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ご先祖様、訴状です  作者: Rastarock


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第一件 タピオカ三犯 正式名称:第三次タピオカ流行における継続需要誤認誘発及び生産地投資判断誤導事件

さてさて、読者諸兄。


本日ひもときまするは、甘く、黒く、もちもちとした、世にも奇妙な大事件であります。


人を刺したのではありません。

金を盗んだのでもありません。

橋を落としたのでも、国を売ったのでも、偉そうな椅子にふんぞり返って未来のことなど知らぬと笑ったのでもありません。


ただ、一杯の飲み物を買った。

写真を撮った。

「これはリピあり」と書いた。


それだけであります。


ところが、その一杯は、売上となり、需要となり、発注となり、海を越え、遠い生産地の畑と家計と人生に、長い長い影を落としたのであります。


ああ、読者諸兄。

ゆめゆめ笑ってはなりません。


いや、笑ってもよろしい。

ただし、笑ったその口で、今日の流行菓子を注文しておらぬか。そこだけは、各自ご確認いただきたいのであります。


本日、被告席に立たされましたのは、湊川梨央さん。犯行当時二十七歳。訴状送達時、三十六歳。都内の会社に勤める、ごく普通の女性でありました。


*


梨央が訴状を受け取ったのは、三十六歳の秋だった。


場所は、駅前の麻辣湯専門店の前。


手には、辛さ一、春雨多め、きくらげ追加、パクチー抜きのテイクアウト容器。もう片方の手にはスマートフォン。画面には、まだ投稿前の文章が残っていた。


「辛さ一でも結構くる。これはリピあり」


梨央は、その最後の一文を少しだけ迷っていた。


「リピあり」と書くのは簡単だ。けれど、本当にリピートするかと問われると、まだ分からない。一回食べただけだし、辛さ一でも汗が出る。とはいえ、今っぽいし、写真映えもする。後輩も「今かなり来てますよ」と言っていた。


店の外には、まだ数人が並んでいる。店内からは、香辛料の匂いと若い客たちの声が漏れてきた。


梨央は、容器の角度を変えて、もう一枚写真を撮ろうとした。


そのとき、横から声がした。


「湊川梨央さんでお間違いありませんか」


灰色のスーツを着た男が立っていた。


年齢は分からない。若いようにも見え、ひどく年上にも見える。役所の人にも、宅配業者にも、保険の営業にも見えたが、そのどれとも少し違った。


「はい。どちら様ですか」


男は深く頭を下げた。


「未来時際(じさい)裁判所、送達執行官の鷺沼と申します。本日は、第三次タピオカ流行における継続需要誤認誘発及び生産地投資判断誤導事件に関する訴状をお届けに上がりました」


