Ghost on the moon 後編
24
僕が、何かが起こっているのではと思ったのは、空が暗くなり、東から上った月が大きな顔をし始めたころだった。
部屋がかすかに揺れ、地震が起こったのかと思った。すぐにテレビを付けたものの、いくら待っても地震速報が流れない。
(おかしい。何の揺れだったのかな?それとも勘違い?)
そう考えて、テレビを消したところ、ガラスの割れるような音が外から聞こえた。
「なんだろう?」
僕は口に出して言い、ベッドから降りて窓を開けた。しかし、特に変わったところはない。
「ゆみちゃん、何か…」
幽霊のゆみに様子を見てきてもらおうと振り向くと、彼女の様子が違っていた。
顔を強張らせ、やや下の方を凝視していた。
「何があるの?」
僕の声が聞こえていないのか、返事も反応もない。
ベッドに戻るとゆみの肩に手を置いた。途端に、ゆみは跳ねるように後退った。
「どうしたの?」
『分からない。何か、その、こわい…』
僕はもう一度、そっとゆみに触れた。
ゆみは僕の手を、しがみつくように両手で握りしめた。
ゆみが見ていた方角は、西側だ。そのやや下方向。ガラスの割れるような音も、そちらからだったように感じた。
(四〇九号室だ)
何の根拠もない。だが、僕は確信した。麻奈美の病室で、何かが起こっていると。
再び、建物が揺れた。
またガラスの、それも立て続けに何枚も割れる音。僅かに遅れて、何かが地面に落ちて砕ける音も響いた。窓を開けているので、今回はよく聞こえた。
「いったい何が…」
僕は不安になり、松葉杖を掴むと、戸口に向かおうとした。
ゆみが僕の手を握ったまま、放さない。
『ダメ。行っちゃ』
「でも、気になるんだ。僕は麻奈美を救ったんだろう?なのに、この騒ぎは何?何が起こってるの?本当は、まだ救えていなかったってこと?」
『分からない…』
先ほどから、ゆみは片言しか話せなくなっていた。幽霊は恐怖を感じるものなのだろうか。恐怖のために、言葉が出てこないのだろうか。
よくは分からないが、見るからに、何かにおびえているように見えた。そのゆみの態度こそが、僕の不安をあおった。
僕はゆみを引き寄せ、左手で抱き抱えた。
ゆみも抵抗せず、僕の首に手を回して抱き着いてきた。
右手で松葉杖を突いて右足に負担がかからないように支え、戸口に向かった。
戸口を開けると、正面に、椅子に座った制服姿の警官と目が合った。
警官が僕を咎めようと口を開いた時、横の階段から看護婦が駆け上がってきて、警官の前に倒れ伏した。
「大丈夫ですか?」
警官は僕に目線で警告しつつ、目の前の看護婦を助け起こした。
看護婦は荒い息で、言葉を発することもできないようだった。いつも穿いているサンダルはどこかで脱げ落ちたのだろう。ストッキングが破れ、足の裏が覗いていた。
看護婦は膝の上に体重を乗せて座り込み、大きく肩を動かして呼吸をしていた。引付けでも起こしているかのように響く呼吸を繰り返していた。
しばらくするとその呼吸も落ち着き、声を発した。
「助けてください!」
ほとんど叫び声だった。
「落ち着いて。何があったのですか?」
警官は僕をちらちらと見つつ、看護婦に声をかけた。
「下で…大変なんです!助けてください!」
「何か起こったのですか?」
僕は二人の会話を、部屋の境に立ったまま、聞いていた。何か異様な気配に誘われて、周りに人が集まり始めていた。
「ガラスが割れて…物が飛んで…手の付けようがないんです!お願いします!」
看護婦の物言いは、要領を得ない。それでも警官は事態を察しようと、答えた。
「誰かが暴れているのですか?物を投げて?患者さん?」
看護婦は首を激しく左右に振り、助けてくださいと、お願いしますを繰り返した。
それ以上は聞き出せないものの、看護婦の切羽詰まった様子に、警官は迷いが生じているようだった。
警官にしてみれば、僕の監視が任務で、この場を離れるわけにはいかない。しかし、女性に助けを求められて、助けないわけにもいかない。僕の監視を続ければ、職務はまっとうできても、一市民の助けを無視したとあっては、警察の信用と当の警官の自尊心が落ちるだろう。僕の監視を止めれば、職務放棄と言ったところだろうか。しかし、一市民を助けることができ、警察の信用は高まるだろう。警官本人の正義感も満たされることだろう。
