第31話 戻った日常——
あれから一週間、俺はめっきり凛と話さなくなっていた——
教室ではもちろん、朝の仕事の時も。
必要な連絡は最低限はするが、それ以上の言葉が自然に続かない。
目を合わせることさえ稀になって、互いに互いを避けているわけじゃないはずなのに、ふたりの距離だけが確かに昔に戻っていた。
今までの関係に戻った。そう言えばその通りなのだが、どうにももどかしい気がして仕方ない。
たった一ヶ月の間に凛と距離が近づいただけで、こんなにも日常の輪郭が変わってしまうなんて予想していなかった。
一方で凛の人気は鰻登りだった。
髪型を変え、サラシを外しただけでこんなにも違うものなのだろうか。
廊下ですれ違えば視線が集まり、校門前で叱咤を飛ばせば男子がデレっとしながら黙り込む。
……おっぱいは偉大だ。
そんな言葉で片付けようとして胸の奥が少しだけ痛む。
俺の知っていた秘密が世界に開かれていく感じがして、俺のものでもないのに勝手に落ち着かなくなる。
それが余計、俺の心に追い打ちを掛けてくる。
近づけず、話せない。なのに遠くから存在感だけが増していく。
それを見ていると、俺だけどんどん置いていかれるみたいだった。
そんなことを考えはじめていた金曜日の帰り道——
急にスマホが震え、ポケットの中で短く鳴る振動に心臓が一瞬だけ跳ねる。
これはもしかして……。
そう思って淡い期待を胸に指先が急いで動き、画面を確認すると……そこには凛の名前が表示されていた。
【凛:飛鳥くん。今日この後、暇?】
その文面だけで、少しだけ顔が緩みそうになる。
それだけこの1週間が、俺の中で我慢になっていたのかもしれない。
【飛鳥:今日は特になにもやることないけど、どうしたの?】
【凛:そう。じゃあこれから家に来れるかしら?検証の続きをしたいの】
いつもの自分を装うように返信するとすぐに返事が返ってきて、文面を見た瞬間、急に鼓動が早まった。
【飛鳥:大丈夫だよ。今帰り道だから制服のままでもよければすぐに行けるけど、何時くらいがいい?】
【凛:そうね。少し準備があるから、30分後くらいに来てくれると助かるわ】
凛の返信を見つめたまま、余計な文章を付け足しそうになる衝動を飲み込んでたった一言だけ返す。
【飛鳥:わかった】
それだけなのに胸の奥が熱くなる。
数日分の空白がたった数行で埋まっていくみたいだった。
俺は足を止めず、そのまま自宅へ向かう歩幅を速めてゆく。
一応着替えてから行きたい、人の家に行くのだから。ましてや女の子の家に行くのだから。
気づけば、俺はポケットの中でスマホを握りしめながら夕方の街の雑踏を急ぎ足で抜けていた——
————————
メッセージを貰ってからほぼ三十分。
急いで家に戻って着替えた俺は、凛のマンションのエントランスに立っていた——
ガラス張りの自動ドアの向こうで、空調の冷たい風が静かに循環している。
変にインターホンを押すのも悪いと思った俺は、凛に一通だけ『着いたよ』というメッセージを送った。
すると、すぐに返事が来る。
【凛:今、迎えにいくわ】
その文に目を走らせて前を向くと、そこにはエントランスの奥からこちらに向かってくる凛がいた。
「飛鳥くん、こっちよ……」
凛は迷いなくこちらへ近づいてくると、自動ドアを抜けて小声でそう囁き、警戒した様子で辺りを見渡す。
それから急に俺の手を取ったかと思えば、エントランスの奥へ引っ張っていった。
彼女に手を引かれるままエレベーターへ向かい、ふたりで素早く乗り込む。
そのあまりに自然なボディタッチに少し驚きながらも、俺は口を噤んだ。
何を話せばいいか分からないのもあるし、今ここで余計な言葉を重ねたら何かが崩れそうな気もして。
エレベーターが上へ滑り出すと、俺は凛の姿を横目で盗み見た。
ふわふわした生地のパーカーにショートパンツ。頬がほんのり赤く、髪も少しだけ湿っている。
俺の手を引く手はぽかぽかで、握られた部分から熱が伝わってくる……まるでお風呂上がりみたいだった。
目的階に着くと、そこからは早かった。
凛の自宅の前まで向かい、扉を開けて俺を中へ滑り込ませるように入れる。
