第二件 店名過積載民事訴訟 正式名称:地理参照劣化に伴う将来案内負債発生及び名称表示改善請求事件
さてさて、紳士淑女の皆様。
第一件では、甘く、黒く、もちもちした一杯が、遠い生産地へ請求書を回しました。
では今回は何か。
人をだましたのではありません。
役所の書類を偽造したのでもありません。
道路を封鎖したのでも、駅を爆破したのでも、バス停を夜中にこっそり動かしたのでもありません。
ただ、店の名前をつけた。
それだけであります。
ところがであります。
名前とは、まことに恐ろしいものであります。
人は名前を頼りに歩き、探し、待ち合わせ、荷物を届け、古地図を読み、思い出を語ります。
その名前が、親切のつもりで少しばかり情報を詰め込みすぎていたら。
北なのか。
西なのか。
東なのか。
駅なのか。
バス停なのか。
そもそも、その「前」とは、いつの時代の前なのか。
賢明なる皆様は、もうお分かりでしょうか。
名前は、案内にもなります。
しかし時として、たいへん念入りに作られた迷路にもなるのであります。
ゆめゆめ笑ってはなりません。
いや、笑ってもよろしい。
ただし、笑ったその口で、誰かに「あそこの角の、昔コンビニだったところの向かい」と案内しておらぬか。そこだけは、各自ご確認いただきたいのであります。
本日、被告席に立たされましたのは、北商店店主、北康平さん。訴状送達時、五十七歳。旧西新井駅周辺で日用品と軽食を扱う、昔ながらの個人商店を営む男性でありました。
*
送達執行官の鷺沼は、三度目の案内板の前で足を止めた。
端末には、目的地が表示されている。
北商店西新井駅西口東バス停前店。
文字列は、確かにそう読める。
鷺沼は北を見た。
西を見た。
東を見た。
念のため南も見た。
南だけが、何も言わなかった。
「なぜ南だけ無罪の顔をしている」
鷺沼は、誰にともなく言った。
周囲は、再開発後の駅前だった。かつて西新井駅と呼ばれていた駅は、数年前に「足立環状中央駅」へ改称されている。駅舎も改修され、かつての西口は「中央西連絡口」という、少し便利そうでかえって覚えにくい名前に変わっていた。
バス停はない。
少なくとも、鷺沼の視界にはなかった。
端末は、静かに警告を表示している。
旧駅名参照あり。
旧出口名参照あり。
旧バス停情報、廃止済み。
方位語が複数含まれています。
姓由来語「北」を方位語と誤認する可能性があります。
「可能性ではない」
鷺沼は言った。
「すでにしている」
彼は未来時際裁判所の送達執行官である。
普通なら冷静である。
人が泣こうが怒ろうが、タピオカを持っていようが、淡々と訴状を差し出す。それが職務である。
しかし今日は、少し疲れていた。
いや、だいぶ疲れていた。
最初、鷺沼は「旧西新井駅西口」を目指した。端末は、現在の中央西連絡口を示した。そこへ行くと、「東」と表示されたので、連絡口の東側へ回った。すると、かつてのバス停跡地と推定される場所はロータリー改修によって消滅していた。
次に、古地図レイヤーを重ねた。表示されたバス停跡は、現在の歩行者広場の植え込みと重なった。植え込みの前には、南文具店の看板があった。
鷺沼は南文具店に入った。
「北商店はどちらですか」
店主らしき女性は、困ったように笑った。
「またですか」
また。
その言葉が、鷺沼の心に小さな傷をつけた。
南文具店から出て、商店街を一本戻り、旧バス停の「前」とは当時どの向きを指していたかを、三種類の地図と二種類の都市計画資料で照合した。
その結果、鷺沼はようやく小さな店の前に立った。
看板には、古びた文字でこう書かれていた。
北商店西新井駅西口東バス停前店
鷺沼は、しばらく看板を見上げた。
北なのか。
西なのか。
東なのか。
駅なのか。
バス停なのか。
答えは全部だった。
全部なので、かえってどれでもなかった。
