第19話 ここは地獄の深淵なり——
俺の横には凛が座り、長机を挟んだ正面にはほのか先輩がニッコニコで弁当を出している。
その猫っ気気味の髪がさらりと揺れるたび、場の空気まで柔らかくなる……はずなのに。空気は重い。
——いったいなんなんだ、この状況は……。
箸を持つ指先に力が入りすぎないように、俺は肩の力を抜くふりをした。
何が起きても対応できるよう、全神経を集中させる。
そしていよいよ食事に向き合おうとした、その矢先だった——
「あれぇ?そういえばなーくんと凛ちゃんのお弁当箱……すっごく似てるね?お揃い?」
「ブフッ!??!」
反射で吹き出しかけて、慌てて口元を押さえる。
一発目からこれだ。俺、今日生きて帰れないかもしれない。
「ええ、お揃いですよ。どちらも私のです」
「っ!!?!」
もう意味がわからない。凛の切り返しが鋭すぎて今度は別の意味で息が止まる。
横目で彼女を見ると、表情も声もいつもの委員長のそれだ。なのに、なぜか背筋に沿ってひやりとしたものだけが落ちる。
「実は飛鳥くん、今日お弁当忘れちゃったみたいで……だから私のお弁当分けてあげてるんです」
「あ〜!そうなんだ!なーくんおっちょこちょいだねぇ……」
「あははっ……はい、自分でも情けないです……」
——ええっ、それ信じてくれるんだ……この量と箸までペアの用意周到ぶりでもぉ!?
ほのか先輩の深掘りしない優しさに救われた気がして、胸の奥で感謝する。
が、この会話は序章に過ぎなかった。
「なーくん!ちゃんと凛ちゃんにありがとうした?」
「そっ、それはもちろんしましたよ!」
「それならよし!じゃあ、わたしもそんな可哀想ななーくんの為に、お弁当分けてあげるぞっ☆」
「ええっ、いやいや!いいですよほのか先輩!悪いですし……」
ほのか先輩の心遣いに心が痛む。そもそも俺は嘘が苦手なんだ……。
それにこれ以上状況を複雑にしたくない俺は、先輩の提案を丁寧に断わろうと試みる。
「大丈夫だよなーくん、そんなに遠慮しなくても!今わたしダイエット中だから!最近ちょっと太っちゃったみたいでさぁ……なんかまたおっぱいおっきくなっちゃった気がして……」
——だからなんでそういうのを次から次へとぉ!?この人はぁ!!
最高に反応しにくい話題に、俺は顔を引き攣らせないようにするのが精一杯だった。
こんなことを男の前で言うから勘違いされるんだと思うが、そんな天然な感じがグッとくるんだとも思う。
言葉の置き場が見つからないまま、視線を宙に彷徨わせている俺の視界に入ってきたのは、両手で大きなおっぱいを包み込み、ゆさゆさと揺らす困り顔のほのか先輩。
そのちょっとエッチな揺れについ視線を奪われてしまう。
「あっ……えっと………………いだだぁっ!!」
急に走る脇腹への激痛に、声が勝手に漏れてしまった。
反射で痛みの元へ視線を向けると、そこには凛の細い指が俺の脇腹を容赦なくつねっていた。視線を上げるとこちらを一切見ていない真顔の凛。
次に落ちてきたのは微かな声。
「|…………………………………………《どこ見てるのかしら?飛鳥くん》?」
「………………っ」
声が出ない。
激しい痛みと、凍てつく圧。今ここで下手な返事をしたら終わるという直感が、俺の喉を凍らせている。
——恐い……恐すぎる……。
戦慄する俺。その顔を不思議そうに見つめていたほのか先輩が首を傾げながら声をかけてくる。
「どしたの?なーくん??」
「いやっ……ちょっと足がつっちゃったみたいで……」
「な〜んだっ♪そっか!」
「あはっ……あははっ……」
咄嗟にもっともらしい事を言ってみたが、ほのか先輩はあっさり信じてくれて笑顔のままお弁当をつつき始める。
その無邪気さが救いだと安心しそうになるが、俺はまだ知らなかったのだ。
これは地獄の入口に過ぎなかったという事を——
——————
しばらく3人で会話をしながら食事を進めていると、それは訪れた——
目の前ではほのか先輩がにこにこしながら箸を進め、ちいさなミートボールを摘むと、おもむろに俺へ視線を向けてくる。
「なーくん、これはわたしからのお裾分けっ!」
「そんな悪いですっ…………てっ!??!」
断りの言葉を紡ぐ間もなく、箸に摘まれたそれはどんどん俺の眼前に高く掲げられていき——視界の中心に丸い善意が迫ってきた。
「はいっ、なーくんあ〜〜〜ん☆」
「ちょっ!?ほのか先輩なにを!?」
「なにって、食べさせてあげよっかなって♪」
「いやっ?!自分で食べれますって!」
必死に抵抗しようとする俺の声は、上ずってしまっていた。
そんな俺の抵抗など、どこ吹く風。ほのか先輩はまるでじゃれつく子犬みたいにあしらってくる。
「いいじゃんいいじゃん!これが初めてじゃないんだしっ!」
——ちょっ!?今それ言う!?
