34.時間を止めて
お母さんの波打つプラチナブロンドが一房、きらきらと光を弾きながら床に落ちていった。
「うわぁっ!」
まるで、断末魔のようなお父さんの悲鳴が響いた。いや、断末魔ってなんだ。
あれ? そうだった、死んじゃうというか、騒いだら罪人になっちゃうんだよ! と慌てたが、おじさんは早かった。たぶん、ずっと見張っていたのだろう。なんと、立ち上がりかけたお父さんを踏みつけたのだ。
「……おい。次は息も止めるぞ」
だめだめだめ! かなり残念な父だけど、まだ必要だから! これからもう一人増えるのに、父無し子では困っちゃう!
「何を騒いでいるの? フィリシアが困っていますよ。何があろうともソフィアはソフィアなのでしょう、大人しく待っていなさい」
おばあちゃんの一声で、お父さんの動きが止まった。
お母さんはそんなお父さんを見る余裕はないのか、声もなく、前を向いたままじっとしている。
「マチルダ、続きをお願いね。私ではガタガタになってしまうわ」
おばあちゃんははさみをマチルダさんに渡すと、今度は爪切りばさみを手に取り、お母さんの正面に回り、その手を取った。
「あらあら。本当にきれいにしていて気持ちが悪いわねえ。こんな手では掃除も料理もできないでしょうに。殿方は本当にしようもないこと」
そう言いながら、パチンッと爪を切った。
室内に、シャキシャキと髪を切る音と、パチンと爪を切る音だけが響く。
……嘘だった。お父さんの咽び泣く重低音も響いていた。
「……お母さま……怒っているの?」
お母さんがポツリとつぶやいた。その瞳からはポロポロと涙がこぼれ落ちていく。
「それはもちろん。怒っていますし、呆れていますよ。私が叩いても私の手首のほうを痛めそうだからやらないだけで、できることなら私の手でルパートさんとやらの頬を殴りつけたいとは思っています」
「……やるなよ。この年で骨折すると治りが遅くなるからな!」
おじいちゃん、そこはおばあちゃんの体が心配なんだって素直に言おうよ。
「やりませんよ。それはパーシヴァルに譲りました。……それでも、娘の支度を整えるのは、母である私の役目ですからこちらは譲りませんけど。──ほら、形だけだけど、少しは働き者に見えるようになってきたわ」
「……わたくし、お母様とおそろいの髪が自慢だったのに」
お母さんは切り落とされていく髪を見つめながら、少しだけ震えている。
わかる、ちょっと怖いよね。冷たいはさみが首筋に近づくたび、心臓がひゅっとなるの。あれはちょっと嫌だったもん。
これからは弟たちの髪を切るときは、もう少し丁寧に切ろうと反省した。
「仕方がないわねえ。あなたは貴族の娘でいることより、ここでの暮らしを捨ててでもルパートさんの妻になりたかったのだもの。それなら、そんな長い髪でいられなくなるのは当然でしょう?」
お母さんは全く気づいていないけど、その髪を丁寧に洗い、傷まないように乾かしていくことがどれだけ大変なことか!
お父さんは楽しそうだけど、毎回一時間以上もお手入れに時間をかけるのは普通じゃないと思うの。
それだけの時間があったら、私はグレースと手分けしてバネッサとエレノアを洗ってふき上げ、自分たちも大急ぎで交代しながら洗い終えて、男の子組に場所を譲っているもの。
「さあ、平民ソフィアの完成かしら」
肩につかないくらい短くなった髪に触れ、お母さんがまた涙ぐんだ。
「お母さん、走ってみて? きっと今までより早く走れるから!」
髪を切った悲しさなんて吹き飛んじゃうくらい、軽くて驚くよ! と経験談を話したのに、お母さんはためいきを吐いた。
「……走るだなんてはしたない」
「あなたは走りなさい、母親でしょう。あんなにも元気な子どもたちをフィリシア一人で面倒みていることを、どうしておかしいと思わないのかしら。あなたのことは娘として愛しているけど、同じくらいに腹立たしくて、そろそろ殴ってしまいそうだわ」
今度はおばあちゃんがため息を吐いた。
「……ふう。できない子になぜできないのかと言葉で責めても無駄ですものね。お前は体で覚えなさい」
「え? お母様?」
「お前は平民のソフィアだろう。だから、まずはここで下女として働きながら覚えろと言っているんだ」
……下女ってなんだ。首をかしげていると、レイさんが教えてくれた。
「下女っていうのは、掃除や洗濯、台所の片づけなんかをする使用人のことだ。床を磨いたり、水を運んだり、そういう仕事が中心かな」
「……それって、私がいつもやっていること?」
「そういうこと。ただし、ここの屋敷は広いから、仕事の量も多いだろうけど」
なるほど。実地で教えてくれるのか。
「マチルダ。この子は妊娠しているそうだから、そこは気をつけてあげて? 見た目はきれいでも、もう若くないものね」
「……え?」
「あなた、三十を越えてからの出産は大変よ? 今から体力もつけないといけないから一石二鳥ね」
「そんな、私は」
「あら、いやだ。もしかして若いつもりだったの? もう、七人も子どもを産んだくせに、どうして都合よく時を止めているのかしら」




