第三件 ゆかり姫の永遠の騎士事件 正式名称:未来相続資料到達不能及び祖父写真閲覧不能に伴う認証情報開示請求事件
さてさて、紳士淑女の皆様。
人には、忘れたい過去があります。
若い日の片思い。
言えなかった一言。
なぜか特別だと思いこんだ雨の日。
そして、たった一度借りただけの消しゴム。
それらは、時が経てば薄れていく。
そう思うでしょう。
ところが、薄れません。
人間というものは厄介でありまして、忘れたいものほど、妙なところに保存してしまうのであります。紙のノート、卒業アルバム、古い引き出し、そして、パスワード。
本日、未来時際裁判所に呼び出されましたのは、宮野健一さん。六十二歳。
本人としては、よき祖父であり、まじめな生活者であり、まあまあ普通の人間であるつもりでした。
しかし皆様、もうご存じでしょう。
この法廷で「普通」は、だいたい被告席への片道切符なのであります。
*
宮野健一は、公園のベンチに座っていた。
隣では、四歳になる初孫が、カップアイスのふたを両手で持ち、真剣な顔をしている。アイスはもう半分ほど溶け、白いワンピースの胸元に一滴、ぽたりと落ちていた。
「じいじ、こぼれた」
「こぼれたなあ」
健一は笑って、ハンカチで孫の胸元を拭いた。
孫は、叱られると思ったのか、口を少し尖らせる。困ったとき、目尻に小さなしわのようなものが寄る。まだ四歳なのに、いっぱしに世界と交渉している顔をする。
「写真撮るぞ」
健一がスマートフォンを向けると、孫は急に笑った。
アイスをこぼしたことなど、もう忘れている。
その切り替えの速さが、健一にはまぶしかった。年を取ると、人は些細な失敗を妙に引きずる。昔のことなど忘れたふりをして、実際には覚えている。覚えているくせに、忘れたことにして生きている。
「はい、チーズ」
孫は、なぜか両手を頬に当てた。
健一はシャッターを切った。写真は自動でクラウドに送られ、さらに、健一が晩年に備えて導入した個人暗号化保管庫へ同期される設定になっていた。
「これで残るな」
健一は満足した。
初孫に名をつけたのは、健一だった。
娘夫婦は、最初は別の名を考えていた。健一は口を出すつもりはなかったが、ぽろりと候補を言った。その響きを、娘が気に入った。
「お父さんにしては、かわいい名前じゃん」
そう言われて、健一は妙に照れた。
初孫に名をつける。
それは、人生の終盤に与えられた、小さな勲章のようなものだった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面に、見慣れない通知が浮かんでいる。
未来時際裁判所より訴状が送達されました。
被告、宮野健一殿。
下記請求事件につき、出廷を命じます。
健一は、迷惑メールだと思った。
「じいじ、どうしたの」
孫が、アイスのついた口で尋ねた。
「変なのが来た」
「へんなの?」
「そう。変なの」
健一が削除しようと画面に指を伸ばした瞬間、世界の輪郭が、栞を挟まれた本のページのように薄くなった。
風が止んだ。
孫の笑い声が遠ざかる。
最後に見えたのは、アイスをこぼしたまま、こちらを見上げる小さな顔だった。
*
未来時際裁判所の法廷は、相変わらず白かった。
高い天井。
壁のないようで、どこまでも奥行きのある空間。
裁判長席には、木槌の代わりに銀色の栞が置かれている。
宮野健一は、被告席に立たされていた。
「開廷します」
裁判長が銀色の栞に指を置いた。
「事件名。第三件、過剰複雑認証情報秘匿事件。正式事件名、未来相続資料到達不能及び祖父写真閲覧不能に伴う認証情報開示請求事件」
健一は、事件名の時点で嫌な汗をかいた。
認証情報。
開示請求。
どちらも、聞きたくない言葉だった。
「原告を確認します。宮野家未来相続人団。代表、宮野雛、九十三歳さん」
