第16話:たった一つの境界線
看板板が乾くのを待つ間に、二人は店の隅々まで見て回った。食器棚には白磁の皿が重ねられていた。カップは薄い縁のものと厚手のものが揃っている。引き出しを開けると、スプーンもフォークもきれいに磨かれて並んでいた。ひなたは一本手に取り光に透かした。
「これ前の家の食器じゃないよね」
「たぶん女神様が揃えてくれたんだよ」
「よく見てる」
「お祈りの代わりに」
「お祈りの方がよかった」
和也が噴き出した。ひなたも釣られて笑った。笑い声が明るい壁に反響して、店の中に静かに広がった。
昼前に看板板を入口の上に掛けた。和也が椅子の上に立ち板の端を持って位置を決めた。ひなたは通りまで下がって全体を眺めた。少し右が下がっている。
「もうちょっと左を上げて」
「こう?」
「行きすぎ」
「こう」
「そこ」
板は静かに収まった。墨の黒が明るい壁によく映えた。通りを歩く人が何人か足を止めて見上げていった。
「ルーチェ」
和也が読み上げた。
「ここがうちの店」
「うん、うちの店」
その言葉がひなたの胸でゆっくり温度を持った。ふと母屋のほうを振り返ると、二階の窓に小さな影が並んでいた。猫たちだ。檸檬が前足を窓枠にかけて身を乗り出している。
「ちょっと家に戻ってくる」
「ムギたちでしょ」
「うん。お昼ごはんの前に顔だけ見てくる」
「行ってらっしゃい。看板はもう落ちないから大丈夫」
母屋に戻って玄関の鍵を開けると、外の扉の向こうの格子にもう三つの顔が並んでいた。ムギは格子の前に行儀よく座り、大福とミルクはその後ろで身を乗り出している。
「ただいま。待っててくれたんだね」
二重の扉を順に開けてしゃがみ込むと、三つの鼻先が順番に手のひらに触れてきた。ひんやりとして湿っていた。大福が膝に前足をかけミルクが顔を舐めようとする。ムギは二匹が落ち着くまで待ってから肩に額を押しつけた。
「えらかったね。ちゃんとお留守番できてた」
褒めると三匹の目が細くなった。
「店ができたよ。ルーチェっていうの」
もちろん返事はなかった。けれど、ムギの尻尾が床を一度だけ打った。
店と家のあいだにある生け垣は、たった一本の境界だ。けれどその線のこちらと向こうにそれぞれの居場所がある。犬たちも猫たちも店には連れて行かない。ひなたはそれが少しだけ誇らしかった。
その夜、ひなたは和也と並んで帳面を広げた。表紙にはまだ何も書いていない。開いた最初の頁に今日決めたことを順に書いていった。店の名前。開店日の目安。看板になるメニュー。仕入れのこと。
帳面の端にひなたは小さく書き足した。
あの子たちの境界線を守ること。
和也が覗き込んでふっと笑った。
「それ一番大事なやつだ」
「うん」
窓の外では浮き灯りが静かに夜を照らしていた。階下から小さな寝息が聞こえる。ここが自分たちの場所になるのだと思った。まだ知らないことばかりの街でただ光だけが約束のように静かに灯っていた。
お読みいただきありがとうございました。
もし良ければブックマークと評価ポイントをつけていただけると、とても励みになります。




