第6話 鬼が女神に変わる時——
俺が『イエス』と答えたことで、月城さんの検証は次の段階に入ったようだ——
あの後、俺は彼女に『ついてきて』と命令され、学校近くのカフェへ来ていた。
席に案内された俺たちは対面で座り、今は注文した飲み物の到着を待っているところだ。
時間にして数分——2人の間に飲み物が運ばれてくる。
俺は黒糖コーヒー、そして月城さんは……メロンソーダフロート。
予想よりだいぶポップな選択でこれじゃない感は否めない。
「さて…………」
小さく呟いた月城さんと目が合ったその時だった。
彼女がすっと片手を上げ、俺の目の前に見せつけるように差し出し——
パチン。パチン。……と2回指を鳴らした。
——これは……確か催眠を解く時のやつだよな?えっと、だから……。
先程の機械音声が脳内で再生される。
【二回指を鳴らしたら一時的に催眠が解け、記憶は失う】
間違いなくそう言ってたはずだ。
つまり、俺は今“戻った”顔をして、催眠中のことを忘れたフリをすればいいんだよな?
——……よし。
「はっ!?……あれ?ここは?」
口に出した瞬間わざとらしさが自分でも分かったが、出てしまったものは引っ込まない。
月城さんはそんな俺を舐めるようにじっと見つめ……一拍置いて、ほんの少しだけ口角を上げた気がした。
「ふふっ…………並樹くん、気がついたかしら?あなた、今まで催眠にかかっていたのよ?」
「えっ……マジで……?」
——これくらいでいいか?少し大げさか?
心配をよそに、月城さんは俺の三文芝居に違和感を覚えた様子もなく、どこか得意げに話し始める。
「ええ、マジよ。あの動画はやはり本物みたいね……それでね、並樹くん。実はこの検証の本番はこれからなの」
「これからが……本番?」
「そうなの。だから並樹くんには今後のことをちゃんと説明しておきたくて、一度催眠を解かせてもらったわ」
「は、はあ……」
まったく月城さんの考えがわからず、ぽかんとしてしまった俺を横目に、彼女は声色に真剣味を宿す。
「これから私は、催眠の強度を検証してゆくつもりなの」
「催眠の強度?……というと?」
「ほら、よくあるじゃない?催眠にかかったけど、一定以上の命令や刺激には心が反発して解けてしまうって……アレよ」
「ああ、確かにそれは大事かも。そもそも軽い命令でも催眠が解けちゃったら、意味ないもんね」
「そう、並樹くんの言う通りよ」
——さすが月城さん……そこまで俺は考えが回らなかった。
要するに、簡単な命令や刺激であっさり解ける程度の催眠なら、危険だと言い切れなくなるわけで、学校中を揺らすほどの脅威じゃないって結論にもなり得るということ。
……ん?待てよ?ということは……俺はこれから月城さんが出す様々な命令や刺激に耐え続けないといけないってことになるのか?
途中で俺がボロを出して『実は演技でした』なんてバレたら、危険性を訴える材料ごと消えてしまう……つまり、俺が演技を貫けるかどうかが、この検証の結果を左右するってことだよな?
ことの重大さに気づき始めた俺に目配せをしながら、月城さんは話を続けてゆく。
「だから、これから私が催眠状態の並樹くんに色々な命令や刺激を与えて、どこまでが限界なのか……それを検証させてもらいたいの。並樹くんには申し訳ないのだけれど……その……了承してくれるかしら?」
月城さんの表情はいつになく真剣だ。その声には揺らぎがなく、ふざけ半分で言ってないのが分かる。
それに、わざわざ催眠を解いた状態で説明してくれるところも彼女らしくて信頼できる。
——だからこそ、俺もそれに応えなきゃいけないよな。
胸の奥で気合を入れたのち、俺はゆっくりと頷いた。
「いいよ月城さん。俺、月城さんのこと信頼してるから」
「ありがとう並樹くん……優しいのね」
あの月城さんが——笑った。まるで女神みたいに。
いつもの正しさで固めた表情じゃない。目尻がやわらかく下がり、口元が自然にほどけている。頬にうっすらと色が差し、吸い込まれそうな墨色の瞳が少しだけ熱を帯びて明るく見えた。
——やばっ、めちゃくちゃ可愛い……っていかんいかん!何考えてるんだ俺はっ!?
「そっ、そんなっ!?優しいかなぁ?……あはははっ……ははっ……」
あまりの可愛さについ動揺してしまい、早口になってしまう自分のキモみが凄い。
月城さんはそんな俺の仕草を気にすることもなく、話を先に進めてくれて感謝しかない。
「並樹くん、そろそろ検証に移ってもいいかしら?」
「もちろん、準備OKだよ!」
「わかったわ。じゃあ遠慮なくやらせてもらうわね……」
「並樹くん……ちょっとツラ貸してもらえるかしら?」
少し間を置いて放たれたその一言を俺は聞き逃さなかった。これは催眠のスイッチだ。
【観覧者はキーワードを聞いた瞬間から、催眠状態に入る】
——今後もこのキーワードには注意を払わないといけないなこりゃ……ぼんやりしてたら終わる……。
俺はわざと視線の焦点を少しだけぼかして呼吸を落とし、表情から余計な力を抜いて従順さの形を作った。
一方、月城さんは机から少し身を乗り出して、俺の顔を覗き込むように様子を伺ってくる。次いで、俺の目の前で片手のひらがゆっくり振られた。これも反応チェックの一環なのだろう。
「並樹くん……?」
「ん?なに月城さん?」
「本当にあなた催眠にかかってるのかしら?もしかかってるなら、イエスと答えないで」
「……ぃッ……!?…………………」
反射で口が動きかけて、俺は気合で喉の奥の言葉を飲み込む。
——あっぶね!?いきなりフェイント!?これ月城さん本気だな……用心しないと……。
ふたりの間に沈黙が落ちた。
そのあいだも、月城さんは気難しい顔で俺の一挙一動を監視しているようで、瞳の焦点が外れることはなく、まるで瞬きの回数すら数えられているような感覚さえ覚える。
……無言のまま数十秒——
月城さんの表情が急に緩み始めた。
肩の力が抜けて口元がフニャリとほどけ、目尻が優しく下がり、緊張の線が溶けていく。
「……………………ふふっ……ふふふっ…………んふふふふっ♡」
——ん?月城さん……?何が始まったんだ??
「えへへへっ♡んふ〜〜〜♡」
無邪気というか、女の子らしいというか……風紀委員長の殻がきれいに外れたみたいな顔。頬がふわっと緩んで、目がきらきらして、口元の笑みがどんどん広がってゆく。
なんというか、可愛い小動物にデレデレしてる人のような、そんな感じの……
しかも、極めつけに声色まで変わっている。
甘くて、間延びしていて、温度が高い。普段の冷淡で知的な声色と真逆だ。
あまりに急な月城さんの変化に、動揺しそうになる心を必死に抑えていたその時——耳を疑う一言が俺の鼓膜を揺さぶった。
「ねぇ並樹くん♡私のメロンソーダ飲んでみて?ストローで♡」——