梨央は、手元の麻辣湯を見た。


「……今、麻辣湯なんですけど」


鷺沼執行官は、事務的にうなずいた。


「はい。その点も、補充資料として提出されています」


「え、なにそれ怖い」


「タピオカ三犯の方は、現在の流行食品消費傾向も情状資料となります」


「三犯?」


「第一の流行、第二の流行を経た上での第三次流行関与ですので」


「いや、私、タピオカ飲んだだけですよね」


「はい。本件は、まさにその点についての審理です」


鷺沼は白い封筒を差し出した。封筒の表には、梨央の名前と、見慣れない印が押されていた。


時際裁判所第三小法廷。


梨央がそれを受け取った瞬間、駅前の雑踏が遠のいた。麻辣湯の湯気が細く伸び、店の看板が紙のように折りたたまれた。


次に目を開けたとき、彼女は白い待合室に立っていた。


窓はなかった。時計もなかった。壁には、薄い灰色の文字で「第三小法廷 開廷待機室」と書かれている。番号札の発券機のようなものがあり、隅には給水機が置かれていた。


梨央は、麻辣湯の容器を握ったまま固まった。


「なんですかこれ? どこですか?」


カウンターの奥に、係員らしき女性が座っていた。白い制服でも黒い法服でもない。どこか病院の受付にも、銀行にも、市役所にも似ている。


「未来時際裁判所、第三小法廷の開廷前待機室です」


「未来時際裁判所って何ですか」


「過去の行為が未来へ負担を残した場合、その因果が一定程度確定した時点で、代表被告を招致し、審理する機関です」


「ちょっと待ってください。じゃあ、ここは未来ってことですか?」


「厳密には、未来側から過去人格を一時的に招致するための中間待機領域です」


「厳密に言われても怖いんですけど」


「よく言われます」


梨央は、容器を見た。


麻辣湯は、まだ湯気を立てている。赤い油が表面に浮き、春雨が容器の中でゆるく沈んでいた。


「これ、食べていいんですか」


係員は端末を確認した。


「証拠保全が必要な場合を除き、飲食は可能です」


「証拠なんですか?」


「補充資料には含まれていますが、現時点で押収予定はありません」


梨央は、わけが分からないまま、椅子に座った。


椅子は妙に座り心地がよかった。訴えられた人間を待たせるには、親切すぎるほどだった。梨央は落ち着かないまま、麻辣湯をすすった。


辛い。


「すみません、水ありますか」


係員は紙コップを出した。


「ございます。過去人格用の水です」


「言い方が怖い」


梨央は水を飲み、ようやく息をついた。


「私、本当に訴えられてるんですか」


「はい」


「タピオカで?」


「はい」


「タピオカって、飲み物ですよね」


「はい」


「人、殺してないですよね」


「はい。人を殺していない方も、よくいらっしゃいます」


「どういう裁判所なんですか、ここ」


係員は、少しだけ首をかしげた。説明の順番を考えているようだった。


「未来時際裁判所は、過去人の悪意を裁く場ではありません。過去において無自覚に行われた選択が、どのように未来へ請求書を回したかを審理する場です」


「請求書?」


「比喩です。実際の金銭請求とは限りません」


「じゃあ私、何を請求されるんですか」


「本件では、第三次タピオカ流行における継続需要誤認誘発、および生産地投資判断誤導です」


「分かりません」


「被告の行為が、継続する需要のように記録され、海外の生産地側に誤った投資判断を促した可能性について審理されます」


梨央は、春雨をすする手を止めた。


「それ、私のせいなんですか」


「その点を、これから審理します」


「でも私、飲んだだけです」


「はい。多くの方がそうおっしゃいます」


梨央は、少しだけ安心した。


多くの方がそう言うなら、自分だけが異常なわけではない。何かの間違いかもしれない。そもそも、タピオカを飲んだだけで本当に裁判になるはずがない。きっと説明を聞けば終わる。自分は何も悪いことをしていない。


麻辣湯の春雨は、少し伸び始めていた。


「第三小法廷、開廷します」


壁の文字が変わった。


係員が立ち上がった。


「湊川梨央さん。入廷してください」


梨央は、食べかけの麻辣湯を見た。


「これ、持っていっていいですか」


係員は端末を確認した。


「法廷内への持ち込みは、においを伴うため原則不可です」


「そりゃそうですよね」


「ただし、証拠性があるため廃棄はできません。一時保管します」


「麻辣湯が?」


「はい。麻辣湯が」


梨央は、容器を預けた。預けた瞬間、何か大事なものを差し押さえられたような気分になった。


法廷の中央には、裁判長席があった。


そこに座っていたのは、灰庭(はいば)裁判長。銀色の髪を短く整えた、穏やかな顔の男だった。声は柔らかく、表情は静かだった。けれど、その目は、人間の言い訳がどのあたりでほどけるかを知っている目だった。