店先には、袋菓子と乾電池と、少し日に焼けたカップ麺が並んでいた。奥から、エプロン姿の男性が出てきた。
「いらっしゃい。道、迷いました?」
鷺沼は、深く息を吸った。
「迷いました」
「このへん、分かりにくいんですよ」
「主に御店名が原因です」
男性は、きょとんとした。
「うちの?」
「はい」
「分かりやすくしたんですけどね」
鷺沼は、胸元から白い封筒を取り出した。
「北康平さんでお間違いありませんか」
「はい」
「未来時際裁判所民事部より、地理参照劣化に伴う将来案内負債発生及び名称表示改善請求事件の訴状をお届けに上がりました」
北は、封筒を見た。
それから看板を見た。
「……名前のことですか?」
「はい」
「店の名前で訴えられるんですか」
「本件は、まさにその点についての審理です」
鷺沼は封筒を差し出した。
北は、それを受け取った。
その瞬間、商店街の音が遠のいた。
カップ麺の値札が紙のように折れ、店先ののぼりが細長く伸び、南文具店の看板がかすかに揺れた。
次に北が目を開けたとき、彼は白い待合室に立っていた。
壁には「民事第二小法廷 開廷待機室」と書かれていた。
北は、封筒を握ったまま、しばらく黙っていた。
「これ、店番どうなります?」
カウンターの奥にいた係員が、端末を見た。
「一時的な時際招致です。現代側では数秒程度の不在として処理されます」
「数秒」
「はい」
「じゃあ、揚げ物は焦げませんね」
「揚げ物があるのですか」
「今、コロッケを」
係員は、端末を操作した。
「現代側火器保全を実行します」
「そんなことまでできるんですか」
「訴状送達時の生活被害を最小限にするためです」
北は、少し感心した。
「親切ですね」
「裁判所ですので」
それは理由になっているようで、なっていなかった。
北は椅子に座った。
待合室には、彼の他に誰もいない。
「それで、うちの名前が何かまずいんですか」
係員は説明用端末を手元に置いた。
「本件では、被告店舗名称が、将来世代および未来側案内機構に対して、著しい案内負債を生じさせた可能性について審理されます」
「案内負債?」
「名前を頼りにした者を迷わせる負担です」
「でも、うちは場所が分かるように店名をつけたんですよ」
「その点も審理されます」
北は首をかしげた。
「北商店だけだと、どこの北商店か分からないじゃないですか」
「はい」
「だから駅名を入れたんです」
「はい」
「駅の西口なんです」
「当時は、はい」
「その東側のバス停の前なんです」
「当時は、概ね」
「ほら、合ってる」
係員は、少しだけ困った顔をした。
「だいたい合っていることにより、かえって迷う事案です」
北は、ますます分からないという顔をした。
「第三小法廷、開廷します」
壁の文字が変わった。
係員が立ち上がった。
「北康平さん。入廷してください」
「はい」
北は、封筒を持ったまま立ち上がった。
「それと、店のコロッケ」
「保全されています」
「助かります」
法廷の中央には、裁判長席があった。
そこに座っていたのは、灰庭裁判長。銀色の髪を短く整えた、穏やかな顔の男だった。声は柔らかく、表情は静かだった。けれど、その目は、人間の言い訳がどのあたりでほどけるかを知っている目だった。
右手には、原告代理人の三栗谷弁護士。細い眼鏡をかけ、紙の地図と電子地図を同時に扱う人物だった。案内表示に関して、異様に細かそうな雰囲気がある。
左手には、間宮弁護人。第一件で梨央の弁護を担当した過去人格弁護局の弁護人である。北に向かって、小さく会釈した。
「北さん。私は間宮佐知。あなたの代理人です」
「よろしくお願いします。店名って、そんなにまずいんですか」
間宮は、少しだけ目を伏せた。
「争います」
「争うほどなんですか」
「争います」
灰庭裁判長が、机上の小さな銀色の栞に触れた。