目の前の警官がそのようなことを考えたかどうかは分からないが、難しい顔をしてしばらく悩んでいた。警官の顔は案外若く、僕とそれほど違わなそうだった。その若さが、判断を鈍らせ、苦渋しているのかもしれない。
階段の方から、悲鳴や物が転がるような音が響いてきた。
警官はそれで決心がついたようで、僕を睨みつけ、
「君はそこから出ないように」
と念を押したうえで、立ち上がった。
「どこですか?案内していただけますか?」
警官は座り込んでいる看護婦に手を差し伸べた。
看護婦は震える手で警官の手に掴まり、引き起こされると、傍の階段へ向かった。
警官は見えなくなるまで、再々振り向いて僕を見張っていた。
数人の患者や五階の看護婦が、二人の後を追って野次馬に向かっていた。
看護婦の中に、今日は令子が見当たらない。そう言えば、日が暮れてもまだ一度も顔を見せていなかった。
(まさか、令子さんまで何かに巻き込まれているとか…)
そう考えると、ますますじっとしていられなくなった。
僕は野次馬の最後尾にそっと紛れ、付いて行った。
階下の廊下は人が垣根を作っていた。警官と看護婦がその垣根をかき分けて進んでいた。
僕は階段の踊り場で人々の陰に隠れ、隙間から様子を見ていた。
警官が、人垣の途切れる場所へたどり着く寸前に、部屋の扉が内側から吹き飛び、廊下の窓ガラスを粉々に打ち砕いた。激しい音を響かせながら、廊下の上に落ち、しばらく不規則に動いていた。
人垣が一斉に後退った。悲鳴とともに、後方の人たちが尻餅をついた。
前方にいた人たちも悲鳴を上げ、我先に逃げ出そうと、人垣の中に飛び込んでもがいていた。
扉が落ちたところの、向こう側の廊下にも人垣があり、そちらも同様に、人々が逃げ惑っていた。
警官が恐る恐る、部屋の戸口に立ち、中を覗いた。
何を見たのか、警官の腰が引け、廊下に転がる扉の上に尻餅をついた。
皆が口々に何かを叫んでいる。言葉を発している人もいたのかもしれないが、聞き取ることは不可能だった。肺活量の許す限り、叫び声を上げている人がほとんどだったからだ。
廊下に転がるガラス片が、ゆっくりと宙に舞い上がり、部屋の中に吸い込まれていった。
そんな異常事態を目撃している人は、皆無だっただろう。戸口の目の前にいる警官でさえ、何かを凝視したまま、周りが見えていない様子だった。
幽霊のゆみがさらに強く僕にしがみついた。
先ほどの、宙に舞い上がったガラス片に、光の糸のようなものが付いて、巻き上がったように見えた。おそらく、霊的な何かだ。ゆみはそれを感じ取り、おびえているに違いない。
大勢の人が、我先に僕の横を抜け、階段を駆け上って行った。
廊下はすっかりひと気が失せていた。僕の監視をしていた警官のみ、問題の戸口の前に座り込んでいた。
僕は意を決し、ゆっくりと廊下を進んだ。
扉の位置からして、やはり四〇九号室だ。
僕は警官の前に割り込み、部屋を覗き込んだ。
部屋の中は、まるで異次元だった。窓ガラスは全て無くなり、変形したサッシが残っていた。カーテンも散り散りに破れ、ベッドも倒れ、色々なものが床に散乱していた。まるで廃墟か、何かが爆発した後のようだった。
それだけならまだよかったのだ。何かの爆発事故で片付いたことだろう。その景色を一変させ、異様な雰囲気を醸し出しているものがあった。
それは、髪を風にたなびかせ、薄っすらと光に包まれ、空中にあった。風に包まれて浮かんでいるさまは、人には見えなかった。しかし、間違いなく、麻奈美その人だ。
麻奈美は焦点の定まらない目をしていた。自分の意思で動いているのではない。そもそも動いてすらおらず、風の中心に浮いているだけだった。人が宙に浮くなど、有り得ない現象だ。
漫画の世界ならともかく、このような超常現象が、現実に有り得るとは思えなかった。幽霊が見えるようになった僕自身でも、目を疑った。
後ろにいる警官に、この景色がどのように見えているのだろう。異様なものには違いない。人が宙に浮き、不自然な風が吹き、その風の中を、ガラス片が舞っていた。ただ、物が飛び交うような強い風が吹いているわけではない。物理法則が狂ってしまった世界が、目の前にあるのだ。
幽霊のゆみは、僕にしがみついたまま、振り向いて様子を見ると、小さな悲鳴を上げた。
僕は、意外と冷静だった。ゆみがしがみついていてくれたおかげかもしれない。彼女の温もりや重さや柔らかさを感じていると、心が落ち着いた。現実離れした光景を見ても、驚いただけで、恐怖心を抱くことはなかった。