右手には、黒瀬検察官。細身で、書類の角をそろえる仕草まで冷たい人物だった。


左手には、間宮弁護人。梨央のほうを向き、まず小さく会釈した。


「湊川さん。私は間宮佐知。過去人格弁護局から選任されました。あなたの弁護を担当します」


「私、弁護士さん頼んでないんですけど」


「時際裁判では、過去人には原則として弁護人がつきます。未来法を知らない方が自己弁護をすると、たいてい情状が悪化しますので」


「そんなに?」


「タピオカ事件では特に」


梨央は、何も言えなかった。


灰庭裁判長が、机上の小さな銀色の栞に触れた。


「開廷します」


黒瀬検察官が立ち上がった。


「被告、湊川梨央。当時二十七歳。第三次タピオカ流行において、複数回にわたりタピオカ飲料を購入し、その様子をSNSに投稿。これにより、一過性の流行消費を継続需要と誤認させる市場信号を発し、海外タピオカ生産地における大規模設備投資判断を誤導したものです」


梨央は、思わず声を上げた。


「待ってください。私、タピオカを飲んだだけなんですけど」


灰庭裁判長は、静かにうなずいた。


「はい。本件では、その『だけ』がどこへ届いたかを審理します」


黒瀬検察官は、資料を一枚めくった。


「まず、証拠甲第七号。被告の購入履歴です。第三次流行期の二か月間で十一杯。うち、SNS投稿が確認できるものは五件」


法廷の壁に、表が映し出された。


四月十二日 黒糖真珠堂・原宿店 初回購入 いいね三十四件

四月十八日 茶房 Pearl Rabbit・新宿東口店 二回目購入 いいね二十七件

四月二十六日 台北黒糖研究所・渋谷センター街店 三回目購入 いいね十九件

五月八日 Mochi Pearl Stand・池袋店 四回目購入 いいね八件

五月二十一日 TAPIOCA DAYS・表参道店 五回目購入 いいね二件

以後、購入履歴なし


黒瀬検察官は、表を指した。


「被告は、同一店舗に継続来店していたのではありません。複数の話題店を巡回しています。これは、味への継続的嗜好というより、流行店探索型消費であった可能性を示します」


「探索って」


梨央は小さくつぶやいた。


「普通に友達と行っただけです」


「その普通を審理しています」


黒瀬は、次の資料を表示した。


「証拠甲第八号。SNS投稿文面。初回投稿には『ついにタピった! 黒糖もちもち最高』との記載があります」


梨央の顔が赤くなった。


「読み上げないでください」


「二回目投稿。『甘さ控えめにできるから意外と飲みやすい』。三回目投稿。『これはリピあり』」


間宮弁護人が立ち上がった。


「裁判長。投稿文面の読み上げは、被告の羞恥心に対する過度な侵害です」


灰庭裁判長は、少し考えた。


「検察官。必要箇所に限ってください」


「承知しました」


黒瀬検察官は、承知した顔をしないまま続けた。


「三回目購入先、台北黒糖研究所・渋谷センター街店について、弁護側から事前に意見書が提出されています」


間宮弁護人が立ち上がった。


「はい。弁護側は、同店名が被告の購買判断に与えた影響を主張します」


灰庭裁判長は、資料に目を落とした。


「研究所性についてですね」


法廷に、一拍の沈黙が落ちた。


梨央は、今この人は何を言ったのだろうと思った。


間宮は真面目な顔で続けた。


「同店は『研究所』を名乗っています。一般消費者に対し、黒糖、茶葉、タピオカの配合について一定の探究がなされているとの印象を与えた可能性があります。被告の消費判断は、店名によって喚起された面があると考えます」


黒瀬検察官は、ほとんど表情を変えなかった。


「反論します。当時の日本では、特段の研究実態を伴わない店舗・商品・企画においても、『研究所』の語が広く用いられていました。消費者もまた、それを学術研究機関としてではなく、演出的名称として受け止めていたと考えられます」


