻まれている。目は開いているのに、何も映していないようだった。
「父ちゃん」
人だかりの中から小さな声がした。
五つか六つくらいの男の子が、一人の男に駆け寄った。男は立ち止まり顔を声のほうに向けるが、何も言わなかった。口がわずかに動いただけで音にならなかった。子どもが手を握ると、男はようやくそちらを見て、呆けたように笑った。
「今日は返ってきたね」
隣にいた若い女が小さく呟いた。
「ここのところ三日に一度は返ってこなかったから」
付き添いの男が封筒を女に渡した。女は何度も頭を下げて受け取り、中身を確かめもせず懐に入れた。男の子は父親の手を引いて歩き出す。その後ろ姿が、朝の光の中でゆっくり遠ざかっていった。
ひなたはその全部を見ていた。
灰色の皮膚。濁った目。子どもの手に握られた指。
胸の奥を探った。
何も動かなかった。
可哀想だと思う。頭の中で文字になる。けれどそれだけだ。昔なら喉が熱くなり視界が滲んだはずの場面だった。今はガラス一枚隔てた向こうの景色を見ているようだった。
「ひなちゃん」
「うん」
「行こうか」
「うん」
けれど足が動く前に、背後から声がかかった。
「あんたたち新しい人かい」
振り返ると籠を提げた年配の女が立っていた。昨日の乾物屋の女将ではない。けれど同じ年代の同じような眼差しをしていた。
「この辺りは初めて?」
「はい。最近引っ越してきて」
「そうかい。あれはね、水の子たちの交代の時間さ」
女はまるで天気の話でもするような口ぶりで言った。
「うちの隣の坊やもあの中にいるんだよ。触れた水が澄む力があってね。十二のときに見つかって今は十七になったか。給金は悪くないんだよ。うちの亭主の三年分を月でもらえるんだから」
「三年分」
「だから、うちの子が、ああならなくてよかったなんて、誰も言えないのさ」
女は籠を持ち直し歩いていった。
和也が小さく息を吐いた。ひなたは、繋いだ手に力が入っているのに気づいた。それは和也のほうだった。
「ひなちゃん」
「うん」
「あの人たち水を出してる間に、何かが削れてるんだと思う。見ればわかるくらい」
「うん」
「でも俺たちは何もできない」
「そうだね」
ひなたは建物を見上げたまま言った。声は思っていたよりもずっと静かだった。
「かわいそうだとは思う。本当に。でも私たちの世界じゃない」
言葉にしてしまうと、胸の中が少し軽くなった。
「あの人たちを助けようと思ったら、この街の仕組みごと変えなきゃいけない。私にはそんな力はないし、誰かの人生を背負う気もない。関与はしない」
冷たいと思われても構わなかった。手を伸ばして救えなかったときの手の冷たさを、ひなたは一度知っている。
和也は何も言わずにひなたの手を握り直した。それから静かに言った。
「俺もそう思う」
「うん」
「俺たちが守るのは、家にいる子たちとひなちゃんだけでいい。それ以外まで抱えたらどっちも潰れる」
「和くん」
「冷たいかな」
「私も同じ」
二人はお互いの顔を見て小さく笑った。笑いはどこか乾いていたけれど、互いにそれが本音であることだけは確かだった。
「帰ろう」
「うん」
帰り道は何も話さなかった。
家の門が見えた頃には、朝の光がすっかり白くなっていた。玄関の鍵を開けて外の扉を引くと、内側の格子の向こうに三つの顔が並んでいた。ひなたたちの姿を見るなり、ミルクが小さな体を弾ませて格子に前足をかける。
「ただいま。ごめんね、待たせて」
その前にひなたは玄関の脇の洗面所で、和也と並んで手を洗った。石鹸で二回手首まで。それから二重の扉を順に開けてしゃがみ込んだ。ミルクを抱き上げると体温が胸に染み込んできた。小さな舌が頬を舐めた。くすぐったくて少しだけ笑った。
大福が膝に前足をかけた。ムギは弟たちが落ち着くのを待ってから、ひなたの手の匂いを嗅ぎ肩に額を押しつけた。いつもより長かった。ひなたは首の後ろをゆっくり撫でた。
「大丈夫。どこにも行ってないよ」
ムギが長く息を吐いた。
その温かさの中で、朝見た男の子の手を思い出した。握られていた父親の指。けれど思い出してもそれ以上は広がらなかった。胸の中の線は静かに引かれたままだった。
和也が、台所の蛇口をひねってコップに水を汲んだ。
「ひなちゃん」
「ありがと」
受け取って一口飲んだ。冷たくてほんのり甘かった。街の噴水の水よりもずっと透き通っている気がした。これがどこから来た水なのか知っているのは、ヒヅキと自分たちだけだ。
「この水だけは大丈夫なんだね」
「うん」
「ヒヅキ様に感謝しなきゃ」
「ほんとに」
コップを置いてひなたは窓の外を見た。庭の桜の木の向こうに煉瓦の塀があり、塀の向こうに屋根が連なり屋根の向こうの川沿いに、白い蒸気がまだ細くたなびいていた。
見えているだけだ。それ以上でも以下でもない。
階段の上では、猫たちが並んで階下を見下ろしていた。檸檬が手すりの隙間から顔を出し、ひなたと目が合うとゆっくり瞬きをした。ひなたも同じように瞬きを返した。
「ただいま」
小さな三毛の体が一段降りた。それからまた一段。最後は小走りになって、ひなたの足首に体をこすりつけてきた。喉の奥でごろごろと音が鳴っている。
その温かさを抱き上げて、胸に収めながらひなたは思った。
この小さな体を守ることだけで、私の両手はいっぱいだ。
それでいい。それがいい。
台所では、和也が朝ごはんの支度を始めていた。卵を割る音とフライパンの油が跳ねる音。いつもの朝の音がいつもより、ずっと優しく聞こえた。
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