小さな光が、紙の端をなぞるように広がった。
法廷の空気が、書物の頁を一枚めくるように静まった。
「開廷します」
三栗谷原告代理人が立ち上がった。
「原告、未来公共案内保全機構は、被告北康平が営む北商店西新井駅西口東バス停前店の名称表示につき、将来世代に重大な案内負債を発生させているとして、名称表示改善および補足表示義務の確認を求めます」
北は、手を挙げた。
「すみません」
灰庭裁判長がうなずく。
「どうぞ」
「名前を直せってことですか」
三栗谷が答えた。
「正確には、名称本体と案内補助情報の分離、ならびに変動参照点についての補足表示を求めています」
北は、間宮を見た。
「分かります?」
間宮は答えた。
「今から分からせないように争います」
三栗谷は、法廷の壁面に店名を拡大表示した。
北商店西新井駅西口東バス停前店
大きく表示されると、店名は思ったより長かった。
北は、自分の店の名前を、初めて他人事のように眺めた。
三栗谷は、淡々と分解した。
「まず、北商店」
画面上で「北」が赤く囲まれた。
「これは方角ですか、姓ですか」
北は答えた。
「名字です」
「しかし、屋号全体に方位表現が多用されているため、未来の案内AIが方位語として誤認しました」
「名字まで方角扱いされるんですか」
「本件では、されました」
灰庭裁判長が補足した。
「北さんご本人に責任があるわけではありませんが、北が方位語であることも否定できません」
北は、少し困った。
「じゃあ南さんだったらよかったんですか」
三栗谷は、すぐに資料をめくった。
「南さんは向かいの店ですね」
北は驚いた。
「いるんですよ、南さん」
灰庭裁判長が顔を上げた。
「いるんですか」
「南文具店です」
法廷の壁面に、南文具店の写真が表示された。
三栗谷が言う。
「証拠甲第二号。被告店舗の向かいに位置する南文具店です。未来側案内機構は、北商店を探索する過程で、南文具店へ誤到達した事例を複数確認しています」
北は、少しむっとした顔をした。
「でも、南文具店はいいんですか。向かいにありますよね」
法廷の端で、南が顔を上げた。
「うちはただの南文具店ですから」
三栗谷は、すぐにうなずいた。
「その点が重要です。南文具店には、駅名、出口名、方位内方位、廃止済みバス停の参照が含まれていません」
北は、看板の文字を思い浮かべた。
南文具店。
短い。
「……ずるくないですか」
「短いだけです」
南は、静かに言った。
三栗谷は続けた。
「次に、西新井駅西口東について確認します」
画面上で「西新井駅」「西口」「東」が別々に囲まれた。
「これは西なのですか、東なのですか」
北は、少し自信を取り戻した。
「西口の東側です」
三栗谷は復唱した。
「西口の東側」
灰庭裁判長も確認した。
「西の中の東という理解でよろしいですか」
「まあ、そうですね」
「では、東口の西側ではないのですね」
三栗谷が言った。
「違います」
北は答えた。
「駅構内改修後、未来側案内AIは一度、東口の西側を探索しました」
「それはAIが悪いんじゃないですか」
「AIにも同情の余地があります」
灰庭裁判長が言った。
「本件では、AIの責任は別件とします」
三栗谷は、さらに「バス停前」を囲んだ。
「最後に、バス停前です。北さん、来店客が主に利用していたのは電車ですか、バスですか」
「お客さんによります」
「では、主要参照点は駅ですか、バス停ですか」
「どっちから来ても分かるように」
「その結果、どちらから来ても迷う名称になっています」
「そんなに?」
三栗谷は端末を操作した。
「未来の復元観光客の平均迷走時間は二十三分四十秒です」
北は、少し驚いた顔をした。
「意外と早いですね」
「平均です。最大は二時間十三分です」
灰庭裁判長がつぶやいた。
「それはもはや観光ではなく遭難です」
