29.母性と矜持
ビクリと体が震えた。
……跪け? そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。
たぶん今、私の顔は青ざめていると思う。これではお父さんのことを笑えない。
「あら。フィリシアとレイくんはそのままでいいわよ? あなたたち二人は、伯爵が直々に招いた大切なお客様ですもの」
……いいの? 本当に? めっちゃくちゃ怖かったんですけど!
涙目になりそうなのを堪えていると、レイさんが背中をポンポンとなでてくれた。ほっとして余計に泣けるからだめなやつ。
「ほらほら! あなたがグズグズしているせいで、フィリシアが泣いちゃいそうじゃない。それとも? ……打ち据えられたいのかしら?」
ほら、怖いー!
すると、おばさんが扇で顔を隠しながら私にウインクをした。
……もしかして、演技ですか?
「夫人! 妻のお腹には子どもがいるんです!」
「……だから? お前の子が、跪くことも許されないほど高貴な身分だとでも?」
演技? これ、本当に演技かなぁ⁉
なんだか演技半分、恨み半分な気がしてきた。だって、ノリノリなんだもの。
……うん。きっと、それくらい恨んでもおかしくないことをお母さんはしたんだ。
それでも、そんなお母さんの子どもである私のことを、おばさんは憎まないでくれた。優しくしてくれた。
「さあ、どうしたの? そんなにもプライドのほうが大事なのかしら。……お腹の中の赤子より、元伯爵令嬢としての矜持を守り抜くの?」
──あ。お母さんのお顔……怖い。
いつも幸せそうに笑っているお母さんが、見たことのない顔をしていた。
少し青ざめながらもしっかりと顔を上げ、おばさんに向ける眼差しは怒りに満ちているように見える。
でも、お母さんが何をそこまで怒っているのか分からない。
確かに、跪けと言われたときは怖かった。
私はやらなくていいと言われたけど、お母さんは許されていなくて。
だけど、そもそもちゃんと家出したときのことを謝ってもいないのに許されるわけがない。
それなのに、どうしてそんな目を向けるの?
ほら。さっきまでは演技だったはずのおばさんの顔から、いたずらっぽい笑みが消えてしまった。
「……そう。よろしくてよ? ご自分のプライドを守り、跪くことを良しとしないのであれば、そのまましっかりと立っていなさい。この扇で打ち据えてあげましょう」
お母さんとおばさんが睨み合う。互いに譲れないものがあるのだと言わんばかりに視線が絡み合っている。
そんなお母さんの姿が信じられなかった。
……跪いたら叩かれない。
そのまま立っていたら叩かれる。
たったこれだけのわかりやすい条件を自分で選べるのに、お母さんは微動だにしないのだ。
……ねえ、どうして? だって、あなたはお母さんでしょう⁉
「……まもってよ……お願い、ちゃんと守って。跪いてでも、赤ちゃんを守ってよ! その子は『愛の結晶』なんだって言っていたじゃない!」
鼻の奥がツンとする。喉が詰まったみたいに苦しい。目が──すごく熱いよ。
「……どうして? 扇で打たれちゃって、ひっくり返ったらどうするの。……お腹の赤ちゃんがびっくりしちゃうよ。……そんなに恥ずかしいの? 私は平気だよ? お膝をつくだけでしょう? たったこれだけのことの、何がそんなに困るの? ねえ、お母さん! 黙ってないで、理由を言ってよ!」
とうとう涙がこぼれ落ちた。ぽろぽろと止まらないけど、そんなことはどうでもよかった。
目の前の人が『お母さん』なのか、ただの『ソフィアさん』になるのかを見届けなくてはいけないから。
私は瞬きもできずに、じっとお母さんを見つめた。
「ねえ? いつまでもそこで座り込んでいるあなた? お名前は何だったかしらねえ」
緊迫した空気の中、おばあちゃんののんびりとした声が……たぶん、お父さんへと掛けられた。
「あ……あの、ルパートと申します」
馬鹿正直に名乗るのだなと、ある意味感心する。
「そうそう、ルパートさんだったわ。では、ルパートさんにお尋ねするわね? 伯爵家の娘を攫ったあげく、こんなにもみっともない生き物として作り上げた責任をどうなさるおつもりかしら?」
「……は? あ、その、ソフィアは昔と変わらず美しいままで」
ふう……っ。
おばあちゃんがとっても大きなため息を吐いた。
「あなた、お耳がついていないの? それとも、お掃除が行き届いていないのかしら」