そしてドアが閉まった瞬間、凛はようやく緊張の糸がほどけたみたいに短く息を吐いた。
「ふぅぅ……ごめんなさいね、急に呼び出してしまって」
「ああ、大丈夫だけど……」
久しぶりの距離感と会話に、胸がやけにうるさい。
こうして近くで見る凛はやっぱり美人だった。
制服じゃないからこそ、制服の時よりも生活の匂いがして……その分、現実味が増して見える。
俺はふと手元を見て、少し声を落として一言呟く。
「あの……凛……その、手……」
「あっ!?ごっ……ごめんなさい!ちょっと警戒しすぎて忘れていたわ」
「全然いいんだけど……」
「じゃ、じゃあ靴脱いで上がって。これスリッパね」
凛は慌てた様子で手を離し、少しだけ目線を泳がせていた。
俺はその指示どおりに靴を脱いで玄関からあがると、彼女が奥へ案内してくれる。
「こっちよ……」
この前と同じ広いリビングへ行くのかと思ってついて行くと、おもむろに廊下の途中で凛が止まった。
そして横の扉を開けてみせると、手のひらでどうぞと促される。
そこに一歩足を踏み入れた瞬間、俺は思わず声が出そうになってしまった。
それは、そこが凛の部屋だったから。
整った掃除の行き届いた部屋。
勉強机には教科書やノートが綺麗に積まれていて、窓際には綺麗に整えられたベッド。中央には白いラグが敷かれ、低いローテーブルが置かれている。
どこか女の子らしさもある、そんな部屋。
「ごめんなさい、ちょっと狭くて……ここ、座っててくれる?」
「狭い?うん……」
俺には広く感じられたが、彼女的には狭いんだろう。
言われた通りラグの上に腰を下ろすと、部屋の空気がさっきまでいた廊下やリビングとは違い、いつも彼女から香る少しだけ甘い匂いが混じっている気がして、心臓がまた早くなる。
「飛鳥くんは紅茶でいいかしら?それともコーヒー?」
「えっと、紅茶で……ありがとう、気を使わせちゃって……」
「気にしないで、すぐに入れてくるから待ってて」
そう言って凛は慌ただしく部屋を出ていった。
扉が閉まる音が小さく響いて、俺はぽつんとラグの上に残される。
まさかの初めての女の子の部屋。しかも凛の。
妙に落ち着かなくて、手の置き場も視線の置き場も決まらない。
匂いだけがやけに鮮明で、呼吸をするたび胸の奥がくすぐられる。
——俺は変態か……。
そんな自嘲が浮かぶのに否定する材料がない。
その時、ふと目に入ったのは机の上に置かれた通学鞄だった。そこには、この前ペアで買ったイヤホンケースがしっかり付けられていた。
「凛……使ってくれてるんだ……」
俺は遠慮して鞄に付けていなかった。
どこかでお揃いが目立つのが怖かったのかもしれない。なのに凛は当たり前みたいに使っている。それが胸の奥にじわっと温かいものを灯した。
まるで、あのデートが演技じゃなかったような気がして……。
そんな事を思っていた時、部屋のドアがゆっくりと開く音がして、凛が紅茶のカップと小さなクッキーが乗ったトレーを持って入ってきた。
「おまたせ、飛鳥くん……これ、よかったら飲んで……」
手際よくローテーブルにそれを置てゆく凛。そして全てを起き終わると当たり前のように俺の隣に凛が座った。
距離が近い、肩が触れるほどに。でもそれが少し心地よいと感じてしまう自分がいる。
恥ずかしさを誤魔化すように俺が紅茶に手を伸ばすそうとした時、自然と凛と目が合った。そして、その瞬間に彼女が告げる。
「それじゃ……早速だけど、いいかしら?」
「えっ……あっ……うん、大丈夫だよ」
もう慣れたやり取り。
何を検証するのかは分からない。けれど、今はそんなことどうでも良かった。
まるで自分の居場所が戻ってきた……そんな気持ちがして安心している自分がいる。
次いで、いつもの言葉が落ちる。
「じゃあ飛鳥くん……《《ツラ貸してもらえるかしら》》?」
その言葉に俺は演技へ入ってゆく。
けれど、今日はほんの少しだけ思っていた。
演技と言いながら、もしかしたら俺は演技なんかしていないんじゃないか?これが本来の自分なんじゃないか、と。
ここまではいつもの検証。そう思っていた。
でも、俺はこのあと知ることになる。
凛の覚悟を——




