第26話 映画と距離——
気づけば俺の瞳には映画館が映っていた——
どこをどう走ったのか細かい経路なんて覚えていない。
それほど夢中だったみたいだ。
走ったせいか、それともさっきの一件で緊張が張りついたままなのか。
どちらにせよ心臓がまだ激しく脈打っていてうるさい。
やっと立ち止まった俺は、無理やり息を整えようとその場で大きく息を吸ってから凛に目を向ける。
「はぁ、はぁ……凛、大丈夫……?」
「……………………………………」
返事がない。凛は息を切らしながらずっと俯いている。
肩が小さく上下して、髪が頬に落ちて表情が見えない。
「凛……?」
「……………………………………」
よほど怖かったのだろう。
俺は慌てて少し身を屈め、凛を覗き込もうとした。
「凛……??」
「……………あわわわわわ……てっ……ててててっ……」
小さな声が震えている。
凛の目は高速であちこちに動き、どこにも焦点が合っていない様子で……俺は違和感に眉を寄せた。
「…………ん…??」
「ああああっ……あっくん……そのっ……てっ……手が……手がぁ」
「手……?」
その言葉に俺の視線は反射で凛の手元へ落ちた。
タイトなニットの袖から出ている細い華奢な腕。その先の小さな手のひら——それを包み込むように握りしめている俺の手。
——あ。
指の間に残っていた柔らかな感触が遅れて脳に届く。
温度。細さ。震え。握った圧の記憶。自分がどれだけ長く彼女の手を掴んでいたのか今さら理解して背筋が冷える。
全身から汗が吹き出しそうになって、歯がカタカタと鳴った。
「ごごごごごごっごめん!!ごめんごめんごめん!!つい焦ってて!」
「だ、だだだっ……大丈夫だよ!あっくん……」
事の重大さに気づいた俺は慌てて手を離す。
すると今度は互いに手の置き場がなくなり、妙にぎこちない動きになってしまう。
どうやら凛は自分から仕掛けるのは良くても、相手から何かされるのは苦手なようだ。
——とはいえこれは俺が悪い。この空気を変えないと。
そう思い直し、俺は凛の気を逸らすように無理やり声を明るくして彼女に声をかけた。
「とっ……とりあえず映画のチケット買いに行こうか?!ねっ?」
「そっ……そうだねっ!えへっ……えへへへへっ……///」
凛は笑ってはいる。けれど、どこか空気が回復しきっていない。
それでも俺たちは歩き出し、映画館のチケット売り場へ向かった。
揃って並び始めたところで、ふとある疑問が湧く。
凛から聞いていたのはざっくりとした上映時間だけで、作品名は聞いていなかったから。
「そっ……そういえば今日どの映画を見るの?」
掲示を見ると、ほぼ同じ時間帯に三本並んでいた。
海外の恋愛ドラマ。流行りのアニメ。そしてゴリゴリのアクション。
「えっとね、今日見たかったのは……」
「うん……」
凛は少しだけ胸を張って、迷いなく言い放った。
「特攻筋肉達磨SSRチームだよっ!」
「………………」
一度、脳内が停止した。
特攻筋肉達磨SSRチーム——筋肉隆々の殺し屋チームがターゲットのテロリストである筋肉野郎たちと、くんずほぐれつの戦いをする15R指定の過激アクション映画。
予告を見たことがある。血飛沫と爆発と雄叫びのやつだ。
——だめだ、絶対に突っ込んだらダメだ……。
凛の目は本気だった。試してるわけじゃない……はず。
混乱しながらも、表情だけは崩さないよう俺は必死に耐える。
「どしたの?あっくん??」
「えっと……凛はアクション好きなんだねっ?」
「うんっ!めちゃくちゃ好き!スプラッタも!」
「……そっ、そっか……」
覗き込んでくる凛に、俺は必死に合わせる。
凛の外見と服装と声色から想像する趣味とあまりにも一致しない。
ギャップ萌えという言葉がある。けど、このギャップは怖いが勝つ。
流石、最恐風紀委員長。
「あっくんは苦手?アクション映画……」
「いやぁ、俺も好きだよ!やっぱりハードなアクションって見てて興奮するよね!」
「そうそう!なんか見てるとやる気が出るんだよねっ!特に血が飛び散ったりするシーンは最高っ♡」
「わかるわかるっ!あはっ……あはははっ……」
気づけば空気は回復していた。なのに乾いた笑いが漏れてしまう。
その後、チケットを購入した俺たちは館内へ入り、ポップコーンの甘い香りが漂うロビーで長い上映時間に備えてふたりで飲み物を買った。
上映開始まであと十分ほど。
それまでどうするか考えていたその時、凛が軽い足取りで言う。
「あっくん!私、ちょっとお手洗いに行ってくるねっ!」
「おっけ、じゃあ俺は凛の飲み物も持って先に席に行っとくよ」
「うん、ありがとっ!」
そう言って凛はお手洗いへ向かっていった。
一方の俺は、凛の分も飲み物を抱えシアターへ向かう。
入口でチケットを見せ、暗い通路を進むとふっと音が吸われる感覚に襲われる。
薄暗いシアター内を進み、スクリーンが最もよく見えるど真ん中あたりの指定席に腰を下ろして凛を待つ。
しばらくして、凛がそっと隣に姿を表した。
次いで香る、いつもと違う優しいフローラルのような香り。
「おまたせっ、あっくん!」
「あっ、凛……」
俺の左側に凛が座ると、香りもおのずと近くなる。
その香りが気になって思わず凛の方を見つめていたのだろう、凛が首を傾げて問いかけてくる。
「あっくん?私の顔になにかついてる?」
「あっ、ごめん……なんか、凄くいい匂いがする気がして……」
言ってから、しまったと思う。つい口が勝手に滑ってしまった。
「んふ〜♡気付いた?今日は香水付けてるんだっ♪」
「ああっ……だから……」
「えへへ〜♡いい匂いだって言われちゃった///」
嬉しそうに頬に手を当てて笑う凛。
その笑顔が可愛くて……つい恥ずかしくなってしまった俺は、その笑顔から逃げるように下を向く。
そこで、映画の始まりを告げる合図が救いみたいに訪れた。
場内がゆっくり暗くなっていき、客席がしんと静まる。
「はじまるね……」
凛が小さく耳元で囁く。
その近さに一瞬だけ肩が跳ねそうになるのを堪えて、『うん』と小さく返すとスクリーンへと視線を移す。
真っ暗なシアターの中、また耳元に声が落ちる。
「ねぇあっくん……手、握ってもいい……?」
「……えっ……?」
「ほら、さっき……びっくりして離しちゃったから……今度はちゃんと握ってみたくて……」
暗闇のせいか言葉がやけにまっすぐ刺さる気がして、妙にドキドキしてしまう。
「……………………いいよ……」
気づけばそう返していた。命令をされていないのに……。
暗闇は人を大胆にさせる。それは本当みたいだ。
理屈より先に俺の心が頷いてしまっていた。
凛の手がそっと重なり、ゆっくり指が絡んでゆき……やがて恋人結びになる。
手のひらの柔らかさと指先の温度が暗い空間の中でやけに鮮明になり、触れているだけで伝わる小さな震えが、俺の中の緊張を違う形に変えていく。
そんな状況の中、スクリーンには映像がゆっくりと映し出されて……暗闇の中、繋いだ手の温度だけを確かめながら、俺たちは同じ画面を見つめてゆくのだった——