三栗谷は、別の資料を表示した。
「続いて、方位学的検討です」
北は首をかしげた。
「方位学?」
三栗谷は真面目に言った。
「被告は、方位学について知見がありますか」
「ないです」
「では、北、西、東を一名称内に配置したことに、風水、家相、陰陽道上の意味はありませんか」
「ないです。場所を書いただけです」
「南を外したことに意味は」
「ないです」
「南文具店への配慮は」
「ないです」
南文具店の南が、小さく手を挙げた。
「うちは、配慮されても困ります」
灰庭裁判長は、うなずいた。
「南さんの意見として記録します」
三栗谷は、証拠映像に移った。
「証拠甲第三号。未来配送ドローンの誤配送記録です」
灰庭裁判長が銀色の栞に指先で触れた。
法廷の壁面に映像が開いた。
映像というより、古い帳面からその場面だけが抜き出されるような見え方だった。
小型配送ドローンが、旧西新井駅周辺の上空を飛んでいる。
音声が流れる。
「目的地。北商店西新井駅西口東バス停前店」
ドローンの案内音声が続く。
「北へ進みます」
数秒後。
「旧西口へ戻ります」
さらに数秒後。
「東側を検索します」
警告音。
「バス停が廃止されています」
再検索。
「北商店は南側にあります」
ドローンは空中で停止し、ゆっくり回転した。
画面の端に、南文具店が映った。
ドローンは、そこへ着陸した。
南が映像の中で店から出てきた。
「またか」
法廷の南本人は、静かにうなずいた。
「またでした」
北は、小さく頭を下げた。
三栗谷は、次の映像を出した。
「証拠甲第四号。未来の歴史散策ツアーにおける案内困難事例です」
映像には、数人の観光客とガイドが映っていた。
ガイドが説明している。
「こちらが、北商店西新井駅西口東バス停前店の跡地……の可能性がある場所です」
参加者の一人が聞いた。
「可能性?」
ガイドは資料を見ながら答えた。
「駅名が変更され、出口名も再編され、バス停も廃止されているため、現在では特定が困難です」
子どもの参加者が言った。
「名前、長いのに場所分かんないんだ」
法廷は静かになった。
北は、少しだけ顔をしかめた。
三栗谷は、最後の証拠に移った。
「証拠甲第五号。本件送達執行官の迷走ログです」
鷺沼送達執行官が証人席に立った。
本人は、少しだけ不機嫌そうだった。
法廷の壁に記録が表示された。
歩行距離:本来経路の三・七倍。
参照点切替回数:十二回。
北進誤認:二回。
旧西口復帰:三回。
東側探索:四回。
南文具店誤到達:一回。
北は思わず言った。
「南さんのところ行ったんですか」
鷺沼は答えた。
「行きました」
南も答えた。
「来ました」
三栗谷は、法廷に向き直った。
「以上のとおり、本件名称は、現在および未来において実用案内として機能していません。むしろ、変動する地理参照点と方位表現を過積載することにより、将来案内負債を発生させています」
間宮弁護人が立ち上がった。
「弁護側は、原告の請求に反対します」
北は、少し背筋を伸ばした。
間宮は、静かに話し始めた。
「屋号は、単なる案内表示ではありません。商売の歴史であり、地域の記憶であり、店主の人格的利益とも結びつくものです。裁判所が、将来の案内効率を理由に、個人商店の名称表示へ改善命令を出すことには、極めて慎重であるべきです」
北は、何度もうなずいた。
「そうです。親父の代からの名前なんです」
間宮は続けた。
「また、本件名称は、命名当時の利用者にとって実用的でした。旧西新井駅、旧西口、その東側のバス停前。地域住民にとっては、十分に通用していた名称です。将来、駅名が変更され、出口が再編され、バス停が廃止されることまで、個人商店主に予見させるのは過酷です」
三栗谷は、静かに聞いていた。
間宮は判例集を開いた。
「さらに、過去の時際民事判例に照らしても、名称と実体の乖離を理由に、ただちに名称変更を命じるべきではありません」
