第6話:ゾンビ騒動と俺が守れなかった約束(本指名)
路地裏の警官が、獣みたいな声を上げて、同僚の上に覆いかぶさって噛み付いていく。
……マジか。
俺は思わず足を止めて見る。
CGじゃない、動画で見た海外のアレと、完全に同じ動きだ。
噛まれた男の方も、数秒痙攣した後にゆっくり起き上がって、今度は逃げ惑う通行人の方へ歩き出していた。
目つきが完全に据わっていて、生きてる人間の目じゃない。
あーこれ、いよいよヤバいやつだな。
パニックにはならなかった。
心筋梗塞で死にかけた時もそうだったが、俺は本当にどうしようもない場面になると、逆に頭が冷える性質らしい。
周りは悲鳴を上げて逃げ惑っているが、とりあえず、ここに突っ立ってる理由はないなと判断して、俺はさっさと踵を返した。
背後で何度か銃声が響く。
警察官が撃ったのか、別の誰かなのか振り返る気もない。
噛まれた男が撃たれて倒れる音がしたが、また起き上がる気配がして、俺はますます歩くペースを上げた。
思えば今日一日、ずっとこの調子だ。
厄介事の匂いを嗅いだら即撤退。それで生き延びてる。
多分これからも、この判断基準だけは変えない方がいいんだろうなと、妙に冷静に思いながら歩く。
巻き込まれの才能があるのは自覚してるが、今回ばかりは見なかったことにする。
野次馬根性を出して首を突っ込むほど、俺は暇じゃない。
それに下手に手を出して、あの噛みつく力が俺にも通じるものなのか試したくもない。
ホテルへの道すがら、スマホでニュースを開いてみる。
「ススキノで発砲事件」「路上での傷害事件」程度の見出しがちらほら出ているだけで、俺が見たアレの正体には誰も気づいていないらしい。
SNSも「またススキノで何かあったらしい」くらいの温度で、都市伝説の域を出ていない。
……これ、俺が日本国内での『最初の目撃者』ってことだよな。
うわー面倒くせえ……。
通報する義理もないし、したところで頭のおかしいやつ扱いされて終わるだけだろう。
だいたい、今日だけで人を七人殺してる俺が善良な通報者面するのも、我ながら滑稽すぎる。
俺は見なかったことにして、予約していた高級ホテルのスイートに転がり込んだ。
シャワーを浴びて、ルームサービスでステーキを頼む。
血の匂いがまだ鼻の奥にこびりついていた気がしたが、案外すぐに消えて、いつも通り旨いと思って食えた。
自分の適応力の高さに、ちょっとだけ引くなあ、ウメエ…。
北海道方面隊司令部では、在日米軍への問い合わせに未だ返答が無いまま、上層部が青ざめていた。
C国の方面軍先遣隊が国内に潜伏している痕跡が複数箇所で見つかり、さらに今夜、ススキノで発生した「未確認の異常事態」の報告が重なったからだ。
「テロだ、間違いない」
「いや、症状を見ろ。感染症の類だ。生物兵器の可能性がある」
「だったら米軍に聞くしかないだろう。まだ返事が来ないのか」
「催促は続けています。しかし――」
情報保全隊、警務隊、道警の一部が緊急招集され、極秘裏の封じ込め作戦が発動する。
だが、正体不明の脅威に対して、誰も明確な対処方針を出せないまま、会議は平行線のまま夜が更けていく。
誰一人として、この夜のうちに事態がどこまで転がるのか予想できていなかった。
現場からの報告は錯綜していた。
「噛まれた市民が数分で豹変した」
「銃で撃っても倒れるが、頭部を破壊しない限り再び動き出す個体がいる」
「感染経路が不明瞭で、封鎖範囲の設定に苦慮している」
「苦慮している場合か! 早く線を引け!」
報告を上げる幹部に、焦りを隠せない上層部が怒鳴り散らす。
会議室の空気は、事態の異常さに反して、どこか他人事のような緊張感の薄さも漂っていた。
まだ誰も、これが世界規模の話だとは気づいていない。
その混乱の隅で、担架に乗せられた一人の女、情報保全隊の二等陸尉が後方の医療班に運び込まれていた。
下半身をタオルで覆われたまま、意識はないが、息はある。銃創は複数あるが、急所は外れていた。
運んだ隊員の一人が小さく呟く。
「……この人、まだ生きてる。運が良かったな」
「あれだけ撃たれて、よく助かったもんだ。誰にやられたんだ」
「分かりません。現場に他の遺体もありましたが、身元の特定に時間がかかりそうです」
誰も、数時間前に奏介の部屋で何があったかまでは把握していなかった。
彼女が目を覚ました時何を語るのかも、まだ誰にも分からない。
一方、そんな騒動など知る由もない俺は、ステーキを平らげてベッドに横になっていた。
