第34話:三千円のバーガーと、父親の決めたこと
洞爺の山を下りきって、国道に出たところで、収納からランクルを出した。
「最初からこれで来られたら良かったのに……」
夏子が雪まみれのかんじきを外しながら、恨めしそうに言う。
「封鎖線をランクルで越えたら目立つでしょう」
「それは分かってますけど、分かってても言いたいんです」
「気持ちは分かるわ」
小雪が珍しく同意してた。俺はヒーターを全開にして、二人が乗り込むのを待つ。夏子は後部座席に倒れ込んだ瞬間に「あったかい……文明……」と呟いて、そのまま動かなくなった。
国道5号を、函館に向かって南へ走る。
長万部を過ぎたあたりで、死んでたはずの夏子が急に起き上がった。
「カニ! カニの看板!」
「どこも閉まってるよ」
「分かってますけど! でもカニって書いてあるじゃないですか!」
「書いてあるだけだろ」
「奏介さんには夢がないんですよ」
夢じゃ腹は膨れないんだよなあ。バックミラーの中で、夏子がシャッターの下りたカニ屋をいつまでも目で追ってた。
八雲の手前まで来た時、小雪が窓の外を指さした。
「あそこ、煙が出てるわ」
道沿いの一軒家だ。周りに家はなくて、畑の真ん中にぽつんと建ってる。その煙突から、細く煙が上がってた。
「こんな所に、人がいるのね」
「ちょっと寄るか。この先の道がどうなってるか聞きたいし」
ランクルを停めて玄関の前に立つと、中から足音がして、ドアが少しだけ開いた。
出てきたのは、四十代くらいの男だった。頬がげっそりこけてて、服がぶかぶかなんだよ。痩せたっていうより、削れた感じ。なのに目だけは妙に落ち着いてる。
「……人間かい」
「人間だよ。函館まで行く途中でさ、この先の道、通れるか知ってる?」
男は俺たち三人の顔を順番に見て、それからドアを開けた。
「上がんな。何も出せるもんはないけど、外よりはあったかいっしょ」
居間には石油ストーブが焚いてあって、確かにあったかかった。
その奥の襖が、少しだけ開いてる。中から、じゃら、と鎖の擦れる音がした。
夏子がそっちを見た。男は隠そうともしないで、襖を開けた。
「娘だわ。美空っていうの」
十歳くらいの女の子が、柱に鎖で繋がれてた。痩せ細って、頬の骨が浮いてる。こっちを見てるけど、動きはほとんどない。時々、口がかすかに開いたり閉じたりするだけだ。
「避難の途中で噛まれてさ。置いてくわけにいかんしょ。連れて帰ってきて、ここに繋いだの」
男はストーブの前に座り直して、手をかざした。
「……飯は、どうしてんの」
俺が聞くと、男は首を振った。
「この子に食わせられるもんは、ないからね」
「あなたのことよ」
小雪が静かに言った。男は少しだけ笑った。
「この子が食えないのにさ、俺だけ食うのも、なんだかね」
夏子が膝の上で手を握りしめてる。
「でも、そのままだと……」
「うん」
男はあっさり頷いた。
「二人で、ゆっくり逝こうと思ってね」
誰も何も言えなかった。ストーブの上のやかんが、しゅんしゅん鳴ってる。
小雪が、少し間を置いてから口を開いた。
「……楽にしてあげることも、できます」
男は、しばらく美空の方を見てた。それから小雪の方を向いて、頭を下げた。
「ありがとね。でもさ、この子の最後くらいは、親がそばにいてやりたいんだわ。変な話だけど、この子、まだ一生懸命生きようとしてるからさ」
夏子が、ぽつりと言った。
「……死なせてもらえない子もいれば、ちゃんと最後まで一緒にいてもらえる子もいるんですね」
洞爺のホテルのことだな。鎖で繋がれてるのは、あっちもこっちも同じなんだけど、全然違うんだよ。
「そっか」