灰庭裁判長が言った。
「判例を示してください」
間宮は、三つの判例を挙げた。
「まず、緑ヶ丘ニュータウン老朽化表示事件。次に、新党恒久表示適格性事件。さらに、雛氏高齢化名称錯誤事件です」
北は、小さくつぶやいた。
「雛さん?」
三栗谷が答えた。
「重要判例です」
北は困惑した。
「そんなかわいい名前の裁判が」
灰庭裁判長が言った。
「かわいさは争点ではありません」
間宮は、最初の判例を説明した。
「緑ヶ丘ニュータウン老朽化表示事件では、平成四年、一九九二年に開発された住宅地が、三十年以上を経た後もなお『ニュータウン』を名乗っていたことが問題となりました。原告は、ニューという語が新興住宅地を想起させ、移住希望者を誤認させると主張しました。しかし判決は、ニュータウンという名称に歴史的価値を認め、名称自体の使用継続を許容しています」
北は、少し安心した顔をした。
三栗谷が、すぐに補足した。
「ただし同判決は、広告および公的案内において、開発年の併記を義務付けています。以後、当該住宅地は『緑ヶ丘ニュータウン Since 1992』と表示されるようになりました」
北は、少し考えた。
「シンスをつけたんですか」
「サインスではなく、シンスです」
三栗谷が訂正した。
「どっちにしても、ニューは残ったんですね」
「補足つきで残りました」
間宮は、次に進んだ。
「新党恒久表示適格性事件では、結党から長期間を経た政党が、なお新党を名乗っていたことが争われました」
三栗谷が資料を表示した。
新党あかつき(昭和六十二年結党)
北は、思わず言った。
「『新党』を外せばいいじゃないですか」
法廷に、少しだけ空気が動いた。
灰庭裁判長は、静かに言った。
「もっともな疑問です」
間宮は、咳払いした。
「しかし同判決は、政治的表現としての新党名称を広く許容しました。『新』は時系列上の新しさだけでなく、理念上の刷新性を示す場合があるからです」
北は、まだ納得していない顔だった。
「でも、昭和六十二年ですよね」
三栗谷が補足した。
「ただし、公的資料においては結党年の併記が望ましいと判示しています」
北は、だんだん判例の雲行きが怪しいことに気づき始めた。
間宮は、最後の判例を開いた。
「雛氏高齢化名称錯誤事件では、名が『雛』である高齢女性について、福祉支援AIが年齢層を誤認し、乳幼児向け案内を送付したことが争われました。裁判所は、人名は人格に属するものであり、年齢との乖離を理由に改名を命じることはできないと判断しています」
北は、少し安心した。
「それですよ。うちの北も名字です」
三栗谷は、すぐに顔を上げた。
「ただし同判例は、公的案内および福祉支援システム上の表示について、雛氏の名に年齢併記を命じています。判決後、雛氏は『雛(84歳)』と記録されるようになりました。現在は『雛(92歳)』さんとしてご健在です」
北は固まった。
「雛さん、名前の横に年齢を書かれたんですか」
灰庭裁判長は、静かにうなずいた。
「雛さんは、雛さんのままでよい。しかし、案内上は雛さんが雛でないことを示す必要があった、という判断です」
「雛でないこと」
北は、よく分からない顔をした。
それから、もっともな顔で言った。
「名前を変えるより屈辱的なのでは?」
三栗谷は、資料を見た。
「同判例でも、その点は少数意見で強く指摘されています」
「指摘されたんだ」
北は、少しだけ雛さんに同情した。
三栗谷は、そこを逃さなかった。
「弁護側が挙げた判例はいずれも、名称の人格的・歴史的価値を尊重しています。しかし同時に、第三者への実用的案内においては補足表示を求めています。本件も同様です。原告は『北商店』という屋号を消せとは言っていません。問題としているのは、『西新井駅西口東バス停前店』という、変動参照点の過積載です」