法廷の扉が開いた。
一人の老婆が、杖をついて入ってきた。
背は小さく、白い髪を後ろでまとめている。皺の深い顔に、柔らかい目をしていた。歩幅は狭いが、足取りには妙な芯がある。
健一は、その顔を見て、息を止めた。
「……まさか」
老婆は証言台の前で立ち止まり、健一を見た。
そして、少しだけ笑った。
「はい。じいじ」
健一は、言葉を失った。
今朝、公園でアイスをこぼしていた初孫が、そこにいた。
九十三歳になって。
裁判長が事務的に告げる。
「なお、原告の氏名表記については、雛氏高齢化名称錯誤事件判決に基づき、年齢併記を行います。以後、本法廷では、原告を雛、九十三歳さんと呼称します」
雛、九十三歳さんは、慣れた様子でうなずいた。
「はい。もう慣れました」
健一は、何に慣れさせられているのか考えたくなかった。
検察官が立ち上がった。
「本件は、被告が未来相続人らにとって必要な情報を含む暗号化保管庫を管理しながら、その解除に必要な認証情報を開示せず、結果として相続資料、保険請求資料、介護費清算記録、ならびに家族写真への到達を妨げている事案です」
「妨げているって」
健一は思わず言った。
検察官は、静かに資料をめくった。
「被告の暗号化保管庫には、晩年の医療保険請求に必要な書類、介護費立替記録、ネット銀行および証券口座の控え、古い住宅の修繕履歴、ならびに家族写真約二万三千枚が保存されています」
「二万……」
「そのうち、原告らが特に必要としているのは、介護費および医療費の清算に関わる資料です。これらが取得できなかったことにより、原告側の家計には長期にわたる負担が生じました」
雛、九十三歳さんの後ろには、数名の未来相続人が座っていた。
健一には、誰が誰の子なのか、もう分からなかった。
検察官は続けた。
「被告本人は、生前当該保管庫へアクセスしていました。しかし未来相続人らは、長大で本人依存性の高い認証情報に阻まれ、必要情報へ到達できませんでした」
雛、九十三歳さんが、ゆっくり手を挙げた。
「お金のことも、あります」
声はかすれていたが、よく通った。
「正直に言えば、必要でした。私の子や孫たちにも、迷惑をかけました。でも、それだけなら、私はここまで来ませんでした」
健一は、雛、九十三歳さんを見た。
「私は、祖父の写真を見たいんです」
法廷が、少し静かになった。
「私が小さかった頃の写真です。祖父が、私を抱いて笑っている写真が、そこにあるはずなんです。家に残っているのは、晩年の、病院で撮った写真ばかりで」
雛、九十三歳さんは、杖の頭に両手を重ねた。
「私は、おじいちゃんの元気な顔を、もう一度見たいんです」
健一の胸が詰まった。
今朝、公園で撮った写真。
アイスをこぼして笑っていた写真。
あれも、暗号化保管庫に入った。
あの子は、それを九十年近く探すのか。
「被告」
裁判長が言った。
「暗号化保管庫の解除に必要な認証情報を開示できますか」
健一は口を開いた。
すぐには声が出なかった。
「……覚えていません」
弁護人が隣で、わずかに目を閉じた。
検察官は、動じなかった。
「覚えていない」
「昔のことなので」
健一は、額の汗をぬぐった。
「若い頃の自分が何を考えていたかなんて、今の私にも分かりません。あの頃の私は、もう別人のようなものです」
言いながら、健一は、自分の言葉が薄い板のように法廷の床へ落ちていくのを感じていた。
忘れているはずがなかった。
忘れられるはずがなかった。
そのパスワードは、長すぎた。
長すぎるくせに、健一の中では、少しも崩れていなかった。
YukariHimeNoEienNoKishi_KeshigomuNoChikai_0712_AmeNoHiNoNibanMeNoKyoushitsu!