法廷の壁に、いくつもの名称が表示された。


ふわふわパンケーキ研究所。

からあげ味変研究所。

ほうじ茶ラテ研究所。

罪悪感ゼロスイーツ研究所。

一人焼肉集中研究所。

映える断面サンド研究所。


黒瀬は続けた。


「これらの施設において、研究員、査読、実験設備、倫理審査委員会の存在は確認されていません」


「倫理審査委員会までは求めていません」


間宮弁護人が言った。


灰庭裁判長は、少しだけ眉を寄せた。


「研究所性についての審理は、必要な範囲に限ってください」


梨央は、つい小声で言った。


「研究所って、そういう意味で見てなかったです」


黒瀬が即座に顔を上げた。


「被告自身も、研究所の実態を学術機関として認識していなかったことが確認されました」


「今の、私が悪いんですか?」


間宮が、梨央の袖を軽く引いた。


「不用意に答えないでください」


黒瀬は、次の証拠に移った。


「証拠甲第九号。被告と実母との通信記録です」


法廷の壁面に、LINEの画面が映し出された。


母:お母さんの時も流行ったのよ~

母:白くて小さいのがココナッツミルクに入っててね~

母:ナタデココもすごかったわよ~

母:すぐに廃れちゃったけどね~

梨央:へー

梨央:でもタピオカって高校の時も流行ってなかった?

母:そうそう、あの黒いやつね~

梨央:あれもいつの間にか見なくなったけどね

梨央:でも今回は映えるから違うんじゃない?

梨央:甘さ控えめもできるし


黒瀬検察官は、画面を指した。


「被告は、第一次タピオカ流行および類似食品流行の終息について、母親から情報を得ています。さらに、第二次タピオカ流行について、自身の生活記憶として言及し、その終息にも触れています」


「そんなの、ただのお母さんとのLINEです!」


「はい。雑談として、第一次流行、第二次流行、および類似流行の終息情報が被告に伝えられています」


「そんな言い方あります?」


「あります」


黒瀬検察官は、淡々と答えた。


「第一次流行は、初犯でした。第二次流行は、同種流行の再犯です。そして本件第三次流行は、三犯にあたります」


梨央は、思わず口を挟んだ。


「タピオカに前科つけるんですか?」


「過去人側につけています」


黒瀬は即答した。


灰庭裁判長は、壁面の文面を見つめていた。


「被告は、第一の流行を母の記憶として知り、類似流行であるナタデココの終息も知らされていた。さらに第二の流行については、自身の生活記憶として触れ、その終息にも言及している。その上で、第三の犯行に及んだ」


そこで、灰庭裁判長はごく小さく息を吐いた。


「……これは悪質だ」


法廷が止まった。


間宮弁護人が即座に立ち上がった。


「裁判長。心証開示が早すぎます」


灰庭裁判長は、わずかにまばたきをした。


「失礼。今の発言は撤回します」


黒瀬検察官が顔を上げた。


「記録には残します」


「残さないでください」


「承知しました」


黒瀬検察官は、承知した顔をしないまま資料をめくった。


「続いて、証拠甲第十号。SNS投稿時系列と購入停止時期の照合です」


先ほどの表が再び表示された。


黒瀬は、五月二十一日の行を指した。


「五回目投稿、いいね二件。以後、購入履歴なし」


梨央は、思わず目を伏せた。


「では、いいねが減少した時期と購入停止時期の一致について、どのように説明されますか」


梨央は、口を開き、閉じた。


「……よく憶えていません」


黒瀬検察官は、待っていたようにうなずいた。


「憶えていない」


「はい。そんな、何年も前に飲んだものですし」


「本件の核心が、ただいま被告の口から示されました」


間宮弁護人が顔を上げた。


「検察官。誘導が過ぎます」


「いいえ。被告は忘れている。しかし、購入履歴は忘れていません。投稿履歴も、売上記録も、輸入統計も忘れていません。そして、生産地の設備投資は、忘れられるほど軽い需要を、忘れられない未来として受け取ったのです」