灰庭裁判長は、その言葉を繰り返した。
「変動参照点の過積載」
北は言った。
「そんな民法上の概念あるんですか」
三栗谷は答えた。
「時際民事上の評価概念です」
間宮が言った。
「今作ったのでは」
「未来ではあります」
三栗谷は、少しも動じなかった。
灰庭裁判長は、北を見た。
「北さん。名称には、記憶としての顔と、案内としての顔があります」
北は、黙って聞いた。
「記憶としての名称は、多少古びても残る価値があります。ニュータウンは、もはや新しくなくとも、開発当時の記憶として残ることがあります。新党は、政治的理念として新しさを名乗ることがあります。雛さんは、高齢になっても雛さんです」
「はい」
「しかし、案内としての名称は、参照先が失われたとき、他人を迷わせる負債になります」
北は、看板の文字を思い浮かべた。
北商店西新井駅西口東バス停前店。
それは、彼にとっては親父の代からの店の名前だった。
地元民に愛された名前だった。
駅から来る人にも、バスで来る人にも、迷わないようにしたつもりの名前だった。
灰庭裁判長は続けた。
「本件において、北商店という屋号は尊重されるべきです。しかし、西新井駅、西口、東、バス停前という情報は、いずれも都市構造の変化によって劣化し得る参照点です。それらを店舗名と一体化させたことにより、名称は案内ではなく、迷わせる記録となりつつあります」
北は、小さく言った。
「つまり、北商店はいいんですか」
灰庭裁判長はうなずいた。
「北商店はいいです」
「西新井駅西口東バス停前店が」
「だいぶ悪いです」
法廷に、少しだけ笑いが漏れた。
判決は、その日の夕方に言い渡された。
灰庭裁判長は、判決文を手に取った。
「主文。被告は、北商店の屋号使用を妨げられない」
北は、ほっとした。
「ただし、被告は、『西新井駅西口東バス停前店』の表示について、将来利用者に誤認を生じさせないよう、名称本体と案内表示の分離を含む改善計画を提出しなければならない」
北は、少しだけ眉を寄せた。
「改善計画」
灰庭裁判長は続けた。
「本件名称は、当時の地元住民にとって一定の実用性を有していたこと、また被告に悪意がないことを考慮し、訴訟費用は各自負担とする」
三栗谷は、静かにうなずいた。
間宮は、少し渋い顔をしたが、大きくは争わなかった。
灰庭裁判長は、北を見た。
「北さん」
「はい」
「名前を残すことと、誤認を放置することは同じではありません」
北は、ゆっくりうなずいた。
「分かりました。考えます」
灰庭裁判長は、銀色の栞を判決文の上に置いた。
薄い光が走り、法廷の時間が一頁閉じるように静まった。
*
北が次に目を開けたとき、彼は店の中に戻っていた。
油の音がしている。
コロッケは焦げていなかった。
店先のカップ麺も、乾電池も、袋菓子も、何事もなかったように並んでいる。外では、南文具店の看板が午後の光を受けていた。
北は、しばらく看板を見上げた。
北商店西新井駅西口東バス停前店
長い。
昔から見ていたはずなのに、その日だけは、少し長く見えた。
夕方、常連の田島さんが来た。
「北さん、コロッケ二つ」
「あいよ」
北は紙袋にコロッケを入れながら、思い切って聞いた。
「田島さん、うちの店名ってどう思う?」
「店名?」
「長いかな」
田島さんは、看板を見た。
「北商店だろ?」
「いや、正式にはさ」
「正式?」
田島さんは、もう一度看板を見た。目を細め、途中で読むのをやめた。
「北さんとこは、北商店だろ」
北は、少し黙った。
「駅名とか、バス停とか、いらない?」
「地元の人間は、北商店で分かるよ」
「迷わないかな?」
「迷わないよ」
田島さんは、コロッケの袋を受け取った。
「だいたい、南さんの向かいって言えば分かるだろ」
北は、南文具店を見た。
