第28話 いつもの朝、いつもと違う朝——
日曜日を挟んで月曜日の朝。
俺はいつも通り、校門前で風紀委員の挨拶運動に参加していた——
「はい〜、みなさんまだまだ暑いですが服装は正して登校してくださいね〜……」
いつもの声、いつもの風景。
登校する生徒たちの足取り、校門前のざわめき、挨拶の声。
何も変わらない、いつもの活動だと……そう思っていた——
でも今日はそうじゃない。
手の温度。耳元の囁き。香水の香り。抱きつかれた時の重みと首筋に落ちた温かな雫。
凛とのデートの記憶がふとした瞬間に蘇ってきて、脳内がずっとうるさい。
俺はどうしてしまったんだろう?
検証だ。演技だ。そう割り切るはずだった。
なのに月曜の朝になっても、俺の中のどこかが置いていかれているみたいで、視線は自然と挨拶運動をしている凛のほうへ向いてしまう。
でも、それは俺だけじゃなかった。
今日、いちばんいつもと違うのは、俺の心じゃなく凛だったからだ——
「そこの男子っ!!ワイシャツのボタンをしっかり締めなさいっ!」
鋭い叱咤が飛ぶ。
その声に呼ばれた男子生徒は肩を跳ねさせて立ち止まると、目を丸くする。
(はっ……はい…………月城さん…………)
返事はか細くどこか上擦っている。そこまではいつもの光景。
凛が鋭く指導し生徒が従う。いつもの日常の一部。
なのに、その続きが明らかに違う。
「なぁにジッとこっち見ているのかしら?さっさと行きなさいっ!!」
(はいっ………)
叱咤された生徒……特に男子がみんなして一瞬声を失っている。
それから慌てたように頷き、指示に従い……そしてなぜか、ずっと凛を見つめながら校内へ入っていく。
俺の視線の先にいる凛——
いつもの制服。きっちり整えた襟元。冷たく背筋の伸びた立ち姿。
そこまでは確かにいつもの最恐風紀委員長だ。
でも、今日の彼女は髪が違う。
長い黒髪がハーフアップにまとめられていて、そこにあの蒼い髪留めが光っている。
青いレジンのグラデーションが朝の光を受けて、朝焼けの海みたいに輝いていた。
もともと凛は超が付くほどの美人だ。それだけでも十分目を引く。
けれど、問題はその黒髪に縁取られた美しい顔立ちのその下にあった。
凛がサラシをしていない……。
そのせいで隠されていた大きな胸が制服の胸元を歪め、これでもかというほど主張している。まるで抑え込まれていた秘密が、外に漏れ出してしまったみたいに。
なぜそうなったのかは分からない。
けれどこれは由々しき事態だ……美人でスタイルが良くて、巨乳。そんな風紀委員長が生まれてしまっていた。まるでほのか先輩の再誕だ。
俺だけが知っていた凛の魅力が公になってしまった。そんな感覚が胸の奥のノイズになる。
そして、それに追い打ちをかけるように、俺の耳に飛び込んでくる話し声。
(おい……見たか?月城さん……)
(みたみた……ヤバい……あれはヤバい……いままでどうしてたんだ?)
(すげぇよな……うわぁ、俺めっちゃ好きになっちゃいそう……ちょっと今度声かけてみよっかな……)
下心丸出しのヒソヒソ声。
聞いているだけで胃のあたりが嫌な感じに重くなる。
今までずっと凛を避けていたくせに。怖いだの厳しいだの言って距離を置いていたくせに。見た目が変わった途端に手のひらを返すみたいに態度を変えて。
でも、俺も人のことは言えないのだ。
俺だって最初、ほのか先輩をそういう目で……否定しきれない過去がある。
しかも、俺と凛は別に深い関係でも何でもない。口出しする権利なんてあるわけない。
なのに、胸の奥のノイズは大きくなるばかり。
そんなことを考えていた矢先だった——
気づけば、凛の周りにチャラめの髪型の男子が集まり始めていた。
いつもなら彼女から距離を取るはずの連中が、今日だけは人だかりを作って軽いノリで声をかけている。
(あれ?君、2年の月城さんだよね?なんか変わったよねぇ?どしたん?)
