第46話:さようなら
雪が、空中で止まってた。
目の前で、ひとひらの雪が、落ちもせずに浮いてる。夏子の唸り声も、俺の息の音も、何もかも消えてる。
周りが、白く塗り潰されていく。
木も、木刀も、駐屯地の屋根も、白の中に溶けていく。残ってるのは、木に縛りつけた夏子と、夏子ごと縛られてる俺だけだった。
圧が、来た。
存在ごと、上から押し潰されるみたいな。あの夜と同じだ。山奥の拠点で、垂れ流しのままへたり込んだ、あの夜と。
膝が、笑った。
震えが、指先から這い上がってくる。歯の根が合わない。体が勝手に「はい」以外の答えを探すのをやめようとしてる。
……でも。
腕の中に、夏子がいた。
膝に、力を入れる。
縛られたまま、踏みとどまった。へたり込まなかった。漏らしも、しない。
あの夜の俺とは、違うんだよ。
あの日とは違うのだよ、あの日とは。
ほら、くだらない軽口だって言える。
『我の管理下の不手際は、二つ』
頭の中に、直接叩き込まれる声。
『一つは、あの残滓。一つは、貴様だ』
……あらまあ、俺かよ。大人しくしてたんだけどなあ。
まあ、そうだろうな。好き放題に喰らい込んだって、あの夜も言われたし。
声は、淡々と続けた。
別の宇宙に、かつて神と崇められた存在がいたこと。
那由他の生と死を繰り返して、やがて滅びたこと。
最後に残ったのは、「生きたい」という願いだけだったこと。
星を船にして、宇宙を流れて、この世界に辿り着いたこと。
燃え尽きる瞬間に、人間の中に、その意志をばら撒いたこと。
三度も世界を揺らしたのは、消えかけて、必死だったからだということ。
『あの意思と共に、この世界を閉じる』
声に、何の感情もなかった。
『閉じねば、また他の世界が崩壊する。生きたい、生きたいばかりだからな。話にならん』
「……閉じるって、どういうことだよ」
声が、震えてた。
『何も無かった無に還すだけだ。何の変化も無い』
何の変化も無い。
頭に、次々と顔が浮かんだ。
ススキノのレイナと陽菜。柏木や店員や嬢たち
工場の春と、若菜、子どもたち。
窓口で頭を下げ続けてた桜。
洞爺で、鉤の付いた棒を握ってた自衛官たち。
真駒内で、泣きながら敬礼してた若い隊員。
揚げいもの串を握って笑ってた子どもたち。
北斗の話で盛り上がった、タオル巻いたおっちゃん。
小雪。
夏子。
「……ふざけんな」
喉から、絞り出した。
「無に還すって、あいつらがいたことも、全部無しにすんのかよ」
膝が崩れそうになった。それでも、立ってた。
声は、しばらく黙ってた。
それから、ふと、何かに気づいたみたいに言った。
『その娘の中にも、あれがいるな』
腕の中で、何かが変わった。
夏子の体から、力が抜けた。肩に食い込んでた歯が、ゆっくり離れていく。
夏子が、顔を上げた。
目に、光が戻ってた。
夏子の目だった。
「……奏介、さん?」
かすれた声。
何か言おうとして、言葉にならなかった。夏子の顔を見てるだけで、精一杯だった。
夏子は、自分の胸に手を当てようとして、縛られてるのに気づいて、少し困った顔をした。それから、目を閉じた。
長いこと、黙ってた。
「……寂しいのね、この子」
ぽつりと言った。
「ずっと、生きたいって、それしか言ってない。他に何も、もう、覚えてないみたい」
……そうか。
こいつの中に、今、いるんだな。あの声の主が。
「そんな存在でも、最後は浅ましい……か」
口から出てた。
神と崇められて、那由他の生死を繰り返して、それで最後に残ったのが、生きたい、だけ。
浅ましいよ。
でも、浅ましいって言い切れないのは、なんでなんだろうな。
♦
あたしの中に、この子がいる。
ずっと泣いてる。生きたい、生きたい、生きたいって。
言葉にもなってない。
小さい子が、迷子になって泣いてるみたいな声。
寂しいなあ、と思った。