それがまた問題なのだ、と言いかけて、やめた。
次の日も、北は客に聞いた。
「うちの名前、どう思う?」
「北商店でしょ」
「長いかな」
「長いって何が?」
「正式名称」
「そんなのあるの?」
誰も、正式名称を覚えていなかった。
常連の子どもは、こう言った。
「きたしょうてん」
それだけだった。
北は、夜の店内で一人、ノートを開いた。
裁判所は、北商店を残していいと言った。
けれど、誤認は放置してはいけないと言った。
親父の代からの名前。
駅からも、バス停からも来られること。
昔の西口。
その東側。
かつてそこにあったバス停。
向かいの南文具店。
自分の名字。
消してしまえば、何かがなくなる気がした。
書かなければ、分からなくなる気がした。
だから、北は書いた。
何度も消して、また書いた。
長すぎると思った。
短くすると、不安になった。
夜が更けた。
南文具店の灯りが消えた。
足立環状中央駅の改札音も少なくなった。
北は、最後に大きく丸をつけた。
「これなら、分かる」
*
三十日後。
未来時際裁判所民事部に、北商店から名称改善計画書が提出された。
封筒は、丁寧に糊づけされていた。表には、北の丸い字で「名称改善計画書」と書かれている。
三栗谷は、厳格な表情で封筒を見た。
間宮は、少しだけ不安そうだった。
灰庭裁判長は、机上の銀色の栞に手を置いた。
北さんは、悪人ではない。
むしろ、真面目な人だ。
三十日間、きっと悩んだに違いない。
灰庭は、そう思った。
「開封します」
封筒が開かれた。
新名称案。
北商店・旧西新井駅旧西口旧東側旧バス停前付近店 現・足立環状中央駅中央西連絡口南東方向徒歩七分 南文具店向かい
法廷は、しばらく静かだった。
三栗谷が言った。
「悪化しています」
間宮は、額に手を当てた。
灰庭裁判長は、銀色の栞からそっと手を離した。
画面の向こうの北は、晴れ晴れとした顔をしていた。
「旧をつけました。付近にもしました」
灰庭裁判長は、目を閉じた。
「情報量を減らしてください」
北は困惑した。
「でも、消したら分からなくなるじゃないですか」
間宮弁護人が、小さく息を吐いた。
「北さん、裁判所は全部残せと言っていません」
北は、なおも納得していない顔をしていた。
「親切に書いたんですけどね」
三栗谷が、静かに書類を閉じた。
「原告としては、再協議を求めます」
灰庭裁判長は、低く言った。
「本件は、改善命令履行確認手続に付します」
画面の端には、南文具店の南が映っていた。
「またですか」
南は言った。
誰も否定しなかった。
*
さて、賢明なる紳士淑女の皆様。
北は北であり、西は西であり、東は東であります。
駅は駅であり、バス停はバス停であります。
けれど、人がそれらを一つの看板に詰め込んだとき、道はたちまち迷路になるのであります。
北さんは、悪人ではありませんでした。
むしろ親切な人でありました。
駅から来る人にも、バスで来る人にも、分かりやすいように。
そう思って、名前に道順を詰め込んだのであります。
ところがであります。
親切とは、たくさん書くことではありません。
未来に残してよい形で、分かるようにすることであります。
「あの角を曲がって」
「昔コンビニだったところの向かい」
「駅前の、ほら、旧バス停の近く」
その一言は、今日の誰かを助けるかもしれません。
しかし明日の誰かを、二十三分四十秒ほど歩かせるかもしれません。
読者諸兄も、ゆめゆめ油断なされぬよう。
親切のつもりで付けた名前ほど、案外、長く人を迷わせるのであります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次の事件では、青春の記憶と恥ずかしいパスワードが、未来の法廷で開示されます。
人類は、なぜこんなものまで証拠提出されなければならないのでしょうか。




