第35話:一番いい朝に、それは来た
湯の川の海沿いに、まだ営業してる老舗の旅館があった。
玄関をくぐると、フロントの女将さんがマスク越しにごほごほ咳き込みながら、頭を下げてくれた。
「すみませんね、今年はA型が流行ってて。うちの仲居も半分寝込んでるんですよ」
「大変だね。泊まれるなら文句ないよ」
「お食事は簡単なものになりますけど」
「全然いいって」
ロビーの奥のソファでも、誰かが咳をしてた。避難所でも配給の列でも、最近はどこ行っても誰かしら咳してるんだよなあ。まあ冬だし、しょうがないか。
部屋は三階の角で、窓の向こうがそのまま海だった。夏子が荷物を放り出して窓に駆け寄る。
「うわあ、海! 露天付きですよこの部屋!」
「ほらな、洞爺じゃなくても入れただろ」
「最初からこっち来れば良かったです……」
山越えで泣いてたのを思い出したらしい。ざまあみろだよ。
で、荷物を解き始めたところで、夏子が急に振り返った。
「あ、あたし今日は赤レンガの辺りで飲んで、そっちに泊まるんで!」
「は?」
「バーもやってるらしいんですよ、あの辺。せっかく函館来たんだし」
「一人で?」
「一人で飲みたい夜もあるんですよ。大人なんで」
胸張って言ってるけどさ。昨日まで山で泣いてた奴の台詞じゃないだろ。
「……夏子」
小雪が何か言いかけた。夏子は、にっと笑って、それを遮った。
「お土産はいらないです。その代わり、明日、話聞かせてくださいね」
そう言って、上着を掴んでさっさと出ていく。
玄関で靴を履いてる背中が、なんだか少しだけ小さく見えた。気のせいかと思ってたら、振り返った顔はいつもの太陽みたいな笑顔で、ひらひら手を振って行っちゃったよ。
ドアが閉まって、部屋が急に静かになる。
「……気を遣われちゃったわね」
「あいつ、ああいうとこ変に大人なんだよな」
頭を掻いた。いや、気を遣われるようなこと、まだ何もないんだけどさ。まだって言っちゃってる時点で、あれなんだけど。
露天に浸かったら、目の前が真っ暗な海だった。
津軽海峡ってやつだ。昔なら漁り火がずらっと並んでたんだろうけど、今は一つも見えない。波の音だけが、ずっと続いてる。
湯上がりに、窓辺の椅子に並んで座った。小雪は浴衣の上に羽織を引っかけて、髪をタオルで拭いてる。この人、風呂上がりでも背筋が伸びてるの、ほんとなんなんだろうね。
しばらく二人で海を見てたら、小雪がぽつりと言った。
「八雲の人、今頃どうしてるかしら」
「自分で決めて、娘のそばにいるんだろ。それでいいんだよ、あの人は」
「……そうね」
小雪は少し黙ってた。それから、海の方を向いたまま言った。
「私もね、自分で決めることにしたの」
「何を?」
「あなたと一緒にいること」
……え。
横を見たら、小雪はまだ海を見てた。耳だけ赤くなってる。
「俺、オッサンだぞ。中身はガキだけど」
「知ってるわ」
「異世界から来た変な奴だし」
「知ってる」
「人もいっぱい殺してるし」
「それも知ってるわ。全部知ってて言ってるの」
小雪がやっとこっちを向いて、笑った。いつもの無表情じゃなくて、ちゃんと笑ってたんだよ。
「……勘違いしていいの?」
「勘違いじゃないって言ってるのよ」
何か軽口を返そうとして、出てこなかった。こういう時にかぎって出てこないんだよなあ、俺。
だから、黙って小雪の手を取った。冷たいかと思ったら、湯上がりだからあったかかった。
窓の外で、雪が降り始めてた。
翌朝。
朝食の広間で、小雪と二人で味噌汁を啜ってたら、夏子が戻ってきた。
「おはようございまーす……頭いたい……」
顔が死んでる。完全に二日酔いだわ。
「飲みすぎだろ」
「だって、いいバーだったんですよぉ。マスターが渋くて……あ、でもお客さん、みんな咳してたんですよね。風邪うつされたかも」
「A型流行ってるらしいからな、気をつけろよ」
「はーい」
夏子は俺たちの向かいに座って、湯呑みを両手で抱えた。それから、俺の顔と小雪の顔を、交互に、じーっと見た。
「……で?」
「何が」
「で? で? どうだったんですか?」
にやにやしてる。味噌汁吹きそうになったわ。
「美味しいわよ、この鮭」
小雪が涼しい顔で話を逸らした。でも、耳が真っ赤なんだよ。
「うわー! 小雪さん耳まっか!」
「夏子」
「かわいい! 小雪さんかわいい!」
「うるせえ、飯食え」
夏子が「はーい」と言いながら、まだにやにやしてる。小雪は黙って鮭をほぐしてて、俺は漬物をかじった。
……なんだろうな。
窓の外は昨夜の雪で真っ白で、海が光ってて、向かいでバカみたいに笑ってる奴がいて、隣には、昨日よりちょっと近くに座ってる人がいる。
こっちに来て、一番いい朝かもしれないな、と思った。
その時だった。
音じゃない。耳から入ってくるんじゃなくて、胸の奥に、直接叩き込まれる。
キュオオオオオーン。
言葉になってない。意味もない。ただ、叫んでる。
箸が、手から落ちた。
体が勝手に震え出す。止めようとしても止まらない。膝も、指先も、歯の根まで。夏子も小雪も、目を見開いたまま固まってる。隣の席の爺さんも、お茶を運んでた仲居さんも、広間にいる全員が、同じ顔で凍りついてた。
知ってる。
俺はこれを知ってるんだよ。あの夜の。山奥の拠点で、垂れ流しのままへたり込んだ、あの時の。
……いや、違う。
あの時のアイツは、もっと重かった。こっちの存在ごと値踏みしてくるような、とんでもない圧だった。これは違う。もっと薄っぺらくて、必死で、みっともない。
生きたい。
生きたい、生きたい、生きたい。
ただそれだけを、泣き喚くみたいに縋りついてくる。
「……違う。あの時のアイツじゃない」
声が震えて、ちゃんと出てるのか自分でも分からなかった。
「でも、同じ場所から来てる」
なんでそう思ったのかは分からない。でも、分かるんだよ。こんなもん、人間が出せる音じゃない。あの化け物と同じ、上の方にいる何かだ。
震えが止まらない手を、左右から握られた。
左は夏子で、右は小雪だった。二人とも自分だって震えてるくせに、俺の手を、ぎゅっと握ってた。
……あの夜は、一人だったんだよな。
音が、ふっと消えた。
広間が静まり返る。誰も動かない。仲居さんが、お盆を持ったまま、ぽつりと呟いた。
「……今の、何?」
その直後に、ロビーの方で、どさりと重いものが倒れる音がした。
振り返ると、フロントの前で、女将さんが崩れ落ちてた。床の上で、体がびくびくと跳ねてる。痙攣だ。
「女将さん!?」
誰かが駆け寄る。その向こうの廊下の奥から、悲鳴が上がった。もう一つ。また一つ。
あちこちから、咳をしてた人たちがいた方から。
小雪は、もう立ち上がってた。羽織の下に手を入れて、グロックのグリップを握ってる。
「奏介」
名前を呼ばれた。
膝が笑ってる。手の震えもまだ止まってない。情けないったらないよ、ほんと。
でも、今は一人じゃないからさ。
「……逃げるぞ」
俺は、立ち上がった。