忘れようとしていた記憶が勝手に蘇り、焦りで心臓がきゅっとなってしまう。
夏休み、ほのか先輩に告白するために一回きりだけしたデート。
あの時たしかに、俺は先輩からあ〜んされていた……。
その言葉が教室に満ちた瞬間、空気の温度が一段落ちた気がした。
次いで聞こえる小さい底冷えするような声。
「どうしたのかしら?食べなさいよ?飛鳥くん……」
横の席から溢れ出す恐ろしいほどのどす黒いオーラ。しかも……その口調は命令だ。
俺は反射で背筋を伸ばし、口を開けるしかなかった。
「あっ……あーーん」
箸先が唇に触れてミートボールが舌の上に落ちる。
味なんてしない。
「うふふっ♪やっと食べてくれたぁ☆美味しい?」
「はい……もちろん……」
凛のこの圧に気づいていないのか、それとも屈していないのか……素直に喜んでいる表情のほのか先輩。
底冷えする声はまだやむことなく、すぐ隣でまた形になる。
「ふ〜〜〜ん……飛鳥くん、初めてじゃないんだ……へぇ〜〜〜……」
「………………」
声が出ない。
そもそもなぜ凛がここまで圧を強めているのか、正直俺にはその輪郭が掴めない。
強張る体を動かし視線だけ圧の方へ向けると、鋭いジト目でこちらを見ている凛がいる。
視線が交差した刹那、彼女は視線をお弁当に落として静かに箸が動きだす。
「そういえば、飛鳥くんのお弁当にはこれが入ってなかったわね……」
そう言って、煮物を摘む凛。
その手がまたしても俺の眼前に掲げられた。まるで銃口のように。
「はい……飛鳥くん、あーーん……」
——凛!?ほのか先輩見てるよ!?……おねがい助けて、誰か、この状況は一体なんなの?
混乱と焦燥が押し寄せる。
視線の先の凛の口元は笑っている形をしている。が、目が笑っていない。
その矛盾が、余計俺を追い詰めてゆく。
「橘先輩のは食べれて、私のは食べれないとか……そんなわけないわよね?これも食べなさい?飛鳥くん」
「……もっ……もちろん……おっ、おいしそー……」
否定はできない。できるわけがない。俺は催眠にかかっているんだから……。
「はい。あーーん」
いつもの甘々な声とは真逆の事務的な声色、事務的なあーんに背筋が凍る。
甘々な凛が恋しくてたまらない。
差し出されたそれをぱくりと口にするも、やっぱり味がしない。
そんな俺たちの様子を見ていたほのか先輩は、楽しそうにいつもの調子で一言。
「なーくんよかったね!わたしたちとお昼食べれて!至れり尽くせりじゃん☆」
「あはっ……そっ、そっすね……あははっ……」
「モテ男ぉ!このこのぉ!」
乾いた笑いが会議室にこだまする。
凛の視線はいまだ俺を貫き、ほのか先輩の笑顔は無邪気なまま。
この地獄はそれ以降も続いた。昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るその時まで——




