第三十部 お腹の中には明日の卵が入っていた
昭和の頃は、今ではなかなか見ることのない光景が、日常の中にありました。
幼い私が目の当たりにした、忘れられない出来事です。
物心つく前の幼い頃、我が家の庭ではニワトリを放し飼いにしていたらしい。
庭をトコトコと歩き回りながら、地面をつついて餌を探しているニワトリの姿を、私の記憶の片隅でもぼんやりと覚えている。
さすがに小学生になる頃にはそのニワトリはいなくなっていたのだが、家からほど近い場所に養鶏場があった。
ある日のこと。母がその養鶏場から一羽のニワトリをもらってきた。
そして、今となっては驚くことだが、母はそこですんなりと、何のためらいもなくそのニワトリをしめ、見事な手際でさばき始めたのである。
だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。
母は、ニワトリのお腹の中からぽろっと取り出したものを見せながら、私に言った。
「ほら、これが明日産まれるはずだった卵。んでこっちが明後日で、その次がしあさって」
母の指先には、大きいものから順に、グラデーションのように並んだ黄色の卵がいくつも連なっていた。
温かい生体の中には、これから生まれてくるはずだった未来の卵たちが、小さなサイズから順にずらりと並んでいたのだ。
「卵って……こうやって、体の中で順番に並んでるんだ……」
子ども心に衝撃を受けたことを、今でも鮮明に覚えている。
スーパーには、きれいにパック詰めされた鶏肉や卵が並んでいる。
子どもの頃に見た、あのニワトリのお腹の中に並んでいた未来の卵たちを思い出すことは、もうほとんどない。
あの日見た光景は、「命をいただく」ということを、幼い私に教えてくれた最初の出来事だったのかもしれない。
当時は驚きしかありませんでしたが、大人になった今では、あの日の光景が「命をいただく」ということを教えてくれたのだと感じています。
食卓に並ぶ一つひとつの食べ物も、もとは命だったことを、時々思い出したいものです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