麻奈美をよくよく観察すると、お腹の辺りに何かがいるのが分かった。どうやらそれも一つや二つではなさそうだ。多くの物がごちゃごちゃに混ざり合った塊だ。群霊とでも言うのだろうか。そこから幾筋の光の糸のようなものが出て、空中で幾つものガラス片を振り回していた。
一つのガラス片が壁に当たった。ただのガラス片のはずなのに、壁に穴が開いた。
一つのガラス片が麻奈美の足をかすめた。壁のように破壊されることはなかったものの、鋭利な刃物で切り裂いたように服も皮膚も裂き、赤い血が舞った。
見るからにコントロールできていない。群霊は思い思いに動き、統制がとれていないのかもしれない。
『やめよう?』
ゆみが僕の耳元で、弱々しく言った。
いつの間にか、僕は部屋の中へ一歩踏み込んでいた。
「これ、幽霊の仕業だよね。なら僕がなんとかしなきゃ」
『ヒロくんがしなくてもいいんだよ?』
僕は返事の代わりに、ゆみを部屋の外に下ろした。ゆみに笑ってみせ、振り返った。
25
麻奈美のお腹の辺りをじっくりと観察する。
色々なものが重なって見える。小さな塊が圧倒的に多い。丸い頭。頭より一回り大きい程度の胴体。飾りのような手足。赤子だ。ものすごい数がそこにいた。それぞれの赤子が体のどこかで別の赤子と融合していた。中には女の人の霊も混ざって団子になっていた。
その中心部分に、光る糸で麻奈美のへその緒とつながっている赤子がいた。
『そう。えっと、マナミとカナミを守らなければ、って』
幽霊のゆみが少し前に言っていた言葉を思い出した。
麻奈美とつながっている赤子は、カナミというのではないだろうか。とすると、麻奈美も双子だったと言うことだ。マとカの一文字違いだ。ならば、先ほど退治した女性は、もしかしたら麻奈美たちの母親だったのかもしれない。
ゆみは、操られていた、自分も影響を受けそうと言っていた。母親の霊は麻奈美を守ろうとしていた一方で、群霊に影響され、操られて殺そうとしていたのではないか。
事実だとすれば、なんと恐ろしい事だろう。僕は麻奈美を守っていた母親の霊を退治したことになる。そして麻奈美はその母親に殺されそうになっていたことになる。
さらに恐ろしい事に、北村宗信は自分の娘すら間引いて殺したと言う事実だ。
皆川は言っていた。母子ともに亡くなった例もある、と。カナミという麻奈美の片割れは殺され、母親はショックで死んだと言うことだ。
ただ、一つ気になることがある。北村宗信に胸を突かれた時、母親らしい人物もいたことだ。その母親が麻奈美の生みの親なら、今考えていたことは事実無根ということだ。しかし、後妻なら、有り得ることになる。
(いや、今はそんなこと考えている場合じゃない)
僕は頭を振って雑念を払い、ポケットの膨らみを握りしめた。そこには皆川が忘れて行ったジッポライターがある。この炎を使って、麻奈美に憑りついた霊を退治するのだ。
問題は、麻奈美に憑りついた状態のまま炎で浄化しようとして、麻奈美自身に何の影響もないのかどうかだ。麻奈美まで燃えてしまっては元も子もない。
安全策を取って、どうにかあの霊の塊を外に出さなければならない。とすると、とにかく近づいて、霊に触れてみるしかない。
不意に、ガラス片が松葉杖にぶつかった。弾みで杖は後ろへ飛ばされ、警官の脇の壁に激突した。
だが、怯んでいる訳にもいかない。僕は右足にできるだけ体重がかからないようにして、少しずつ前進した。
風が強くなる。
ガラス片がすぐ近くを通り過ぎた。これに当たると、僕はどうなるのだろうか。吹き飛ばされて粉々になるのだろうか。
要らないことを考えてしまったと、後悔した。だがもう遅い。考えてしまったために恐怖し、足が震えた。歩むペースがますます遅くなった。体中から汗も噴出していた。
「麻奈美」
呼びかけてみても、反応がない。まだ意識混濁が続いているのか、霊に操られているのか、よく分からない。
「麻奈美!今助けるからね!」
僕は自分にも言い聞かせるように叫び、近づいた。一度立ち止まってしまえば、もう前には進めそうになかった。崩れ落ち、立ち上がることができなくなるだろう。だから、まだ膝をつくことも、立ち止まることもできない。
渦巻く風に押し戻されそうになる。
押し戻されれば、やはり心が折れて、戻ってこられなくなる。
(僕は麻奈美を救うんだ!)