梨央は、まだ納得できなかった。


何年も前の飲み物だ。忘れていて何が悪い。みんな飲んでいた。みんな写真を撮っていた。自分だけじゃない。


黒瀬は、次の証拠に移った。


「証拠甲第十一号。生産地側証拠映像を提示します」


壁面が暗くなった。


映し出されたのは、乾いた赤土の畑だった。葉の大きな作物が並んでいる。画面の中央に、日に焼けた中年の男が立っていた。丸い顔で、よく笑う人らしかった。字幕が出る。


ソムチャイ・プラサート。

キャッサバ農家。

当時五十二歳。


映像の中のソムチャイは、白い歯を見せて笑っていた。


「日本の若い人たちが、そんなに噛むのか」


通訳字幕が出る。


彼の隣には、台湾の加工会社の担当者が立っていた。担当者は、日本向け需要が急増していることを説明していた。タピオカパールの注文が増えている。でんぷんの需要も増える。今なら乾燥設備を増やせば、来年以降も大きく売れる。


ソムチャイは、家族を呼んだ。


「もちもちの時代が来たぞ」


彼はその日本語だけ覚えていた。


妻は、呆れたように笑った。


「また変な言葉を覚えて」


映像が切り替わった。


共同乾燥設備の建設。新しい屋根。古いトラクターの買い替え。近所の農家たちが笑っている。ソムチャイは、帳簿に判を押すとき、少しだけ緊張した顔をしていた。けれど、すぐに笑った。


「日本の若者は、まだ噛む。来年も噛む。もちもちだ!」


法廷に、小さな笑いが漏れた。


次の映像は、一年後だった。


注文は急に減っていた。


倉庫には、乾燥した原料袋が積まれていた。ソムチャイは、袋の前で腕を組んでいた。笑っていなかった。


「日本の若者は、もう噛まないのか」


通訳字幕が出る。


台湾側の担当者は、目をそらしていた。日本ではブームが急速に終息し、店舗の閉店が相次いでいる。発注量は減る。今後の見通しは不透明。


ソムチャイは、首をかしげた。


「噛み疲れたのか」


法廷の誰も笑わなかった。


さらに映像は進んだ。


未来。


同じ場所には、草が伸びていた。乾燥設備の屋根は一部が剥がれ、赤土の畑の一角は使われなくなっていた。字幕には、返済の遅延、作付け転換の失敗、近隣農家の離農といった言葉が並んだ。


梨央は、壁面から目を離せなかった。


自分が知っているタピオカは、カップの中に入っていた。黒糖ミルクの底に沈んでいて、太いストローで吸い上げるものだった。


畑の色など、考えたこともなかった。タイ人が「もちもち」と喜ぶ絵面も想像しなかった。


黒瀬検察官は、映像を止めた。


「被告一人が、この損害の全てを発生させたとは申しません」


その声は、いつもより少し低かった。


「しかし、被告の一杯は、こうした投資判断を支えた市場信号の一部でした。被告が飲み終えたあとも、その一杯は売上となり、需要となり、発注となり、海を越えていました」


梨央は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。


間宮弁護人が立ち上がった。


「裁判長。弁護側は、検察の因果関係の構成に異議を唱えます」


灰庭裁判長がうなずいた。


「どうぞ」


「被告は一消費者にすぎません。好きなものを好きな時期に楽しみ、飽きたら離れる。それは消費者の自由です。海外生産地の設備投資判断、流通業者の需要予測、国内事業者の出店判断まで、被告個人に予見させるのは過酷です」


間宮は、一度梨央を見た。


「また、被告が購入しなくても、当時の状況からは別の購入者が出現したのは明確です。市場はすでに臨界点の直前にありました。被告一人を、投資判断の原因とするのは、因果関係の過剰な単純化です」


梨央は、少しだけ息をついた。


そうだ。そうだと思った。


自分が飲まなくても、誰かが飲んだ。あれだけ並んでいたのだ。あれだけ投稿されていたのだ。自分だけが特別だったはずがない。ソムチャイさんだって「もちもち」喜んでいたではないか。