ゆかり姫。
永遠の騎士。
消しゴムの誓い。
七月十二日。
雨の日の二番目の教室。
それは、宮野健一が若い頃の自分を封じ込めるために作った、長すぎる鍵だった。
もちろん、法廷にはまだ言っていない。
検察官は、端末に視線を落とした。
「被告は、若年期の自己と現在の自己は別人であると主張されています」
「はい」
「では、訴状送達三日前、二十二時十四分に、当該暗号化保管庫へアクセスした人物は、どなたですか」
健一は口を開けた。
閉じた。
もう一度、開けた。
「……私です」
「現在の被告ですか」
「……かなり現在の私です」
検察官は、少しも笑わなかった。
「かなり現在の被告が、訴状送達三日前、二十二時十四分三十二秒、当該暗号化保管庫へのアクセスに成功しています。閲覧時間は四分五十二秒。生体認証二回、手入力認証一回」
雛、九十三歳さんが、小さくつぶやいた。
「三日前に……開けていたのですか」
「開いただけです」
健一は言った。
「開くには、認証情報の入力が必要です」
「たまたま指が覚えていて」
「では、指に聞きましょうか」
「やめてください」
裁判長が銀色の栞を少し動かした。
「被告の主張を整理します。若年期の被告は現在の被告とは別人であり、訴状送達三日前の被告は、現在の被告ではあるが、かなり現在の被告であり、ただし記憶は指に偏在している、という理解でよろしいですか」
「よくありません」
「では、どこからが本人ですか」
健一は、しどろもどろになった。
「今です」
裁判長は静かに言った。
「都合が良すぎます」
弁護人が立ち上がった。
「裁判長。人は年を重ねるにつれ、青年期の記憶を回想することがあります。被告の閲覧は、老いに伴う自然な回想行為であり」
検察官が言った。
「被告は現在六十二歳です」
弁護人は、一拍置いた。
「……やや早めの晩年です」
健一は、弁護人の方を見た。
助けているのか、沈めているのか、判断がつかなかった。
検察官は続けた。
「さらに、当該保管庫にはパスワードヒントが設定されています。ヒント欄は暗号化保管庫の外側に保存されており、確認可能です」
健一は、反射的に背筋を伸ばした。
「ヒント一。七月十二日」
健一の喉が鳴った。
「ヒント二。二番目の教室。ヒント三。借りたもの。ヒント四。守ると決めた日」
「……忘れました」
「被告」
「本当に」
「今、明らかに覚えている顔をしました」
「顔を証拠にしないでください」
検察官は、裁判長へ向き直った。
「被告本人が認証情報を失念しており、関係者もヒント欄の意味を確認できない以上、外部資料による特定が必要となります」
健一は、嫌な予感に全身を硬くした。
「外部資料とは」
「高校卒業アルバム、当時の日記、文集、写真裏面メモ、手紙、保存された紙片、付箋類などです」
健一の視界の端で、白い法廷が少し傾いた気がした。
卒業アルバム。
ゆかりの写真。
そのページ。
付箋。
いや、付箋だけではない。
文化祭のパンフレットにも、折り目がある。
日記には、もっといけない。
いけないというより、もう、当時の自分を法的に絶滅させたい。
検察官は続ける。
「裁判長。被告本人および関係者がヒント欄の意味を説明できないのであれば、検察としては、被告宅に残る青春期私的記録について、時際証拠保全命令の発出をご検討いただきたく」
「言います」
健一は立ち上がっていた。
法廷がこちらを見た。
裁判長が確認する。
「被告。任意開示でよろしいですね」
「任意です。完全に任意です。家はやめてください」
「強制ではありませんね」
「心は折れていますが、手続上は任意です」
雛、九十三歳さんが、不安そうに言った。
「あの……おじいちゃん。家に、何かあるのですか」
健一は、雛、九十三歳さんを見た。