(ほんとだぁ……なんか可愛くなった?ねぇ、よければ◯ンスタ交換しない?)
もちろん凛は一歩引いてはっきり拒む。
でも、いつもと違う周りの圧が凛の動きを鈍らせているようで、その表情には怯えが見えた。
「ちょっ……ちょっと先輩っ!?……そういうのはっ……」
——流石に……あれは良くないよな……。
そう思った時には、俺の足は勝手に動いていた。
怖い。けど見ていられない。
俺は凛の元へ駆け寄り、できる限り声を張ってその人達へ告げる。
「あのっ!すいませんっ先輩!ここ校門前でして……人通りも多いんで、捌けて頂いていいですか?風紀委員として学校の景観も維持する必要があるんで……」
言いながら心臓が嫌な速さで打っている。
なんとも情けない言い訳。俺は喧嘩なんてできない。でも、それでも——
それを聞いて素直に散ってくれる人もいた。が、集団の中のひとりがこちらを鋭く睨んできた。
(ああっ?別にいいだろ?ただ話してるだけなんだからさ)
その勢いに押されそうになり足がすくみそうになる。
でも、どうにかそこを踏ん張って今度は頭を下げた。
「あのっ、でも彼女嫌がってますし……なんで、やめてあげて下さい。すいません生意気言って……お願いしますっ!!」
「ちょっ……飛鳥くん!?」
驚く凛の声が耳に刺さる中、俺は先輩に頭を下げたまま姿勢を固定した。
俺は弱い。だからこれくらいしかできない。けど、凛のあんな顔は見たくない。
彼氏面とかじゃなく、これは同じ風紀委員として彼女を守っているだけだ……そう自分に言い訳をし続けて。
しばらくの沈黙のあと、相手は舌打ちするように空気を崩した。
(……なんかしらけたわ……いこいこっ……)
——ふぅぅぅ、よかった……行ってくれたぁ……。
怖さで震えそうな体を必死に抑えて顔を上げると、既にその人たちは離れ人だかりも散っていて……俺の視界には凛の心配そうな顔だけが残っている。
「そのっ……大丈夫?凛……」
「それはこっちのセリフよ飛鳥くんっ!あんな事しなくたって……私一人でなんとか出来たわよ!?」
「それは、そうかもしれないけど……なんていうか、見てられなくて」
俺の言い訳に若干呆れたような顔をする凛。
けれど、その表情はすぐにほどけてゆき、小さく頬が緩んで……そこには俺だけが知っている凛がいた。
「ふふっ……まあ、あんまり危ないことはしないでね?私のせいでなにかあったら嫌だし。でも助かったわ……ありがとう飛鳥くん」
「ごめん、気をつけるよ」
「ええ、お願いね……」
そう言って、すぐに振り返った凛。
その背中に爽やかな光が当たり、蒼い髪留めが綺麗に光る。
その光景に、俺はつい声を掛けてしまっていた。
あれを凛にプレゼントしたのは俺だけど、俺じゃない。催眠中の俺だ。
だから催眠を解かれた俺は、それをあげた事さえ知らない立場でいなければいけない。
それなのに……。
「凛。その髪留めとか、その髪型……似合ってるね」
凛がその一言にピクリと肩を揺らして止まる。
そして、ゆっくりこちらへ振り返ると、そこには甘く柔らかな表情が浮かんでいた。
「ふふっ♡そうかしら?ありがとう。これ、ある人にもらったのよ。似合うと思ってって……私の宝物なの……」
その表情はデートの時と同じで、演技のはずの境界線が曖昧になっている。そんな気がした。
凛の声の温度に、あの夕方の公園の景色がフラッシュバックする。
宝物。嬉しい。……でもなぜか悲しい。
まるで他人から貰ったみたいに言うその振る舞いが、胸の心に小さな棘を植え付けた。仕方ないのは分かっている。
本当に俺は一体どうしてしまったんだ?
目の前の凛はすぐにいつもの冷淡な表情へ戻り、振り返って仕事へ戻っていく。
その背中を、俺はまるで苦笑するように見つめていた。
自分の感情の行き場が分からないまま、校門前の熱気の中に立ち尽くして——