「まあ、明日になったらまた考えるか」
その一言で灯りを消す。
今日一日でどれだけの人間が死んで、どれだけの秘密が動いていたかなど、俺にとってはまだ他人事でしかないのだ。
翌朝、カーテンを開けた俺は、外の景色に思わず声を漏らす。
通りには検問らしき列ができていて、迷彩服の一団が忙しなく動き回っている。
テレビをつけると、緊急速報のテロップが流れていた。
『北海道内一部地域において、不審な事件が多発。外出の際は十分ご注意ください……』
当たり障りのない文言だけどさあ……。
だが、テロップが流れるテレビの音をかき消すヘリの音と、窓の外の物々しい雰囲気は、政府がまだ何も公式には言えていないことの裏返しに見えた。
「……あー、これもう無理だろこれ」
朝飯を運んできたホテルスタッフも、いつもより表情が硬い。
世間話のついでに聞いてみると、
「昨夜から緊急の従業員招集がかかっていて、詳しいことは知らされていないんです」
とだけ返ってきた。
誰もが薄々気づいているのに、誰も正体を口にできない。
そんな空気が、朝のホテルの中にまで漂い始めていた。
ジンギスカンを食い、キャバクラで遊び、ステーキで一日を締めくくった俺の『平和な日常』は、この朝を境に、静かに終わりを告げようとしていたんだ。
……レイナちゃんに、今日も指名入れるって言ったのになあ
俺は、窓から外を見てため息をついた。
▽ ▽ ▽
同じ頃、ワシントン。
地下の会議室に集まったのは十人ほどだった。国防総省、国務省、CDC、それに情報コミュニティから数名。全員が寝ていない顔をしている。
「三沢、横須賀、嘉手納。三か所とも同じです」
報告官がスクリーンを切り替えながら言う。
「あの現象——現地時間で十七日未明に観測された広域音響現象ですが、その直後から、保管中の全検体に構造変化が確認されています」
「全て、か」
「はい。例外なく」
次官補は眉間を押さえた。
問題の検体は、公式には存在しないことになっている。日本の三施設に置かれていたのは、繁殖阻害型の設計だった。特定の遺伝的特徴に反応して、生殖能力を三十分の一まで低下させる。殺すのではなく、数十年かけて人口動態を変える。そういう発想の産物だ。
配備先は日本だが、想定していた使用地域は違う。大陸だ。
当然、現地政府には通告していない。条約上も、政治上も、通告できるはずがない。
「変化の内容は」
「まず、標的特異性が失われています。特定の遺伝的特徴に反応する仕組みそのものが機能していません」
「誰にでも感染すると」
「そう見えます。そして、発現する症状が設計と全く異なります」
報告官は一度言葉を切った。言いにくいのだろう。
「生殖機能への影響は確認できません。代わりに、中枢神経系の変性。攻撃衝動の亢進。痛覚の消失。咬傷による伝播」
誰も何も言わなかった。
「……設計と、何ひとつ合致していないということか」
「はい。別物になっています」
次官補は椅子に背を預けた。
「他はどうだ」
情報側の人間が引き取った。
「中国、ロシア、北朝鮮、イラン、イスラエル、英国。いずれも同時期に、生物兵器関連施設で異常な動きが観測されています。緊急の人員移動、施設の閉鎖、通信量の急増」
「公表は」
「どこもしていません。当然でしょう」
「確証はあるのか」
「衛星と通信傍受です。内容までは取れていませんが、動きのパターンが我々と同じです」
——同じ、か。
次官補はその言葉を頭の中で繰り返した。
誰かが仕掛けたのなら、仕掛けた側は無傷のはずだ。だが、保有国が全て同じ症状で慌てている。これは攻撃ではない。
「原因は」
「不明です」
「推測でいい」
「……推測も、ありません」
率直な男だ。嫌いではない。
沈黙の中で、誰かが咳払いをした。
「日本政府から、正式な照会が三度来ています。基地内の保管物について」
「回答は」
「保留しています。ご指示を」
次官補は、しばらく天井を見ていた。
回答すれば、未申請の配備が露見する。同盟関係は間違いなく吹き飛ぶ。議会が動き、政権が倒れ、人が何人か刑務所に行く。
回答しなければ、日本国内で拡大する。
どちらが高くつくかを計算して、彼は答えを出した。
「回答するな」
「……了解しました」
それで会議は終わった。
誰も、あの音が何だったのかを口にしなかった。世界中の人間が同時に聞いた、あの音のことを。
科学的に説明できないものを会議の議題にすれば、その瞬間に自分の経歴が終わる。全員がそれを知っていた。