呪文のように、頭の中で繰り返した。さもなければ、恐怖に思考が支配され、引き返していただろう。あるいは足の力が抜け、その場に崩れ落ちて、身動きできなくなっていただろう。
ガラス片が僕の頬を切り裂いた。
麻奈美の体も切り傷だらけになっていた。僕の体も同様だろうか。神経がマヒしているのか、痛みはなかった。痛みを感じないことはありがたかった。今痛みを感じれば、やはり動けなくなっていただろう。
そっと手を伸ばし、麻奈美のお腹に触れた。
『殺せ!』
『恨みを!』
『殺せ!』
『道連れ!』
『殺せ!』
幾つもの言葉が響くと同時に、けたたましく赤子の泣き声が耳を塞いだ。大音響の泣き声の中に、『殺せ!』と繰り返していた。
自分を殺せ、と言うのならいいが、明らかに、麻奈美を殺せ、ということだ。僕にもその意思に従い、行動するように強要しているのかもしれない。だからここまで近づけたのだ。
僕に実行犯になれと言うのか。
「断る!」
僕は言葉に出して否定した。
ガラス片が一斉に僕の体中を切り裂いた。
まだ立っていられる。
死と隣り合わせだと実感する度に、足が震えて、座り込んでしまいたかった。全てを投げ出してしまえば、楽になる。怖い思いを、痛いことを、これ以上しなくてもいい。
(まだだ!)
自分自身も鼓舞しなければならなかった。耳は大音響の泣き声。体中はガラス片による切り傷。これで心も折れれば、もう為す術はない。
(麻奈美を助けるんだ!)
僕は麻奈美に触れた手に力を込め、霊を引きずり出そうと試みた。
複数の霊体でできた、大きく歪な球体が、僅かに引きずり出された。だが、そこでガラス片が僕の手首を襲い、手が滑ってしまった。再び掴もうとしてもうまくいかず、遠ざかった。
麻奈美の姿が、遠く頭上にあった。
いや、そうではない。麻奈美は全く移動していない。僕自身が、床にへたり込んでしまっていたのだ。
自分でも、何時座り込んだのか分からない。そして、再び立ち上がろうとしても、足が動いてくれなかった。手も力が入らず、何もできなかった。
同時に、全身の切り傷が痛みを主張し始めた。血の気が失せたかのように、手足の感覚を失った。自分の体とは思えないほどに、冷えて行った。そしてますます、手足が動かなくなっていく。
僕は失敗したのだ。意思に逆らって、体が先に敗北を認めた。だから動けないのだ。僕は麻奈美を助けることができない。昔のままの無力な存在だった。偶然にも幽霊を撃退できたばかりに、何かできるつもりになっていた。だが、それは勘違いも甚だしかったのだ。あれは運がよかったに過ぎない。
麻奈美が無気力な目で僕を見下ろしていた。
「あんたごときでは何もできないのよ」
そう言われているような気がする。
僕は彼女の顔を直視することができなかった。顔を伏せ、床を見た。
僕は何て無力なのだろう。仮にも付き合った女性を守ることもできないのか。手を伸ばせば、まだ届きそうな位置にいる麻奈美。その麻奈美へ手を差し伸べることすら、僕の体は拒否していた。全身の力が失われ、切り傷に苛まされた。
もう彼女と顔を合わせることはできない。復縁を求めていたのではないか。いや、もうそれどころではなかった。僕ではもう彼女を救えない。立ち上がることすらできないのだから。
僕は麻奈美を見捨ててしまったと、一生後悔するだろう。その負い目を背負って生きて行くしかない。僕ではあの霊たちに対抗すらできないのだから。もう何もできやしない。
