第44話:あったかくして寝ろよ
中山峠から、何日か経った朝だった。
工場の食堂で、みんなで朝飯を食ってた。春が味噌汁をよそって、子どもたちが取り合いしながら卵焼きをつまんで、若菜は夏子の膝の上でパンをかじってる。
「若菜、こぼしてるこぼしてる」
「こぼしてないもん」
「こぼしてるって、ほら」
夏子が笑いながら、若菜の口の周りを拭いてやってた。
平和だなあ、と思って、味噌汁を啜った。
その時だった。
キュオオオオオーン。
今までで、一番強かった。
耳が割れそうで、胸の奥を直接ぶん殴られてるみたいな音。椀が手から落ちて、味噌汁がテーブルに広がった。
子どもたちが悲鳴を上げて、耳を塞いでる。春が咄嗟に、近くの子を両腕で抱き寄せた。若菜が夏子にしがみついてる。
震えが来た。膝が笑って、指先まで勝手に揺れる。
その手を、夏子が掴んだ。
……分かった。
前回より、ずっとはっきり分かった。
これ、叫びじゃない。断末魔だ。
消えかけてる何かが、最後の力を振り絞って、泣き喚いてる。生きたい、生きたい、生きたいって。もう喉が潰れかけてるのに、それでもやめられないみたいに。
音が、ふっと消えた。
食堂が静まり返る。子どもたちが、しゃくりあげてる。
「……あいつ、もうすぐ死ぬんだ」
口から出てた。
「あいつって?」
夏子が聞いてくる。
「……分かんねえ。分かんねえけど、そうなんだよ」
説明できなかった。でも、たぶん間違ってないんだわ。
昼には、ニュースが流れてた。
B型インフルに罹ってた人たちが、一斉にゾンビになった。
第二波で消えたのはA型だけで、B型は別だったらしい。規模はA型の時ほどじゃないけど、それでも、ようやく落ち着きかけてた街が、また一気にひっくり返った。
しかも、それだけじゃなかった。
その後の数日で、新しくB型に罹った人の中にも、同じように変わる人が出始めた。
テレビの専門家は「原因不明です」「今は絶対に罹らないようにしてください」って、同じことを繰り返すだけ。いつまで続くのか、誰にも分からない。
……あいつが死ぬまでの、悪あがきなんだろうな。
そう思ったけど、じゃあ、いつ死ぬのかは分からない。明日かもしれないし、一ヶ月先かもしれない。
その日の夜、食堂に全員を集めた。
「今日から、誰も工場から出るな」
子どもたちがきょとんとしてる。春は、分かってる顔だった。
「春も、夏子もだ」
夏子が顔を上げた。
「奏介さんは?」
「俺は罹っても、治癒で弾けるから平気。ただ、服とか手にくっつけて持ち込むかもしれない。だから、俺も中には入らない」
夏子の顔が、ちょっと固まった。
「……え、じゃあ、会えないってことですか」
「メールあるだろ」
それだけ答えた。
夏子は何か言いかけて、口を閉じた。春が黙って頷いて、夏子の肩に手を置いた。
それから何日か、一人でJLTVを走らせた。
暴徒は減ったよ。暴れてる余裕なんか、もう誰にもないんだろうな。その代わり、ゾンビが一気に増えた。
自衛隊も警察も、ボロボロになってた。罹った隊員がゾンビになって、仲間に噛みついて、また崩れる。ラジオから、そういう話ばっかり流れてくる。
北区の大きい病院の前で、患者を避難させてる自衛隊の部隊に出くわした。
担架を運んでる隊員たちに、ゾンビが群がってる。撃ち返してるけど、明らかに弾が足りてない。単発で、惜しみながら撃ってる。
JLTVを突っ込ませて、M240で群れを薙ぎ払った。
静かになったところで、隊員の一人がこっちを見て、凍りついた。
若い隊員だった。
真駒内で、小雪を撃った、あいつ。
何か言おうとして、口を開けて、言えなくて。それから、黙って、敬礼した。
「……お前ら、弾や銃は十分か?」
隊員が、言葉に詰まった。
「……正直、足りてません。罹った隊員の分も、回収できなくて」
「拠点どこ?」
「え……」
「拠点。どこにあんの」
教えてもらった自衛隊の拠点に、その足で向かった。倉庫の前の空き地に、収納から全部出す。
M4を五百丁。マガジンを三千個。弾薬を百五十万発。
どさどさどさっと、山になった。
倉庫から出てきた隊員たちが、口を開けて固まってる。
「米軍の払い下げ。好きに使って」
それだけ言って、JLTVに戻った。
後ろで誰かが「ちょ、ちょっと待って」って言ってたけど、待たなかった。説明すんの、めんどくさいしな。
夜、工場のコンテナ壁の外にJLTVを停めた。
車内で缶コーヒーを開ける。ラジオをつけたら、アナウンサーが、ちょっと声を詰まらせてた。
官房長官の森が、亡くなった。
第三波で感染して、自分の意思で隔離されて、そのまま。
アナウンサーは、続けて読み上げた。亡くなる数日前に、洞爺の研究施設を訪ねていた、と。そこで働く自衛官たち一人ひとりに頭を下げて、「君たちはよくやってる」と伝えていた、と。
缶コーヒーを握ったまま、しばらく動けなかった。
「……自分で決めて、やったんだな。あのおっさん」
約束、守ってから逝ったんだ。
ちゃんと、言ってくれたんだ。
スマホが震えた。夏子からだった。
『今日のごはん、春がカレー作ってくれました! 奏介さんの分、冷凍してあります』
続けて、もう一通。
『若菜が奏介さんの絵描いてました。トゲついてました』
笑っちまった。
『トゲは合ってる』
そう返して顔を上げたら、セーフルームの屋根のターレットの窓に、夏子が顔を出してた。こっちに向かって、両手を大きく振ってる。
JLTVの窓を開けて、手を振り返した。寒いなあ、ほんと。
窓を閉めたら、またスマホが震えた。
『早く一緒に揚げいも食べたいね』
『すぐ食えるって』
少し、間があった。
それから、もう一通。
『ちょっと喉いがらっぽいけど、乾燥してるだけです。おやすみなさい』
……乾燥してるだけ、か。
冬だもんな。工場の中、ストーブ焚きっぱなしだし。そりゃ乾燥するわな。
『あったかくして寝ろよ』
そう返して、スマホを伏せた。
フロントガラスの向こうで、ターレットの窓の明かりが、ふっと消えた。