九十三歳の雛の目の奥に、アイスをこぼして笑っていた四歳の初孫が、ほんの少しだけ重なった。
「……言う。言うから、家はやめよう」
検察官が言った。
「では、認証情報を開示してください」
健一は、深く息を吸った。
「……Yukari」
速記官が打った。
「続けてください」
「Hime」
検察官が確認する。
「ゆかり姫」
「訳さないでください」
「手続上必要です」
健一は、目を閉じた。
「NoEienNoKishi」
「永遠の騎士」
「だから訳さないでください」
「続けてください」
「アンダーバー、KeshigomuNoChikai」
雛、九十三歳さんが、ゆっくり瞬きをした。
「消しゴム……?」
健一は、もう止まれなかった。
「アンダーバー、ゼロ七一二。アンダーバー、AmeNoHiNoNibanMeNoKyoushitsu。最後に感嘆符ぅ!!」
最後の健一の声はもはや絶叫だった。法廷が、しばらく静かになった。
雛、九十三歳さんが、率直に言った。
「……長いですね」
健一は、うなだれた。
認証が通った。
法廷中央の表示板に、暗号化保管庫内のフォルダ一覧が浮かび上がる。
Family_Photo
Insurance
Care_Cost
House_Repair
Yukari_Hime
Kishi_No_Chikai_draft
0712_Eien
雛、九十三歳さんが、小さく言った。
「……写真だけでいいです」
裁判長が銀色の栞に視線を落とす。
「開示された認証情報には、複数の私的意味単位が含まれています」
健一は、嫌な予感しかしなかった。
「本件の争点は、被告が親族に必要な情報を、本人以外が開けられないほど複雑な認証情報で保護したことにあります。よって、当該認証情報が複雑化した理由について審理します」
「もう開いたなら、それで」
「被告。本法廷は、開けるだけの場所ではありません。なぜ閉じたのかを審理する場所です」
健一は、救いがないと思った。
検察官が一歩前に出た。
「まず、YukariHime について確認します。ゆかり氏とは、被告の高校時代の同級生ですね」
「はい」
「姫、とは何ですか」
「……敬称です」
「ゆかり氏は、王族の方ですか」
「違います」
「貴族階級、華族、またはそれに準ずる称号保持者ですか」
「違います」
「では、被告の内心における私的称号ですね」
「……そういうことに、なるかと」
裁判長が言った。
「片務的姫称号と整理します」
「整理しないでください」
検察官は続ける。
「次に、NoEienNoKishi について。永遠の騎士とは、被告自身ですか」
健一は、唇を噛んだ。
「……はい」
「ゆかり氏に任命されましたか」
「されていません」
「何らかの叙任式、同意、合意、または役割付与は」
「ありません」
「では、自己任官ですね」
「制度みたいに言わないでください」
裁判長が言った。
「未承諾騎士任官を含むものとします」
「含まないでください」
雛、九十三歳さんは、祖父を見る目を少しだけ変えた。
検察官は、いよいよ本丸へ進んだ。
「KeshigomuNoChikai。消しゴムの誓いとは、具体的に何ですか」
健一は、法廷の床を見た。
「七月十二日に、ゆかりさんが……消しゴムを貸してくれて」
「貸してくれた」
「はい」
「貸与された消しゴムは、どのような状態でしたか」
「状態?」
「新品でしたか」
「いえ、少し使ってありました」
「どの程度」
健一は、口を閉じた。
検察官は待った。
「角が……少し丸く」
「被告は、その角を使用しましたか」
「……はい」
「返却時、当該消しゴムの角はさらに減っていましたか」
「やめませんか」
「答えてください」
「少しだけ……」
雛、九十三歳さんが、杖を握り直した。
「おじいちゃん、消しゴムの角まで覚えているのですか」
