第6.5話(幕間):玄関にあったもので
宮城県某所、午後三時。
水道工事会社に勤める畠山は、現場からの帰り道で、その光景に出くわした。
住宅街の路地。小学生くらいの男の子が尻餅をついて後ずさっていて、その先に大人が一人、ゆっくり歩み寄っている。
最初は親子喧嘩か何かかと思った。
思ったが、違った。
歩き方がおかしい。膝が曲がりきっていないし、腕が垂れたまま揺れている。
何より、子供が泣き叫んでいるのに、一切反応していない。
「おい! 何やってんだ!」
怒鳴っても止まらない。子供が悲鳴を上げる。
畠山は軽トラの荷台からバールを引き抜いて走った。走りながら、頭のどこかで冷静な部分が考えていた。映画だったらここで頭を殴る。ゾンビってのは頭を潰せば止まる。ネットでもそう書いてあった。
だが、無理だった。
近づいて、その男の横顔が見えた瞬間に、腕が止まった。人間の顔だった。目は虚ろだったが、皺も、髭の剃り残しも、耳の形も、どう見ても人間だった。これの頭を潰すのか。俺が。
殴れない。
殴れないまま、畠山はバールを振り下ろした。狙ったのは膝から下だった。せめて動きを止めれば、子供が逃げられる。
硬い感触と、鈍い音。
明らかに折れた。手のひらに伝わってきた感触で分かった。畠山の背中を冷たいものが走った。やってしまった。傷害だ。相手がどんなに変でも、こっちが先に骨を折ったら言い訳が立たない。
男は倒れた。子供が這うようにして逃げていく。
そこまでは、よかった。
問題はそこからだった。
男は、何事もなかったように立ち上がろうとした。
折れた方の足に体重をかけて、そのまま立とうとして、当然バランスが取れずに倒れる。また立とうとする。また倒れる。折れた足を庇うでもなく、引きずるでもなく、ただ両足が揃って機能している前提で動こうとして、そのたびに転ぶ。
呻き声ひとつ上げない。顔も歪めない。
畠山はバールを握ったまま、何度もそれを見ていた。三回、四回、五回。同じ動作の繰り返し。
人間じゃない。
そう理解するのに、それだけの回数が必要だった。そしてもうひとつ、その繰り返しを見ているうちに、畠山の頭に別の考えが浮かんだ。
――これ、見分けられるんじゃないか。
痛がるかどうか。それだけで分かる。
同じ日の夕方。千葉県某所。
大学の講義を終えて帰ってきた真希は、自宅まであと五十メートルというところで足を止めた。
通りの向こうから、人が歩いてくる。
それだけなら何でもない。だが、真希は数日前からSNSで流れている動画をいくつも見ていた。ススキノがどうとか、路上で人が人を噛んだとか。半分は作り物だと思っていた。半分は。
近づいてくる。街灯の下を通った瞬間、顔が見えた。
口の周りが、黒い。
逃げなきゃ、と思った。思ったのに、足が動かなかった。膝から下に力が入らない。立っていられなくなって、その場にへたり込んだ。
「あ、あ」
声も出ない。這って下がろうとしても、手が震えて進まない。
相手が屈み込んでくる。反射的に、真希は肩にかけていたハンドバッグを両手で掲げて、顔の前に突き出した。教科書とノートで重くなったそれに、歯が食い込む音がした。
「い、やっ……! 誰か!」
腕が痺れる。押し返せない。バッグ越しに顔がすぐそこにある。目が合っているのに、この人は私を見ていない、と思った。
その時、玄関が開く音がした。
「真希!」
母だった。
母は裸足のままサンダルを引っかけて飛び出してきて、手にしていたものを、そのまま相手の頭にかぶせた。
白いコンビニ袋だった。犬の散歩用に、いつも玄関の靴箱の上に畳んで置いてあるやつ。
「離れなさい! 真希から離れなさい!」
母は袋の上から相手の頭を抱え込むようにして、全体重で引き剥がしにかかった。歯がバッグから外れる。真希は尻もちをついたまま、二メートルほど後ろに下がった。
だが今度は、母が組みつかれていた。
「お母さん!」
