第37話:大好きって言いました?
広間はもう、どうしようもなかった。
起き上がった女将さんが、駆け寄った仲居さんの首に噛みついてる。廊下の奥からも悲鳴が上がって、それが次々に連鎖していく。さっきまで咳してた爺さんが、隣の婆さんに覆いかぶさってた。
「部屋戻ってる暇ねえ! 荷物は全部収納にある!」
夏子の腕を掴んで、小雪の背中を押して、厨房を抜けて裏口に飛び出した。
外は昨夜の雪で一面真っ白だった。浴衣に羽織、足元は旅館のスリッパ。もうほぼ裸足だよ。
「つめたっ! 足つめたっ!」
「あとで靴出すから我慢しろ!」
駐車場の空いてるところに、収納からJLTVを出した。どん、と雪を撒き散らしながら、でかい車体が現れる。
「夏子、運転! 小雪は助手席!」
「了解」
小雪は返事と同時に助手席に滑り込んでた。俺が収納からHK416を放ると、片手で受け取って、もう初弾を送り込んでる。この人、浴衣でもこれだもんな。
俺は屋根のハッチからターレットに上がって、M2のコッキングレバーを引いた。
がしゃん、と重たい音がする。
……あれ。
さっきまで震えが止まらなかった手が、機関銃のグリップを握った途端に、すっと落ち着いたんだよ。自分でもびっくりするくらい。
「……あー、やっぱこういうの好きなんだわ、俺」
「浮かれてる場合じゃないわよ」
下から小雪の声が飛んできた。聞こえてたのかよ。
「浮かれてねえよ、落ち着いてんの」
「同じことでしょう」
違うんだって。たぶん。
湯の川から産業道路に出たら、そこも同じだった。
乗り捨てられた車があちこちで斜めに止まってて、その隙間を人が逃げ惑ってる。倒れてる人がいて、起き上がる人がいて、それに噛みつかれる人がいる。さっきまで普通の朝だったのに、三十分もしないうちにこれだよ。
「どいてどいてどいてー!」
夏子が叫びながら、車の隙間をすり抜けていく。軽自動車が道を塞いでたら、JLTVのバンパーで押しのける。軽がくるっと回って、歩道の雪山に突っ込んだ。
「ごめんなさーい! 誰も乗ってなかったですよね!?」
「乗ってなかった、たぶん!」
前方の交差点で、ゾンビが五、六体、倒れた男に群がってる。男はもう動いてない。俺はM2の照準をそっちに向けて、引き金を引いた。
どどどど、と腹に響く音がして、群がってたゾンビが弾け飛ぶ。
「人間には当てないで!」
「当ててねえよ! たぶん!」
「たぶんって何!」
「この状況で百パーは無理だろ!」
言い合いながら撃って、撃ちながら進む。こういう時の小雪は、ほんと頼りになるんだわ。右に何体、左に何体って、全部先に教えてくれる。
交差点の先で、事故った車が道を塞いでた。夏子がブレーキを踏む。JLTVが止まった。
その瞬間に、夏子がごほっと咳をした。
車内の空気が、凍った。
小雪がゆっくり、夏子の方を向く。俺もターレットから身を乗り出して、運転席を覗き込んだ。
夏子が、きょとんとしてる。
「……え、なんですか二人とも」
「……夏子、今の」
「二日酔い! 昨日飲みすぎて喉やられただけですって! ほら、熱もないし!」
自分で額に手を当てて見せてる。
小雪が、長く、長く息を吐いた。
「……紛らわしいことしないで」
「そんなこと言われても!」
「寿命縮んだわ、五年くらい」
俺はターレットに戻って、また撃ち始めた。心臓がまだばくばく言ってるよ。勘弁してくれ、ほんと。
桔梗から国道5号に出て、ようやく街を抜けた。
大沼の手前の駐車帯にJLTVを停めて、収納から三人分の靴と服を出す。夏子は後部座席で浴衣を脱ぎながら、けらけら笑ってた。
「浴衣で機関銃撃ってる人、初めて見ました」
「俺も初めて撃ったわ」
「似合ってましたよ。すごく変な人でした」
褒められてんのか、それ。
小雪は助手席で着替えを済ませて、スマホを見てた。画面をスクロールする指が、途中で止まる。
「函館だけじゃないわ。札幌も、苫小牧も、旭川も。どこも同じことが起きてる」
覗き込んだら、ネットが悲鳴みたいな書き込みで埋まってた。「家族が急に」「咳してた人が」「隣の人が」。どれも途中で書き込みが止まってる。
夏子が、ズボンを履きかけたまま、手を止めた。
「……春、大丈夫かな」
ぽつりとした声だった。
小雪が顔を上げる。
「子どもを拾ってたら、中にA型の子がいてもおかしくないわね。春ならきっと、拾ってるわ」
夏子がスマホを出して、春に電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。鳴り続ける。
出ない。
夏子がもう一度かける。また鳴って、また鳴って、切れた。
誰も何も言わなかった。
俺はハンドルに手をかけたまま、フロントガラスの向こうの雪を見てた。
……今までの俺なら、絶対戻らないよなあ。
こんな時に札幌なんて、厄介事の塊に自分から突っ込むようなもんだろ。誰に何を言われたって、はいはいって流して、とっとと逃げてたはずなんだよ。実際、ずっとそうしてきたんだし。
でも、室蘭の駐車場で、夏子に言われたことが頭から離れないんだわ。
アタシが奏介さんを知ってる。小雪さんも、春も。
……そうなんだよな。春は、俺を知ってる。俺の顔を見て、名前を呼んで、「さようなら」って言って行った。
頭をがしがし掻いた。
「……札幌行くか」
夏子と小雪が、同時にこっちを見た。
「勘違いすんなよ。誰かに言われたからじゃないからな。俺が決めたの」
二人とも黙って聞いてる。なんか照れくさいんだよ、こういうの。
「大好きな女二人と、俺のことを知ってくれてる女を助けに行くって、俺が決めたんだ」
一拍、間があった。
夏子が後部座席から、ぐいっと身を乗り出してくる。
「……今、大好きって言いました?」
「言ってない」
「言いましたよね、小雪さん」
「言ったわね」
「しかも二人って言いました! あたしも入ってます! 入ってますよね!?」
「うるせえ、シートベルトしろ」
小雪が助手席で、ふっと笑った。
エンジンをかけて、JLTVを国道に戻す。北へ。
しばらく走ってたら、後ろが静かになった。
バックミラーを見ると、夏子がこてんと倒れて寝てた。緊張が切れたんだろうな。口開けて寝てるよ、この子。
雪がまた降り始めてた。ワイパーが、ゆっくり左右に動いてる。
助手席の小雪が、何も言わずに、俺の左手に自分の手を重ねてきた。
見なくても分かった。昨夜と同じ、あったかい手だったから。
俺も何も言わずに、その手を握り返した。
前方は真っ白で、どこまでも続いてる。
春のいる札幌まで、まだ三百キロある。




