第15話:看板の名前
昨夜は気づかなかったが、別棟の鍵は台所の作業台の上に置かれていた。
真鍮の鍵が二本と厚手の封筒が一通。封筒の表には丸みのある字で「ひなた様、和也様へ」と書いてある。ひなたは裏返して差出人の名前を見て小さく息を吐いた。
「セレスティアさんだ」
「開けてみて」
中には几帳面に折られた紙が三枚入っていた。
一枚目は喫茶営業の許可証で朱色の判が押されている。
二枚目は店の敷地の見取り図。
三枚目は手書きの便箋だった。
「ご確認ください。今度は三回確認しました。それから店の名前だけは空欄にしてあります。お二人で決めてください」
「三回」
和也が便箋を覗き込んで肩を揺らした。
「その前にもう少しやることあったと思うけど」
「でも頑張ってるよ」
「ひなちゃんは優しいなあ」
「事実を言っただけ」
許可証の端に小さな字で注意書きがあった。動物の連れ込みは敷地内も含めて禁止。ひなたは頷いた。それは最初から決めていたことだった。
朝のうちに犬たちを庭で走らせた。和也が芝の上でボールを投げ、大福が転がるように追い、ミルクがその脇をすり抜ける。ひなたは縁側に座って三匹から目を離さなかった。ムギは二匹が行き過ぎるたびに、少し離れた場所から見守っている。
三十分ほど走らせて水を飲ませ、足を拭いてから家の中へ戻した。三匹は日だまりのリビングで折り重なるように伏せた。
「お留守番、お願いね。すぐ戻るから」
ひなたが言うとムギが一度だけゆっくり瞬きをした。わかったという返事に見えた。キャットタワーの上では、猫たちがこちらを見下ろしている。檸檬の背中が台の影に半分隠れていた。
扉を二重に閉めて庭に出た。
母屋の裏手の小道を抜けると、店の入口は通りに面した別の門になっていた。庭とは低い生け垣で仕切られ鉄の門扉が据えてある。母屋と店は同じ敷地の中にあっても、簡単に行き来できる場所ではなかった。
鍵を差し込むと扉はあっさり開いた。
淡い木の香りが鼻先を撫でた。
中は思っていたより明るかった。大きな窓から差し込む光が白い漆喰の壁に跳ね返り床の板目を金色に染めている。入ってすぐ右手にカウンターがありその奥に厨房が見えた。客席は小さな円卓が六つ。どれも二人掛けで窓辺に三つ奥に三つ並んでいる。丸い天井灯の代わりに浮き灯りが一つだけ静かに揺れていた。
「広いね」
「十二席あれば十分でしょ。あ、ひなちゃん、今『何人分の仕込みが必要か』数えてたでしょ?」
「十二人分だったら、全部で何皿になるかなって……」
「やっぱり」
ひなたは厨房へ回った。作業台は母屋のものと同じ一枚板で窓際には、オーブンが二つ並んでいる。冷蔵庫は大きな業務用でそれ自体が冷たく光っていた。ホテルの厨房に比べれば小さいけれど手に馴染む大きさだった。
調理台の端に指を滑らせてひなたは目を閉じた。
メニューの形が浮かぶ。固めのプリンにカラメルの苦みを効かせて果物を添えた一皿。白い生クリームを重ねたショートケーキ。それから冷たいゼリーとほろ苦いコーヒー。
頭の中でつくるだけでもう舌の上に味が広がるのが不思議で少し可笑しかった。
「ひなちゃん」
和也が厨房の入口から顔を出した。
「お客さん座るとこ見て。俺ここに立つかな」
カウンターの内側に立った和也は妙に様になっていた。腰に手を当てて窓の外を見る横顔が営業職の頃の彼を思い出させる。けれど唇の端はあの頃より柔らかかった。
「接客は和くんで、私は厨房ね」
「適材適所」
「それもあるけど」
「うん?」
「私は知らない人が目の前にいると壁を作っちゃうから」
「俺は最初から壁なしで話すからね」
「うそ。人嫌いのくせに」
「人嫌いと人当たりは別物なんだよ」
和也が胸を張ったのでひなたは笑った。確かに、この人は誰にでも感じよく笑うくせに、誰のことも本当には気にしていない。そして、ひなたにだけは例外だった。
窓辺に立って外を覗くと通りを行く人が見えた。着物姿の女性が二人連れ立って歩いている。腕を組んだ洋装の男女。袴の学生の集団。日傘をさした老婦人が立ち止まって店の窓を見ていた。
「女の人が、一人で入れる店ってないんだったよね」
「商店街の食事処は隣町にしかないって」
「男の人と一緒じゃないと、入れない店ばっかりって聞いたけど」
「だから、カフェは甘いものと飲み物だけにしたんだと思う。ここなら女の人同士でも入りやすい」
「そっか」
ひなたは窓の外の老婦人を見つめた。日傘の下の顔は、何かを探すように店の中を覗き込んでいる。その横顔はどこか心細そうで、同時にほんの少し期待しているようにも見えた。
「いい店になるといいね」
「なるよ」
和也は迷いなく言った。
「ひなちゃんが作るんだから」
店の奥の壁には細長い板が立てかけてあった。厚みのある一枚板で表面は何も書かれていない。入口の上に掛ける看板だった。
「店の名前を決めなきゃ」
「何がいいかな」
ひなたは腕を組んだ。
「日向って名前の店は、俺の中ではもう決まってるけど」
「だめ」
「どうして」
「私の名前だと恥ずかしいから」
「ひなちゃんが照れてる」
「照れてない」
「照れてる」
和也は楽しそうに板の前にしゃがみ込んだ。指で木の表面を撫でてふと顔を上げた。
「光って意味の外国語ってなかったっけ」
「ルーチェ」
「それ」
「イタリア語。前にホテルで修業先のシェフが言ってた」
ひなたは口の中でその音を転がしてみた。ルーチェ。柔らかくて丸い響きだった。窓から差し込む朝の光がちょうど板の上に落ちていた。
「ここに来たとき、最初に見たのが浮いてる灯りだったでしょ」
「うん」
「帰ってきたら、いつも窓の向こうにあの光があって。それがほっとしたの」
「じゃあ、ルーチェでいいんじゃない」
「いいの」
「俺は賛成。ひなちゃんが決めるのがいちばん好き」
ひなたは頷いた。胸の奥がすとんと落ち着いた。
「書くのはひなちゃんね」
「え」
「ひなちゃん字きれいでしょ。意外と達筆だし」
「意外とは余計」
けれど反論はしなかった。ひなたは母屋の台所から持ってきた筆と墨を看板板の前に並べて座った。何を書くのも久しぶりだった。子どもの頃に祖母から習った書道を思い出す。背筋を伸ばし筆の先を墨に浸して一度だけ呼吸を整えた。
穂先を板に下ろす。
カフェ ルーチェ。
ゆっくりと筆を運んだ。ためらうたびに濃い墨が木目に染みていく。ひなたの手首は迷わなかった。最後の払いをするまで誰もひとことも話さなかった。
筆を置いて顔を上げると和也がじっとこちらを見ていた。
「どう」
「すごい」
「ほんとに」
「俺これ毎日見たい」
「毎日見るでしょ。入口に掛けるんだから」
「そういう意味じゃなくて」
和也が言葉を探して口を閉じた。それから看板板に目を移して小さく笑った。
「ひなちゃんの字の店で働けるのが嬉しいってこと」
「働くのは和くんでしょ」
「そう。ここで俺が接客するの」
「頑張ってね」
「頑張る。ひなちゃんが作ってくれるから」