袋を被ったまま、相手が母の腕をつかんでいる。袋の内側で口が動いているのが、膨らみで分かった。母が押さえ込んでいるが、腕の力がじりじりと負けていく。
真希は玄関に転がり込んだ。何か、何か武器になるもの。バット、包丁、何でもいい。
目に入ったのは、三和土の隅に置きっぱなしになっていたガムテープだった。先週、引っ越しの手伝いで使って、そのまま放り出してあったやつ。
それを掴んで、真希は外に走り出た。
「お母さん、動かないで!」
袋の縁を、首のあたりでぐるぐる巻きにした。二周、三周、四周。テープが切れないから歯で噛み切って、また巻いた。口のあたりに何重にも重ねた。噛まれないように。もう噛めないように。
「もういい、真希、離れなさい!」
母が相手を突き飛ばして、二人で後ずさる。
袋を被った男は、よろけながらも立ち上がった。
真希は思った。ああ、駄目だ。全然効いてない。
「逃げるよ、走って!」
二人で走った。母が真希の腕を引いて、真希が母の手を握って、どっちが引っ張っているのかも分からないまま、通りを走った。真希は泣いていた。母も泣いていた。背後で足音がついてくる。ふらふらとした、不規則な足音。
角を二つ曲がったあたりで、真希は気づいた。
足音が、しない。
振り返ると、男は道の真ん中に倒れていた。
仰向けで、手足を痙攣させている。袋の中で、頭が左右に振れている。それが、だんだん小さくなっていく。
真希と母は、抱き合ったまま、二十メートルほど離れた場所からそれを見ていた。
「……なに、あれ」
「分かんない」
やがて、動かなくなった。
しばらくして、近所の家から男性が出てきた。ゴルフクラブを持っていた。真希の家の三軒隣の、名前も知らないおじさんだった。
「おーい、大丈夫か!」
おじさんは遠巻きに回り込んで、クラブの先で倒れている男の肩をつついた。反応がない。腕をつついた。足をつついた。何度かやってから、もう少し近づいて、今度は強めに押した。
「……動かないな、これ」
もう一度つつく。
「死んでんじゃないか、これ」
母の身体が、びくりと震えた。
真希は母の顔を見た。母は、倒れている男の方を見たまま、口を半分開けていた。
「……そんな」
小さな声だった。
「そんな、私、そんなつもりじゃ……袋、かぶせただけで、あの子から離そうとしただけで……」
母の手が震え始めた。真希の腕を掴んでいる指に、爪が食い込んでいた。
「私、殺しちゃったの? だって、あの人、あの人だって誰かの」
「お母さん」
真希は母の腕を両手で掴んだ。
さっきまで自分の顔から三十センチの距離にあった、あの顔を思い出していた。目が合っているのに、こちらを見ていなかった。痛みも、怯えも、迷いもなかった。ただ、食べようとしていた。
「お母さん、あれはもう人間じゃないの」
その夜、二つの投稿がSNSに上がった。
ひとつは宮城から。足を折っても痛がらない、立とうとして転ぶ、これで見分けられる、という内容だった。
もうひとつは千葉から。投稿したのは真希だった。コンビニ袋とガムテープで動かなくなった、二分もかからなかった、と。
どちらも、最初は信じられなかった。
嘘つき、と書かれた。不謹慎だ、と書かれた。人を殺した自慢かと書かれたものもあった。真希はスマホを伏せて、しばらく開けなかった。
だが、翌日から、同じような報告が各地から上がり始めた。
足を折ったら本当に痛がらなかった、という報告。麻袋じゃなくてコンビニ袋でやったら止まった、という報告。柔道着を被せても防ぐだけだったが、口をテープで塞いだら二分で動かなくなった、という報告。
誰かが手順をまとめた。画像をつけた人がいた。折る位置を図解した人がいた。英訳した人がいた。
テレビは「不審な事件が多発しています」としか言わなかった。政府は会見を開かなかった。専門家は「現在確認中です」と繰り返した。
その間に、名前も知らない誰かたちが作り上げた手順だけが、日本中に届いていた。