目を開けたら、奏介さんが、ひどい顔してあたしを見てた。
泣いてるし、震えてるし、肩のところの服が血でぐちゃぐちゃになってる。
あたしが噛んだんだね、あれ。
ごめんね、奏介さん。
白い中に、声だけがある。姿は見えない。
でも、すごく大きいのが分かる。
奏介さんが前に言ってた、「怖かったやつ」って、これのことなんだろうな。
怖い。
でも、聞かなきゃいけないことがあった。
「……どうして、この世界を閉じるんですか」
『あの意思と共に閉じねば、また他の世界が崩壊する』
「話し合いとか、できないんですか」
『生きたい、生きたいばかりだからな。話にならん』
……そうだよね。この子、それしか言えないんだもんね。
胸の奥で、この子が泣いてる。
ふと、八雲のお父さんを思い出した。
痩せこけて、ストーブの前に座って、柱に繋いだ娘さんを見てた人。「この子の最後くらいは、親がそばにいてやりたいんだわ」って、笑って言ってた人。
あの人、きっと、最後まで一緒にいてあげたんだろうな。
あたしも、あのお父さんみたいに、最後まで一緒にいてあげたい。
そう思ったら、口から出てた。
「例えばですよ」
声が震えてるのが、自分でも分かった。
「この世界に散らばってるこの子、全部あたしが引き受けます。あたしが寿命まで一緒に生きて、あたしが死ぬ時に、一緒に連れていく」
奏介さんが、びくっとして、あたしを見た。
「可哀想だから、ちゃんと、寿命で死なせてあげたいんです」
少し、間があった。
『……フム』
声の調子が、ほんの少しだけ変わった気がした。
『「生きたい」を受け入れてやる代わりに、寿命をつけるか。面白いな。権能での約定ならば、それで奴も死ねる』
それから、低く言った。
『……ただし、とてつもない苦痛だぞ。人が耐えられるものではないかもしれぬ』
怖かった。
正直に言うと、めちゃくちゃ怖かった。体の中にこの子が入ってるだけで、胸がぎゅうっと締め付けられてるのに、これを全部って。
でも、頭に浮かんだんだよ。
コンテナの壁の中で、雪だるまを三つ並べてた子どもたち。揚げいもを咥えて走り回ってた若菜。泣きながら手を振ってくれた春。
それから、木刀の横で、雪をかぶってる小雪さん。
あたしは、笑った。いつもみたいに。
「仕方ないですねぇ」
声が震えないように、お腹に力を入れた。
「春や子供達や、小雪さんが、みんなが一生懸命に生きてる世界、守らないと」
一拍、静かになった。
それから、声が、笑い出した。
『フッ、フハハハハ!』
白い中に、笑い声が響き渡る。
『よいぞ、人の子よ』
隣で、奏介さんが、口を開けたまま固まってた。
『だが』
笑い声が止まった。
『そんなものを抱えた娘を、この世界には置いておけぬ。別の世界でやり直せ。望む世界を言え』
……そっか。
ここには、いられないんだ。
そうだよね。こんなの抱えてたら、また何かあったら、みんなに迷惑かけちゃうもんね。
少しだけ、考えた。
「パンデミックも、世界がめちゃくちゃになることもない、あたしだけが居ない世界がいいです」
言ってから、奏介さんの方を見た。
奏介さんは、ここに残るんだろうな。
春がいるもん。子どもたちもいるし。奏介さんのこと、ちゃんと知ってる人たちが、ここにはいる。あの人たちのそばにいた方が、奏介さんは、きっと大丈夫。
最初に会った時から、ずっと、奏介さん、って呼んできた。
小雪さんが呼び捨てにし始めた時も、あたしは変えなかった。湯の川で二人がそうなった時も、変えなかった。変えちゃいけない気がしてた。奏介の隣は、小雪さんの場所だったから。
でも、小雪さんはもういない。
あたしも、もういなくなる。
だから、最後くらい、いいよね、小雪さん。
縛られたまま、奏介さんを見上げた。
精一杯、いつもの笑い顔を作った。
「さようなら、奏介」
初めて、そう呼んだ。
「大好きよ」