灰庭裁判長は、しばらく黙っていた。


そして、静かに口を開いた。


「弁護人の指摘はもっともです」


梨央は顔を上げた。


「たしかに、他の購入者が投資判断の最後の後押しをしたのであれば、他の被告が出廷しているでしょう」


「では、どうして私が」


梨央の声は、思ったより小さく響いた。


灰庭裁判長は答えた。


「この世界では、あなたが購入しました」


法廷は、しんとした。


「本法廷が審理するのは、誰かがそうしたかもしれない世界ではありません。実際に、その一杯が記録され、売上となり、発注となり、生産地の投資判断を越えさせた。この世界の出来事です」


梨央は、何も言えなかった。


灰庭裁判長は続けた。


「あなたの消費行動が慎重であれば、あなたはその一杯を購入せず、少なくともこの法廷に被告として立つことはありませんでした」


「そんなの、運が悪かっただけじゃないですか」


梨央は、ようやくそう言った。


灰庭裁判長は、少しだけ悲しそうな顔をした。


「はい。本法廷ではそれを最後の一滴型の犯行と定義しています。あなたの犯行が溢れそうな器に最後の一滴を注いだのです。運が悪かった。それはしばしば事実です」


その言葉は、慰めにも、突き放しにも聞こえた。


「だからこそ、本法廷は被告を個人悪として処罰しません。しかし、運が悪かったことは、未来に損害が生じなかったことにはなりません」


黒瀬検察官が、最後の問いに移った。


「被告。味の感想を聞いているのではありません。生産地が信じてよいほどの需要だったのかを聞いています」


彼は、梨央をまっすぐ見た。


「本当に、美味しかったのですか」


梨央は、しばらく黙った。


「……もちもちしていました」


黒瀬はうなずいた。


「あなたにとって、もちもちとは何ですか」


「え?」


「被告は投稿で『もちもち最高』と記しています。このもちもちとは、継続需要を示すほどの味覚的価値だったのですか」


「いや、もちもちと言ったら、もちもちです」


「もう少し具体的に」


梨央は困った。


「奥歯を跳ね返される感じです」


黒瀬は資料に目を落とした。


「奥歯を跳ね返されるもちもちに、継続購買を支えるほどの価値を感じていましたか」


「そんなこと考えながら噛んでないです」


間宮弁護人が立ち上がった。


「異議あり。もちもちの定義が過度に歯科寄りです」


黒瀬は、間宮を見た。


「裁判長。もちもちに関連して被告の歯科治療記録を提示します」


「異議あり!」


間宮の声が大きくなった。


灰庭裁判長は、銀色の栞に手を置いた。


「却下します。もちもちに関連した歯科治療記録は本件の争点から遠すぎます」


黒瀬は、少しだけ不満そうに資料を下げた。


「では、もちもちに関連した歯科治療記録の提示は留保します」


「留保しないでください」


間宮が言った。


梨央は、混乱していた。


自分は本当に、何を審理されているのだろう。タピオカを飲んだことか。投稿したことか。母とのLINEか。研究所という店名か。もちもちか。奥歯か。


けれど、ソムチャイの映像が頭から離れなかった。


日本の若者は、もう噛まないのか。


その字幕だけが、妙に残った。


黒瀬は、声を戻した。


「改めて伺います。被告が飲んでいたのは、味でしたか。流行でしたか。写真でしたか。いいねでしたか。それとも、それらを区別しないまま、もちもち市場へ継続需要として表明したのですか」


梨央は、あの時の店の前を思い出そうとした。


友人と並んだこと。写真を撮ったこと。ストローを刺す瞬間、少しわくわくしたこと。黒糖の香り。もちもちした粒。甘さ控えめ。氷少なめ。SNSの通知。職場で「行ったんだ」と言われたこと。