「覚えてない。覚えてないんだ、雛」
検察官は、端末に視線を落とした。
「開示された保管庫内の青春期私的記録には、『彼女の消しゴムの角に触れた』との記述があります」
「そこは非開示にしてください」
「既に審理対象です」
「遅かった」
検察官は続ける。
「返却は」
「しました」
「つまり、当事者間に存在したのは、消しゴムの一時的貸借関係のみですね」
「……はい」
「それを、被告は『誓い』と表現した」
「当時は、そういう気持ちで」
「ゆかり氏は、その誓いを認識していましたか」
「していません」
裁判長が静かに言った。
「実質は消しゴム貸借、表示は誓約。偽装契約の疑いがあります」
「契約じゃないです」
「だから問題なのです」
健一は、言い返せなかった。
雛、九十三歳さんが、ぽつりと言った。
「おじいちゃんは、消しゴムを借りただけなのですか」
「雛、違うんだ」
検察官が言った。
「違いません」
「違わないけど、違うんです」
健一の声は、自分でも情けなかった。
ここで弁護人が勢いよく立ち上がった。
「裁判長。被告は当時、重度の青春期自己陶酔型騎士道症候群に近い状態にありました」
健一は弁護人を見た。
「近くないです」
弁護人は止まらなかった。
「消しゴムの貸借を、聖遺物の授与に類するものと誤認したとしても、それは未成熟な精神における防衛機制であり」
「黙ってください」
「さらに、ゆかり氏を王族視した点についても、思春期特有の内心王国形成として説明可能です」
「もう本当に黙ってください」
裁判長は静かにうなずいた。
「弁護人の主張を整理します。被告は、消しゴムを聖遺物と誤認した可能性がある、と」
「違います」
健一は、検察官より弁護人を止めたいと思った。
検察官は、情け容赦なく次へ進む。
「0712 は七月十二日ですね」
「はい」
「交際開始日ではない」
「はい」
「告白日でもない」
「はい」
「手をつないだ日でもない」
「はい」
「消しゴム貸借日である」
「貸借って言わないでください」
「消しゴム貸借日である」
「……はい」
裁判長が記録を確認した。
「非共有記念日固定化と整理します」
「もう何でもいいです」
健一は投げやりになってきた。
後方の席で、十代らしい未来親族が小さく「うわ」と言った。
すぐに隣の大人が肘でつついた。
つついた大人も、顔は同じ方向に引いていた。
最後に、検察官は端末を見た。
「AmeNoHiNoNibanMeNoKyoushitsu。雨の日の二番目の教室とは何ですか」
「二年三組の隣の空き教室です」
「なぜ、二番目なのですか」
「一番目の教室は、ゆかりさんの教室で」
「二番目の教室は」
「私がいた教室です」
「そこで、ゆかり氏を見ていた」
健一は、しばらく黙った。
「……はい」
「どの程度」
「どの程度とは」
「頻度です」
「頻度を聞かないでください」
雛、九十三歳さんが、そっと手を挙げた。
「裁判長」
「原告、雛、九十三歳さん」
「写真の閲覧範囲を、私が写っているものに限定することはできますか」
裁判長が顔を上げた。
「請求の一部変更ですか」
「はい」
雛、九十三歳さんは、健一を見た。
「祖父の青春を、これ以上、受け取る自信がありません」
健一は、何も言えなかった。
検察官が締めた。
「本件認証情報の複雑化は、財産資料や家族写真を保護するための合理的な強度設定ではありません。片務的姫称号、未承諾騎士任官、消しゴム貸借偽装誓約、非共有記念日固定化を組み合わせた、青春期自己神話の固定化です。その結果、未来相続人らの記録到達は著しく困難となりました」
弁護人が、まだ何か言いたそうに立ち上がった。
健一は小声で言った。
「もういいです」
「しかし」
「本当にもういいです」
弁護人は、少し残念そうに座った。
