第32話 戻った時間、進む時間——
凛との時間はやっぱり楽しかった——
たった一週間しか経っていないのに、久しぶりだと感じてしまう自分がいる。
教室で言葉を交わさない日々の無音が、思った以上に俺の中に溜まっていたのかもしれない。
たとえ検証だったとしても、この時間は俺にとって知らずのうちに大事な時間になっていた。そんな気がする。
凛の部屋は整っていて、静かで、紅茶の湯気とクッキーの甘い匂いがほんの少し混じって、そこに凛の気配が重なる。
何気ない会話の応酬。
近い距離でのボディタッチ。
俺の隣でコロコロと笑っている凛。
それにつられて俺もつい頬がほころんでしまう。
互いに演技をしていたとしても、この空間だけは本物だ。
そう思いたくなってしまう俺がいた。
「ねぇねぇあっくん……ずっと連絡しなくてごめんねっ♪その間、寂しくなかった?」
唐突に刺さる質問に、俺は紅茶のカップを持った手を止めた。
寂しいかどうかなんて考えないようにしていたのに……。
「うーん……そうだなぁ……」
「ねぇねぇ〜どうなの〜?寂しかったでしょ!?」
言葉を探している俺の腕に絡み付くようにして、凛が俺を揺すってくる。
軽いはずの力なのに、その距離と絡んだ腕に妙に動揺してしまう自分がいた。
「まっ……まあ……その、ちょっとは…………」
恥ずかしすぎる。でも、それは紛れもない本音だった。
言葉にした途端、顔面が熱くなる。
ある意味、演技だから言えるその一言に、凛は口元を大きくほころばせて勝ち誇ったみたいに笑った。
「んっふぅぅ〜♡やっぱぁ?やっぱぁ〜??」
「なんだよその顔っ……そういう凛はどうなんだよ?」
まるで煽るようなその仕草さえ、どこか可愛く思えてしまう。
俺はノリにまかせて言い返してみせるが、声はどこか震えていたかもしれない。
一方、凛のほうは急に静かになった。
「…………私はねぇ…………」
凛が一度、息を吸う音がした。同時に空気がスッと変わる。
「寂しかったよ。すっごく……たぶん、あっくんなんかよりずっと……」
その声色がなぜか真剣味を帯びていた。
甘い演技の声じゃない。いつもの凛のような落ち着いた声色。
恋人に会えない寂しさの演技だと片付けるには、それはいささか重すぎた。
「あれからどうしようかなってずっと考えてて……気づいたらこんなに時間経っちゃってたんだ……ずっと連絡できなくて……ごめんね……」
「……凛……」
目の前の凛がどっちの凛なのか分からなくなる。
演技の彼女なのか、本当の彼女なのか。境界が溶けていく感じがして俺は言葉に詰まってしまった。
凛は悲しげに、そして真剣に俺を見つめていた。
その視線があまりにも刺さって逃げたくなる。なのに目を逸らせない。
次の瞬間——
凛が突然、表情をぱっと明るくしていつもの笑顔を作った。
「なんちゃってね……えへへっ♪」
「……ちょっ、凛!?それはないだろっ!?」
そう言いながらも、俺は安心していた。
心の奥底で小さく安堵のため息を付いて、ほんの少し脱力する。
「んふふっ♡びっくりしたぁ〜??」
「そりゃびっくりするだろ……凛が急に悲しそうにするから……」
「なぁに〜?心配してくれたのぉ〜♪あっくん優しい〜♡」
「ちょっと!?近いって!!」
ふざけた勢いに任せて、またもや凛がぐいっと身体を寄せてくる。
既に肩やその大きな胸が当たりそうになって、俺は反射的に後ろへ引いた。
その時——
俺の手がローテーブルに当たってしまい、テーブルがわずかにずれた。
その衝撃で上に乗っていたクッキーの受け皿が傾いて……。
「あっ!!…………うおっ!?」
「きゃっ!?」
その皿へ慌てて片手を伸ばした瞬間、俺は体制を崩してしまった。
後ろへ倒れ込み、背中にラグの柔らかさが来るより先に視界が回る。
それに引きずられるように、身を寄せてきていた凛が俺の上に倒れ込んでくる。
————————むにゅ……♡
「……ふぅぅ、あっぶね…………割れなくてよかった……」
どうにか受け皿をキャッチしてラグの上に置く。
けれど、俺の上には凛が覆いかぶさるように倒れ込んでいて、逆に息が止まりそうになる。
凛のおっぱいの柔らかい重み。首筋にかかった髪のくすぐったさ。
そして、ふわりと漂うあのデートの時の香水の香り……。
焦りと一緒に鼓動が急に早まってゆく。
「…………凛、大丈夫?」
「……うん……」
凛が少しだけ姿勢を起こすと、胸の上の重みがそっと軽くなる。
けれど距離は近いまま……これは初めての距離だ。近すぎる。
俺の視界には、天井を覆い隠すように凛だけが映っていた。
頬が赤く髪がまだ少し湿っていて、光を吸うみたいに黒く艶めいている。
自然と視線が交差してしまい、そこに生まれた悪戯な沈黙。
彼女の顔が近すぎて、心臓が破裂しそうなほど激しく脈を打ちはじめ……倒れたままの俺は一歩も動けずただ凛を見上げていた。
視線の先、凛の表情が一瞬だけ憂いたように見えた刹那——
彼女の顔が俺に向かって落ちてくる。
視界いっぱいに墨色の瞳が満たし、まばたきの影が頬に落ちるのが見える距離で時間が薄く伸びていった。
————————ちゅっ……
唇に走る甘く熱い感覚。
柔らかく触れたそれに、胸の奥が強く脈を打って息が止まり、体が固まる。
——俺は……凛と、キスを……?
そう理解するまでに、かなりの時間がかかった。
金縛りみたいに手足が言うことを聞かない。
時が止まったようにその時間は甘く、長かった——
どれくらい経っただろう……数秒、数分。
凛の唇がそっと離れていく。
離れたはずなのに余韻がまだ肌に張りついていて、息を吸うのが怖い。
目の前に凛の顔が映り込むと、その表情は真剣だった。そして、どこか悲しげな色が滲んでいる。
「…………凛…………?」
「……………………」
何を言っていいのか分からない。頭が空っぽになりなにも出てこない。
これは検証なのか?でもキスしてなんて言われていない。
俺は何も頼まれていないのに、ただ受け入れてしまった。
「…………好き……」
か細い声が耳に届き、胸の奥が痛いくらいに鳴る。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、あっくん……でも、好き……好きなの……」
「……………………」
なぜ謝るのか。なんでそんな悲しい顔をするのか。全部分からない。
好きという言葉も、謝罪の言葉も、間違いなく俺に向けられている。
でも、どっちの俺に向けられているのかが分からない。
混乱している俺の頬に、凛の右手が優しく触れた。
指先がそっと頬を撫でてゆくと、温かく滑らかな感覚が触れられた場所から広がっていく。
その感触が肌を伝う中、俺の視界はもう一度凛で満たされていく。
もう一度重なる唇。
今度はさっきより確かで、逃げ道を塞ぐみたいに強く。
呼吸が絡んで、胸の奥が焼けるみたいに熱くなる。
脳が焼けるような感覚に俺はただ溺れていた。
言葉が出ない。考えが追いつかない。ただ、うるさいほど脈打つ心臓だけが刻々と時間を刻んでいく。
この瞬間だけは検証という言葉が追いついてこなかった——