いつの間にか、頬を伝う液体があった。風が当たり、目頭から一筋、濡れているのが分かった。
僕はやはりヒーローなどではなかった。助けたい相手を守れず、ただ涙するだけのちっぽけな存在だ。霊を退治して彼女を助けようなどと、よくも大それたことを考えていたものだ。
僕は無様にも、麻奈美の足元にひれ伏し、彼女の死を見届けるしかないのだ。そして、もう二度と霊と関わらないことを誓うのだろう。僕のような凡庸な人間が、立ち入っていい世界ではないのだ。
敗北を認め、僕は全てを諦めよう。それが僕に相応しい世界だ。
『ヒロくん!しっかりして!』
女の子の声だ。僕の傍に居続け、いつも励ましてくれた、女の子の声だ。彼女が居たからこそ、今日の僕がある。僕の希望であり、導き手であり、友人であり、愛すべき幽霊だ。
そうだ。全てを諦めると言うことは、ゆみも諦めると言うことだ。それは認められない。ゆみはもう僕の一部だ。自分の半身を切り落とすことなど、できようはずもない。
僕は顔を上げた。
(まだ動くじゃないか!)
自分でも、体が動かせたことに驚いた。同時に、何かがこみ上げてくる。その何かが体中に少しずつ広まっていった。
指先に感覚がある。血が廻り、熱を帯びて行くのが分かった。
僕の隣に幽霊のゆみが来ていた。僕を心配そうに見下ろしつつ、両手は麻奈美に向けられていた。
『さあ立って!たすけるんでしょう!あたしも手伝うから!』
怖くて隠れていたはずのゆみが、僕を鼓舞する。呼応するかのように、足の感覚が戻ってきた。
ゆみのためにも、僕は立ち上がらなければならない。僕を信じ、励ますゆみに、答えなければならない。
片膝をついて体を起こし、右足は横へ伸ばした。両手を床について支え、左足を起こした。
(思うように動く!まだできる!)
左足に力を込めて、勢いよく立ち上がった。
足が震えている。長くはもたないかもしれない。だが、隣にはゆみがいる。ならば、怖いものはない。ゆみに勇気づけられた僕ならば、なんだってできる。
隣を見ると、ゆみが苦しそうにしながらも、笑ってみせていた。そのゆみの両手が、群霊の球体に触れ、溶け込んでいた。
気付くと、周りの風が弱まっていた。ガラス片を振り回す光の糸も、勢いを失っていた。
『あたしがおさえている間に…』
ゆみが呻くように言った。
僕は頷くと、再び麻奈美のお腹に触れ、霊体を引きずり出した。ゆみが相手の心を操り、押さえていてくれるおかげだろう。今度はあっさりと引きずり出すことができた。
球体から光の帯が出ており、麻奈美のへその辺りに繋がっていた。
僕は群霊の球体を持って、麻奈美から少し離れた。ゆみもついてくる。
よく見ると、ゆみの腕はほぼ球体に取り込まれ、体も触れようとしているところだった。
(ゆみちゃん、もう大丈夫!離れて!)
『ダメなの』
僕はゆみが離れるのを待って、群霊に火をつけるつもりで、ポケットからジッポライターを取り出していた。ところが、ゆみの返事は僕の想定外のことだった。
(どういうこと?)
『あたしも、もうとりこまれちゃったの…』
僕はジッポライターを握りしめた手でゆみを押してみた。ところがびくともしない。それどころか、徐々に球体に近づいていた。
(そんな…)
『ごめんね』
(何とかできないの?)
『ごめんね』
ゆみは謝るばかりだった。
『早くしないと、おさえがきかなくなるよ』
(だめだ!今火をつけたら、ゆみちゃんも一緒に…)
『いいの』
(嫌だ!)