美味しかった。


たしかに、美味しかった。


でも、何が美味しかったのか。


梨央は、答えられなかった。


判決は、その日の夕方に言い渡された。


灰庭裁判長は、判決文を手に取った。


「主文。被告、湊川梨央を、第三次タピオカ流行における継続需要誤認誘発及び生産地投資判断誤導につき、時際有責と認定する」


梨央は、目を閉じた。


「被告に明確な故意は認められない。海外生産地の設備投資判断まで、具体的に予見していたとは言えないためである」


間宮弁護人は、静かにうなずいた。


「しかし、被告は第一次流行および類似流行の終息について母親から情報を得ており、第二次流行については自身の生活記憶として言及し、その終息にも触れている。したがって、第三次流行が一過性である可能性について、少なくとも知り得たものと認められる」


灰庭裁判長は、判決文から目を上げた。


「本件は、初犯の無知ではありません。知り得たにもかかわらず、また繰り返したという点において、過失の程度は軽くありません」


梨央は、小さく息を飲んだ。


「研究所性については、消費喚起要素として一定程度考慮する。しかし、当時の社会通念上、同種名称が学術研究機関として受け止められていたとは認められず、被告の責任を大きく減ずるものではない」


黒瀬検察官は、静かに資料を閉じた。


灰庭裁判長は続けた。


「本法廷は、被告を個人悪として処罰するものではない。被告が示したのは、当時社会に広く存在した一過性流行消費の一態様である。しかし、その一態様が未来へ請求書を回した事実は、消えない」


