追懐
安紀は、とても手際よく、恵里菜を抱く。恵里菜は、前と違う、ああ、これも市香さんと練習したんだろうな、と思う。何だか心は何も感じない。ただ、安紀も泣きそうな顔をして、恵里菜を抱いていた。安紀は、「僕は明瞭な理論の中に生きていたのに、市香さんに出会ったばっかりに。」と泣く。恵里菜は、どうでもいい!と思いつつ、腹が立つ。安紀は、「もう、だめだ。どうせ大した人間にはなれない!」と言う。恵里菜は、せめて稼いで、子どもたちに養育費でも送ってくれよ、と思う。「今、どうしているの?」と今さら聞く。「大学に行っている。」「どこ?」「東大。」恵里菜が、「東大で何してるの?」と聞くと、安紀は、「面倒だから説明したくない。」と言う。恵里菜が、「もっとすごい人になると思ってた」と言うと、安紀は、ただ頷く。
安紀は、「退屈なんだ。」と言う。恵里菜は、「私と一緒にいても変わらないでしょ。」と言うと、「いいや。」と言って、また抱きしめるので、恵里菜は、帰り時が分からず、だらだら残ってしまう。結局、安紀は、数回、恵里菜を抱いた。そして、「疲れたから、帰る。」と言って、気だるそうに、いなくなった。
恵里菜は、あんなにずるい大人になるなんて、あんなに醜い大人になるなんて、と、あの少年の頃の危うくも美しい安紀を思い出して、手を合わせて泣いた。