裁判長は、銀色の栞に指を置いた。
「判決を言い渡します」
白い法廷に、声が響く。
「認証情報を複雑にすること自体は、現代社会において一定の合理性を有します。個人情報、財産情報、家族写真を保護するため、強固な認証を設定することは、直ちに非難されるべきものではありません」
健一は、息を止めた。
「しかし、被告は、未来相続人が到達すべき資料と、自己の青春期私的記録とを同一の保管庫に収め、かつ、本人以外が推測困難な長大認証情報で保護しました」
裁判長は続けた。
「そのうえ、当該認証情報の長大化は、相続資料保護の合理性によるものではなく、片務的姫称号、未承諾騎士任官、消しゴム貸借偽装誓約、非共有記念日固定化を含む青春期自己神話の固定化に由来します」
弁護人は目を伏せた。
「ゆかり氏が王族であった事実、被告を騎士に任官した事実、消しゴム貸借を誓約へ転化する合意、七月十二日を両当事者の記念日とする合意、いずれも認められません」
健一は、天井を見た。
法廷は白かった。
とても白かった。
こんなに白い場所で、なぜ自分の青春だけが、こんなに黒く浮かび上がるのか。
「よって、本件認証情報の複雑化について、情状酌量の余地はありません」
裁判長は、銀色の栞を軽く動かした。
「なお、本件は、開示された認証情報の内容に鑑み、以後、便宜上、ゆかり姫の永遠の騎士事件と呼称します」
「便宜にしないでください」
「主文。被告に対し、暗号化保管庫内の相続資料、介護費清算資料、保険請求資料、ならびに原告、雛、九十三歳さんが写る家族写真の限定開示を命じます」
雛、九十三歳さんは、小さく頭を下げた。
「なお、Yukari_Hime、Kishi_No_Chikai_draft、0712_Eien その他、ゆかり氏関連と認められる青春期私的記録については、本件請求範囲外として非開示とします」
健一は、深く息を吐いた。
裁判長は続けた。
「刑として、被告を未来相続支援センター羞恥性認証情報開示補助係に十日間従事させます」
「なんですか、それは」
「同労務において被告は、認証情報の秘匿により未来相続人の記録到達が阻害された事案について、過去人本人からの任意開示を補助し、必要最小限の範囲で意味単位を整理するものとします」
健一は、意味が分からなかった。
意味はすぐに分かることになった。
*
未来相続支援センター羞恥性認証情報開示補助係は、法廷の隣にある小さな窓口だった。
健一は、そこで十日間、他人の恥を聞くことになった。
初日の一人目は、七十代の男性だった。
「パスワードヒントは、『俺だけの天使』です」
健一は、支給された記録用紙を見ながら、ゆっくりうなずいた。
「まず、その天使が実在の天使か、比喩かを確認しましょう」
男性は泣いた。
二日目には、パスワードに騎士を入れている男性が来た。
健一は、少しだけ親近感を持った。
その親近感は、綴りを見た瞬間、別の感情に変わった。
「騎士の英綴りを確認します。被告の記録では、Night となっていますが」
男性は固まった。
健一は未来職員に言った。
「これは本人に伝えないであげてください」
未来職員は首を振った。
「必要最小限の範囲で伝えます」
「それが一番きついやつです」
三日目、窓口に来た女性は、パスワードを書いた紙を握りしめたまま、なかなか手を開かなかった。
「言わないと、だめですか」
健一は、以前なら職員の顔を見ていたと思った。
今は、その女性の手元を見た。
「全部は言わなくていいです」
女性は顔を上げた。
「必要な部分だけです。相続資料に関係する保管庫を開けるための部分だけ。意味まで全部説明する必要があるかは、ここで確認できます」
女性は、少しだけ泣いた。
紙には、こう書かれていた。
MikaToOreNoDestiny_1998!