灰庭裁判長は、梨央を見た。


「被告には、流行終息後需要喚起労務三十日を命じる。あわせて、未来中等教育課程『流行消費と生産地投資判断』における証言記録の収録を命じる」


「……労務?」


梨央は、間宮弁護人を見た。


間宮は、目をそらした。もう梨央の記憶に麻辣湯は残っていなかった。


*


それから数日後。


梨央は、未来裁判所管理下の再現商業施設にいた。そこには、第三次タピオカ流行末期の店舗が再現されていた。


黒い看板。


丸いロゴ。


やたらとおしゃれな字体。


店名は「LAST DROP 黒糖茶房」。


のれんの横には、札がかかっている。


甘さ控えめできます。

継続需要、確認中。


梨央の仕事は、店頭で客を呼び込むことだった。


初日、梨央はまだ腹を立てていた。


「黒糖タピオカ、甘さ控えめできます」


声は小さかった。


誰も来なかった。


「もちもちです」


誰も来なかった。


「氷少なめもできます」


誰も来なかった。


隣に立つ鷺沼執行官は、記録端末を見ながら言った。


「本日の来店者数、現在ゼロ」


「誰も来ないんですけど」


「はい。それを確認する刑です」


「需要を喚起する刑じゃないんですか」


「喚起できれば減刑対象です。多くの方は確認で終わります」


梨央は、空を見上げた。


未来の空は、思ったより普通だった。


五日目。


梨央は、呼び込み文句を変えてみた。


「昔流行った黒糖タピオカです」


誰も来なかった。


「一周回って新しいです」


誰も来なかった。


「甘さ控えめで、罪悪感も控えめです」


鷺沼執行官が端末から顔を上げた。


「罪悪感についての表示は、処分趣旨上、不適切です」


「じゃあ何て言えばいいんですか」


「事実を述べてください」


梨央は、少し考えた。


「黒糖タピオカです。昔、流行りました」


一人だけ、通りがかった学生が足を止めた。


「へえ」


それだけ言って、行ってしまった。


十二日目。


ようやく、一人の女性客が立ち止まった。


梨央は、ほとんど反射的に背筋を伸ばした。


「いらっしゃいませ。黒糖タピオカ、甘さ控えめできます」


女性客は、興味深そうにメニューを見た。


「昔の人、これに並んだんですよね」


「……そうですね」


「じゃあ、甘さ控えめで」


梨央は、丁寧に作った。カップに注ぎ、太いストローを刺し、両手で差し出した。


女性客は一口飲んだ。


少し考えた。


そして、にっこり笑った。


「もちもちしてるね。まずくはないけど、それほどじゃないと思うのよね~」


梨央は、何も言えなかった。


十九日目。


梨央は、在庫表を見るようになっていた。


最初は、そんなものに関心はなかった。けれど、毎日売れ残るカップ、固くなっていくタピオカ、廃棄見込み数の欄を見ているうちに、いやでも目に入るようになった。


本日の来店者数:二

継続需要:確認できず

呼び込み効果:限定的

廃棄見込み:増加


梨央は、端末の数字を見た。


「売れないと、材料って余るんですね」


鷺沼執行官は、うなずいた。


「はい」


「当たり前ですよね」


「はい」


「でも、飲んでる時は考えなかった」


鷺沼は、何も言わなかった。


その沈黙が、少しだけ優しかった。


二十三日目。


校外学習の一団が来た。未来中等教育課程の生徒たちだと説明された。彼らは、梨央の店の前で立ち止まり、教師の説明を聞いていた。


「ここは、第三次タピオカ流行における継続需要誤認誘発の体験展示です」


梨央は、店の内側で紙カップを並べていた。


「当時の消費者は、短期的な流行参加を、しばしば継続需要のように市場へ意思表示しました」


一人の生徒が手を挙げた。


「先生、どうして飲まなくなったんですか」


教師は答えた。


「飽きたからです」


「じゃあ、どうしてたくさん買ったんですか」


「流行っていたからです」


生徒たちは、少し困った顔をした。


その顔を見て、梨央も少し困った。


自分でも説明できないことを、未来の子どもたちに説明されている。


それは、思ったより恥ずかしかった。


二十七日目。


梨央は、すっかり疲れていた。足は痛く、喉は渇き、呼び込みの声はかすれていた。


閉店後、鷺沼執行官が一杯のカップを差し出した。


「休憩です」


梨央は、眉を寄せた。


「まだ飲ませるんですか」


「労働刑ですから。水分補給は必要です」


「水じゃだめなんですか」


「本件処分の趣旨に照らし、適切な飲料が選定されています」


梨央は、ため息をついて受け取った。


もう、写真は撮らなかった。


誰にも送らなかった。


いいねもつかない。


店の前に行列もない。


友人の笑い声もない。


研究所という名前もない。


原宿も、渋谷も、表参道もない。


あるのは、閉店後の静けさと、少し冷えたカップと、疲れた足と、喉の渇きだけだった。


梨央は、太いストローをくわえた。


黒糖の香りが、少しだけした。


一口飲んだ。


しばらく黙っていた。


それから、小さく言った。


「……美味しい」


*


さてさて、読者諸兄。


この一杯が甘さ控えめでよかったのか、黒糖多めこそ正道であったのか、これは後世の食品史家に判断をゆだねるほかありません。


しかしながら、ここに一つ、たしかなことがございます。


梨央さんはその日、写真を撮りませんでした。

友人に送りませんでした。

「これはリピあり」とも、「また来たい」とも、「いま話題の」とも書きませんでした。


一杯は、一杯として飲まれたのであります。


なんと小さく、なんと大きなことでありましょう。


読者諸兄も、ゆめゆめ油断なされぬよう。


その一口、その投稿、その何気ない「好き」が、いつ、どこの誰へ請求書を回すか。

誰にも分からぬ世の中であります。


未来時際裁判所は、悪人の玄関ばかりを叩くとは限りません。


ときには、辛さ一の麻辣湯の湯気の向こうにも、灰色の封筒を持って立っているのであります。


もちもちしたものほど、案外、遠くまで沈むのであります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

本作は一話完結型の法廷SFコメディです。

面白かった場合は、次の事件も覗いていただけると嬉しいです。

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