第33話 終演——
人生で初めてのキスって、こんなにも急に訪れるものなのか。
そう思った瞬間にはもう遅くて、俺の視界は凛の綺麗な顔で埋め尽くされていた——
熱い吐息と舌が絡みついて息がうまくできない。
胸の奥が焼けるみたいに熱くて、鼓動だけがやけに大きい。
体はラグに沈んだまま、逃げ道なんてどこにもないのに……不思議と怖さより、甘い眩暈みたいなものが俺を覆っていった。
そして、止まっていた時間が動き出す——
凛の唇がゆっくり離れると、二人の間に細く輝く唾液の糸がすっと伸び、名残惜しさがそこに残った。
触れていた熱が薄れていくほど、俺の中の何かが追いかけたくなる。なのに、動けない。
「「………………」」
終わった後も視線だけがほどけない。言葉なんてとうに消えてしまっている。
ただ俺は、小さな違和感を感じはじめていた。
凛はどうして泣いてるんだ……。
目の前の凛の目じりには涙が溜まっている。
喜びでも、驚きでもない。もっと深いところで追い詰められているみたいな色が滲んでいる。
その意味を探ろうと、余韻の残る唇を動かそうとした俺より先に、凛が口を開いた。
「あっくん……ごめんね、急にこんな事して……嫌だったよね?私なんかとキスするなんて……」
「そっ、そんなことは……」
「…………本当に。本当にずっとあっくんは優しいんだね……でも、ズルいよ……」
「…………」
ズルい。
その意味が分からず、胸の奥がざわつく。
優しいとか、ズルいとか、今ここで言う言葉じゃないはずなのに、凛の声は震えていて、逃げるみたいに止まらない。
「あっくん……あの日のデートも、お揃いのイヤホンケースも、あっくんから貰った髪飾りも、それにこのキスも……あっくんと一緒にいた時間全部、本当に楽しかったよ。ずっと付き合ってくれて、ありがとね……大切な思い出になったよ……」
凛の瞳から涙が一粒落ちて、光って、そして消えてゆく。
それが合図みたいに俺の喉がきゅっと狭くなった。
「……凛……どうしたの本当に……?今日おかしいよ……?」
俺の言葉を飲み込んだ凛は、小さく息を吸った。
怖いくらいに丁寧に、言葉を選ぶみたいに……。
「あっくん……最後に……これが本当に最後のお願いだから……聞いてほしいの……」
「………………お願い……?」
「そう……このお願いで、全部の検証は終わり……」
終わり……。
その単語が、胸の奥へ冷たい針みたいに突き刺さった。
やめろと心が叫んでいるのに、口が動かない。
沈黙が張り詰めてゆく中、凛の瞳の中には俺だけが囚われていて、既に逃げ道なんてないと訴えかけてくる。
そして、凛の口がゆっくりと開いてゆく。まるでスローモーションみたいに……。
「あっくん…………私のこと、抱いてほしいの……」
「……っ……!?」
意味は分かる。分かるのに理解が追いつかない。
検証という言葉の薄い膜が、目の前で破けていく音がした。
「……凛……それは……」
これが冗談で……ただ言葉通りに抱きしめるだけだったらどんなに良かっただろう。
でもそうはならなかった。
「…………あっくん……私とエッチして……」
——コレは本当に検証なのか?
もう凛のことが分からない。
確かに、もしそんな命令がまかり通るなら、あの催眠動画は危険だ。危険すぎる。
でも、今この瞬間、俺の頭を支配しているのは論理じゃない。
凛が泣いているという事実と、声が震えているという現実と、俺の胸の奥が壊れそうなくらい痛いってことだけだ。
凛の涙が何滴もこぼれて俺の首元を濡らしていく。
熱い。小さな雫なのに火傷みたいに胸が痛む。
「あっくん!これはっ……これは命令だよっ!……私と……私とエッチして!!」
悲痛な叫びだった。
怒鳴っているのに、助けを求めているみたいで……。
凛は言葉の後にパーカーのジップに指をかけて、震える手で下ろしてゆく。
俺は思わず息を呑む……これ以上、彼女が自分を追い詰めるのを見ていられない。
本心なのか。嫌なのに検証のために身体を張っているのか。だから泣いているのか。
……今はそんなこと、どうでもいい。
考える暇なんてない、もう時間がないんだ。
俺にとっていちばん大事なのは検証なんかじゃない。
凛だ。
彼女がどんな理由であれ、自分を傷つけるようなことをするなら……それに乗るなんて人として、男として最低だ。俺はそんなふうに彼女の涙を踏みにじれない。
彼女の手がジップを下ろしきりそうになるその瞬間、俺は動いた。
覆いかぶさる凛をぎゅっと抱きしめて体を起こすと、腕の中にある体温や震えが全部本物で、これは夢じゃないということに胸が張り裂けそうになる。
「凛っ!……ダメだよ……これだけは、ダメだよ……」
肩から落ちそうになったパーカーを掴んで凛に掛け直し、もう一度言葉を絞り出す。
「ごめん……これだけは出来ない……」
「……っ…………っ…………」
凛は震えながら泣いていた。
声を殺しているのに、涙の気配だけが痛いほど伝わる。
俺はもう一度彼女を抱きしめた。抱きしめることしかできなかった。
それから耳元で、今にも消えそうな声で呟く。
「凛……俺、行くね……ごめん……本当に……」
その言葉が刃みたいに自分の胸も切り裂いた。
でも、ここにいたら俺はもっと間違える。凛を守るつもりで、凛を壊すかもしれない。そう思うと足が勝手に動いていた。
立ち上がって凛の部屋を後にする。
背中に何かを感じても振り返れなかった。振り返ったら戻ってしまうかもしれないから。
靴を乱暴に履いて、ドアを開けて飛び出す。
慣れない廊下を走りエレベーターに飛び乗ると、がむしゃらに外を目指してゆく。
既に夜の帳が落ちた見慣れた道を、俺は一直線に自分の家へ走った。
途中、背後をふりかえってみたが、もちろん凛はいない。
それが少しだけ救いで、少しだけ残酷だった。
気づけば俺の瞳にも涙が浮かんでいた。
頬を伝う風が冷たくて、涙の熱が余計に際立つ。
急に訪れたふたりの終演。
もう凛とは同じ関係ではいられない。あの温かく甘い時間はもう戻らない。
まるで夢から醒めたみたいな虚無が胸に穴を開けて、そこから冷たい空気が吹き込んでくる。
「くそっ……俺はどうしたらよかったんだよ……なんで凛はあんな事を……」
言葉は雑踏に消えていく。残るのはぽっかり開いた心の穴だけ。
俺はその痛みに耐えながら、ただひたすらに駆けていた。
儚くてロマンチックだったはずの時間が、指の間から砂みたいに零れ落ちていくのを感じながら——




