破棄
恵里菜は、動くな、と言われたのを跳ね返して、赤ちゃんに会いに行こうとするので、看護師は慌てて、車椅子に乗せる。恵里菜が、顔を見ると、康人より、ずっと安紀に似ている。それでも、必死に、手が、手が自分に似てる、と思って、ああ、良かった、自分に似てて、と恵里菜は泣く。何だか、夢から覚めたような、ただ、あの不思議な瞬間を共有したこの子と、2人でどこかまた違う世界に行きたいようなそんな気がする。
恵里菜の母親は、康人を寝かせ、自分も日ごろの疲れでぐっすり気を失うように寝て、はーよく寝た、と起きると、固定電話が鳴る。何?と思って出ると、娘が屋外で孫を産んだと聞いて、「そうですか。」とまず答える。
安紀は、やはり1週間の定期に来て、ようやく何も知らないうちに、子どもが生まれたと分かった。しかも、それは恵里菜に聞いたわけではない。恵里菜は、面会拒絶して、安紀は入れない。安紀は、拒絶をすんなり受け入れると、そっか、石川さんは僕に飽きたんだ、と思う。その後、回り込んで、保育器の並べられたのをガラス越しで見ると、自分に似た子がいるので、ああ、生まれたんだな、と気づく。そこに、恵里菜の母親がやってきて、「ようやく娘は目が覚めたの。遅すぎたくらいよ。2人の孫は、私たちで育てるから……。あなたは、もう関わらないで。約束は、破棄でいいと、娘が言ってます。」と、言う。安紀は、「そうですか。」と言って、病院のベンチに腰掛けて、まだ、あの子を見ている。「見ないで!」と母親が言うと、「じゃあ、そこに置かないでください。」と言う。
安紀は、約束の破棄、と唇だけで言って、ガラスに手を当てて子どもを見て、「僕が悪いの?」と聞く。子どもは、少し、安紀の方を見た、そんな気がする。
この少し前に、安紀は、市香とも性的な関係を結んでいた。市香は、安紀を誘わなかったが、安紀は、聡明で快活な市香を、「知りたい」と思ってしまっていた。その上で今、あんまりだ、という顔を作って子供を見ている。しかし、暫くすると、急に唇の端を上げて、なーんてね、という表情をする。この時の安紀にとっては、約束の破棄も、自らの理性の崩壊も、人間味だと思えて嬉しかった。それが、本当は彼という人間の崩壊だとしても。