俺は立ち上がった。
「自分で決めてるなら、俺らが口出す話じゃないわな。道の話だけ聞かせてくれ」
男は森町の先で一ヶ所、道が雪で埋まってるけど脇から抜けられる、と教えてくれた。礼を言って玄関を出る時、男が居間に戻った隙に、玄関の脇に灯油のポリタンクを二つと、水を何本か置いといた。
「食べ物は置かないんですか」
夏子が小声で聞いてくる。
「置いたら、あの人の決めたことに口出すことになるだろ」
「……そっか」
車に戻ってエンジンをかける。助手席の小雪は、バックミラー越しに煙突の煙をずっと見てた。煙が見えなくなるまで、何も言わなかったよ。
函館に着いたのは夕方だった。
封鎖線の検問はあったけど、室蘭ほどピリピリしてなくて、中に入ったら普通に人が歩いてる。店も開いてる。車もちゃんと走ってる。
「バーガー! バーガーですよ奏介さん!」
さっきまで後ろで黙ってた夏子が、窓に張り付いて叫んでた。切り替え早いなあ、この子。
でも、たぶんわざとだろうな。
函館名物のハンバーガー屋に入って、メニューを見た夏子が固まった。
「……三千円!?」
「物流止まってるからな。肉もパンも手に入りにくいんだろ」
「バーガーが、三千円……」
「いいよ、払うから好きなの頼め」
「ほんとですか! じゃあこれ! 一番でかいやつ!」
指さしたのは、パティが三枚挟まってるやつだった。値札には五千円って書いてある。遠慮って言葉を知らないのかね。
出てきたバーガーに、夏子が両手でかぶりつく。
「うまっ、三千円の味がする!」
涙目になってた。
「貴方のは五千円よ」
小雪が笑いながら言って、自分のバーガーもちゃんと最後まで食べてた。この人、何でも綺麗に食べるんだよなあ。
その足で、塩ラーメンの店にも寄った。夏子がどうしても両方食べるって言うからさ。
澄んだスープを一口啜って、夏子が息を吐いた。
「……あったかいですね」
さっきまでとは違う、少ししんみりした声だった。
「そりゃラーメンだからな」
はぐらかしたけど、顔を上げたら小雪と目が合った。二人とも、同じ家のことを考えてたんだろうな。何も言わずに、麺を啜った。
店を出ると、雪がちらつき始めてた。
「湯の川! 湯の川行きましょ!」
夏子が俺の腕を引っ張る。
「はいはい、分かったって」
小雪が後ろで、くすっと笑った。
♦
何日か後の、八雲の一軒家。
ストーブの灯油は、昨夜のうちに最後の一滴まで燃え尽きていた。
男は、柱に手をついてようやく立ち上がった。脚に力が入らない。自分がそう長くないことは、もう分かっていた。
鎖をほどいて、美空を抱き上げる。驚くほど軽かった。荷造りのロープで、自分と娘の体をぐるぐると縛りつける。ほどけないように、何度も、何度も。
玄関を開けると、雪が止んだばかりだった。
空が、抜けるように青い。
男は玄関先に腰を下ろして、娘を抱いたまま空を見上げた。
「綺麗だなあ、美空。お前が生まれた時みたいだ」
あの日も、こんな空だった。病院の窓から見上げて、この子の名前を決めたのだ。
男は笑った。
美空の口が、男の肩に届く。歯が食い込む。男は腕をほどかなかった。むしろ、少しだけ強く抱きしめた。
「ごめんな、腹、減ってたよな」
男は満足そうに目を閉じた。
噛まれた体は、もう動くことはなかった。動くための燃料が、どこにも残っていなかったから。
美空は父親の肉で、少しだけ長く生きた。けれど縛りつけられた父親の体は重く、玄関先から一歩も動けなかった。冬の外気が、少しずつ小さな体を冷やしていった。
やがて、二人とも動かなくなった。
青い空の下で、父と娘は、ゆっくりと雪に埋もれていった。




