第四部 昭和の母ちゃんは、今日も大忙し
昭和の母親たちは、本当に働き者でした。
家事だけでも大変なのに、子育てに地域の行事、畑仕事までこなし、それでも毎日笑って暮らしていました。
今思えば、どうやってあれほどのことを一人でこなしていたのだろうと驚くばかりです。
今回は、そんな昭和の母ちゃんたちへの感謝を込めて綴ります。
子供の頃、近所にはたくさんの子供達がいた。隣も、その隣も、向かいの家にも、またその隣にも――軒並みに子どもたちが溢れている、そんな時代だった。
子どもたちは時間を忘れて夢中で遊ぶ。
夕方になると、あちこちに夕焼けを知らせる音楽が流れた。
その音楽が鳴り響いた瞬間、町中のあちこちから、我が子を呼ぶ母親たちの大きな叫び声がこだまするのだ。
昔の母親たちは本当に忙しかった。
洗濯機なんてまだない時代、たくさんの子どもたちを育てながら、タライと洗濯板を駆使して毎日洗濯をしていた。ご飯を炊くのは羽釜で、掃除機もなく、ほうきとはたきを持って家中をパタパタと懸命に掃除をしていたものだ。
うちの母親は少し新し物好きで、周りのよそのお宅よりも早くに洗濯機を購入した。
ただ、その昔の洗濯機には脱水機能がついていなかった。代わりに2個のローラーがついていて、びしょ濡れの洗濯物をローラーの間に挟み、手動でハンドルを回すと、ぺっちゃこになって水分が絞り出されて出てくるという、当時の「優れもの」だった。
母親たちは毎日の買い物も本当に大変だったはずだ。
当時は「スーパー」なんて呼ばず、「売店」と言っていた。家から1キロから2キロは離れていたその売店へ、買い物カゴを手に持って、毎日歩いて買い出しに行く。味噌や醤油といった重たいものも当然買って帰るのだから、帰りの道のりはさぞ大変だったに違いない。
売店の味噌は、大きな桶のようなものに山のように盛られてそびえ立っていた。そこに大きなしゃもじが突き刺してあって、昔はすべて量り売りだった。
醤油は、家から一升瓶を持参して、そこに注いでもらうシステムだった。――もっとも、これは子供の頃の記憶だから、少し間違っているところもあるかもしれないけれど。
お豆腐やこんにゃく、ところてんは、近所のお豆腐屋さんに空のボールを持っていって、その中に入れてもらっていた。
ところてんやこんにゃくは、お店の人が専用の木の箱に入れてぐっと押し出すと、するすると糸こんにゃくのように細くなって出てくる仕組みになっていて、それを見るのも密かな楽しみだった。
さらに、母親たちの仕事は家事や買い物だけにとどまらなかった。
近所の誰かが亡くなると、母親たちはそのお宅に集まっては総出で炊き出しをした。地域の祭りや運動会でも、母親たちが中心になってご飯をこしらえた。
子どもたちの行事も数え切れないほど多かった。子ども会のキャンプや旅行の世話があり、夏休みになれば朝のラジオ体操の当番が回り、プールへ行くときにも必ず付き添わなければならなかった。
七夕になると、家の屋根に届きそうなほど大きな竹を立てて、みんなで色とりどりの短冊や飾りを作って賑やかに飾った。お祭りともなれば、笛や太鼓の練習があり、本番では小さな神輿の後ろを笛や太鼓を鳴らす子どもたちが続き、さらにその列の後ろをゾロゾロと付き添って歩く母親たちの姿があった。
我が家の母親は、それに加えて田んぼと畑でお米や野菜を育てていた。
いったいどうして1人でそんな重労働をこなしていたかというと、父親はサラリーマンで、三交代制の不規則な勤務だったため、家にはほとんどいなかったからだ。
昔の母親たちは、子どもたちの世話に、山のような家事に、そして農業の切り盛りまで、すべてを1人で背負っていた。
――もしかしたら、あの毎日のめまぐるしい忙しさとプレッシャーがストレスだったのだろうか。夕暮れ時に響き渡る、子供たちを呼ぶ母親たちの声は、何処までも遠くまで通るほど、それはそれは大きな大声だった。
重労働を抱えながらも、家族のために一日中よく働き、地域の中で助け合い、夕暮れ時には子どもたちの名前を大声で呼び続けていた昭和の母ちゃんたち。
あのタライの音や、醤油瓶を提げて歩いた母親の背中、そして力強く響いた母の声は、今でも私の胸の奥で温かく息づいている。
子どもの頃は、それが当たり前だと思っていました。
でも大人になり、自分で家事をするようになって初めて、あの頃の母親たちがどれほど大変だったのかを少しだけ理解できた気がします。
便利な家電もなく、休みもなく、それでも家族のために毎日働き続けた昭和の母ちゃんたち。
今思えば、「ありがとう」の一言では足りないくらいです。
あの時代を支えてくれたすべての母ちゃんたちに、心から感謝を込めて