健一は、ゆっくり記録用紙に記入した。
「未承諾運命共同体型……いや」
彼は一度、ペンを止めた。
「必要最小限開示。恋愛背景の詳細説明は不要、と申請しましょう」
隣の未来職員が、少しだけ感心した顔をした。
「宮野さん、成長しましたね」
健一は言った。
「人には、閉じていい扉があります」
「ただし、相続資料は閉じないでください」
「はい」
七日目、別の男性が来た。
彼はパスワードを言いかけて、途中で口を閉じた。
「SachikoNoOp...」
健一は手を上げた。
「裁判長。これは必要最小限開示の対象外にできませんか」
未来職員は、資料を確認した。
「相続資料フォルダの解除に当該部分は不要です」
「では、非開示で」
男性は、椅子に座ったまま両手で顔を覆った。
「ありがとうございます」
健一は、初めて刑が罰だけではないと分かった。
十日目、未来職員が一枚の分類表を壁に貼った。
青春期自己神話型認証情報
片務的称号型
未承諾恋愛記念日型
偽装誓約型
家族巻添え型
健一は、黙ってそれを見た。
未来職員が尋ねた。
「宮野さん、これは消しゴム型ですか?」
「その呼び方はやめてください」
刑は、静かに効いた。
*
限定開示された写真の中に、公園の写真があった。
白いワンピースにアイスをこぼした四歳の初孫が、両手を頬に当てて笑っている。
その隣で、六十二歳の宮野健一が、少し照れた顔で笑っていた。
雛、九十三歳さんは、その写真を見て、長く黙っていた。
「……これです」
涙が頬を伝った。
「この顔を、覚えていた気がします。でも、だんだん分からなくなっていました」
健一は、写真の中の自分を見た。
若くはない。
格好よくもない。
ただ、孫がかわいくて仕方のない顔をしている。
それだけの顔だった。
雛、九十三歳さんは、そっと画面に手を伸ばした。
「じいじ」
健一は、何も言えなかった。
裁判長が銀色の栞を閉じた。
「閉廷します」
*
健一は、公園のベンチに戻っていた。
世界の輪郭が戻ると、孫はまだアイスを持っていた。
時は、ほんの少しも進んでいないようだった。
「じいじ?」
孫が首を傾げる。
健一は、しばらくその顔を見た。
「どうしたの?」
「いや」
健一はスマートフォンを握りしめた。
「写真、もう一枚撮ろう」
「また?」
「今度は、紙にも残す」
「かみ?」
「そう。ちゃんと、アルバムに貼る」
孫はよく分からないまま笑った。
その日の夜、健一は久しぶりに写真屋へ行き、公園の写真を何枚か印刷した。帰宅後、古いアルバムを出し、孫の写真を一枚ずつ貼った。
紙の写真は、クラウドより少し不便だった。
検索もできない。拡大もできない。
だが、誰かが手に取れる。
健一は、それが急に大事なことのように思えた。
そのあと、パスワード管理アプリを導入した。
もう、愛や記憶を鍵にするのはやめよう。
そう思った。
画面には、ランダム生成された長い文字列が表示された。
Q9v#pL2!zR8m...
覚えられる気がしなかった。
健一は、マスターパスワードではなく、ヒント欄にカーソルを合わせた。
しばらく考える。
そして、こう入力した。
雛ちゃんの笑顔
遠い未来で、銀色の栞が、小さく震えた。
その震えは、怒りというより、事務処理予定の追加を知らせる音に似ていた。
*
さてさて、賢明なる皆様。
人は反省します。
反省はしますが、なかなか別の生き物にはなれません。
愛を鍵にしてはいけない。
そう学んだはずの男は、次には愛をヒントにしました。
しかし、紙のアルバムは一冊増えました。
それだけでも、未来に回る請求書は、ほんの少し薄くなったのかもしれません。
どうか皆様も、ゆめゆめ油断なされませぬよう。
若き日の恥は、長く、強く、しぶとい。
そして、消しゴムを借りただけの日が、未来の法廷で偽装契約として審理されることも、世の中にはあるのであります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回の教訓は簡単です。
大切な資料に、青春の黒歴史を混ぜたパスワードをかけてはいけません。
忘れたい記憶ほど、なぜか未来で証拠能力を持ちます。
人類は、もう少し恥の保管方法について真剣に考えるべきなのかもしれません。
次の事件では、検索結果の二ページ目が、未来の法廷で静かに牙をむきます。