『あたしはユウレイだもの。だいじょうぶ』
ゆみは根拠のないことを言った。それは僕に行動を促すためだったのだろう。しかし、僕は行動できなかった。
(嫌だ!ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか!)
『ごめんね』
ゆみは、無理して笑顔を作ろうとしていた。だがうまくいかず、苦痛に歪んだ顔だった。
ゆみを助けたい。僕が群霊から手を離し、ゆみを両手で引っ張れば、あるいは引き離せるかもしれない。しかし、そうすれば、群霊は麻奈美の中に戻り、振出しに戻るだろう。
僕の手足は震えている。おそらく次は、動くことも叶わない。
つまり、ゆみを助けるか、麻奈美を助けるかの二者択一しかないのだ。
『ううん。違うの』
ゆみはいつの間にか、僕の心の奥底まで覗いていたようだ。
『あたしはもう、この子たちからはなれることができないの。赤ちゃんの力は強すぎて、ヒロくんでもムリ。だから、おねがい』
ゆみの頬に、涙が光った。顔の半分が、球体に取り込まれていた。
(そんな…)
『いそ…いで…。あ…しも…』
ゆみの言葉すら、途切れ途切れになってきた。代わりに、風が徐々に増してきて、光の糸がガラス片を振り回し始めていた。
ガラス片が勢いを増し、僕に狙いを定めているようだった。
「くそっ!」
僕は声に出して、悪態をついた。しかし、猶予が無いことも分かっている。
ゆみから手を離し、ジッポライターの蓋を開けた。
もう一度ゆみを見た。
片目だけで、気丈にも笑ってみせていた。
僕は涙で視界がぼやける中、皆川がやっていたように片手で回転ドラムを回し、火を灯した。ゆっくりとその炎を群霊の球体に押し当てた。
ガスにでも引火するように、群霊が炎に包まれた。
僕は片足で麻奈美の方に飛び、群霊から伸びる光の帯を掴んだ。ここに火が燃え移って、麻奈美に達すると、彼女に何らかの被害があるかもしれない。僕は光の帯を握り締め、そこで火を止める覚悟だった。
炎の中から、赤子たちの泣き声が響いた。その中に紛れて、『殺せ!』と相変わらず聞こえた。そして、微かに、『ありがとう』とも聞こえた。
群霊の球体が、風船がしぼむように小さくなっていき、炎とともに消え去った。幸いにも光の帯への延焼はなかった。そして、群霊が消えると同時に光の帯も消えた。
辺りの風も止まり、麻奈美を包んでいた光も消えた。宙を舞っていたガラス片と共に、麻奈美も床の上に落下した。
床の上に倒れ伏した麻奈美の肩が、呼吸に合わせて微かに動いているようだった。
(麻奈美は生きている!)
そう思った途端、僕の目の前に白い物が迫った。それが床だと分かったとしても、僕には何もできなかった。
26
目の前に、光の灯った蛍光灯があった。僕はいつの間にか、ベッドの上に寝ていた。ベッドは一つしかなく、足元にテレビがあった。窓に雨粒が当たっていた。久しぶりの雨だ。
僕の病室だ。横に自分の荷物もあった。
僕はなぜか病衣を羽織っていた。その下は、ミイラにでもなったかのように、包帯だらけだ。手も腕も胸も足も。首にも包帯があるようだ。顔もぐるぐる巻きなら、完璧なミイラだ。
「我ながら、すごいね、これ。ゆみちゃん、どう?」
だが、返事はなかった。
胸が締め付けられる。
辺りを見渡しても、無邪気な笑顔を浮かべた少女はいなかった。
僕は目からあふれ出るものを、押さえることができなかった。
「もうゆみちゃんはいないんだ…」
口に出してしまうと、なお一層苦しくなった。
ゆみは僕の支えだった。彼女がいなくなると、僕はどうやって生きて行けばいいのだろう。
僕が麻奈美を救おうと、無謀なことをしなければ、ゆみがいなくなることもなかった。
麻奈美を助けたという達成感は微塵もなかった。ゆみを失ったと言う後悔しかない。
「あんなこと、するんじゃなかった…」
ぼやいてみても、もうどうにもならない。
僕はただ、後悔に泣き伏せるしかなかった。
雨のために外が薄暗く、今の時間がまるで分らなかった。外に出て確かめようと言う気力もなく、涙が涸れた後は、呆然と過ごしていた。
金属の台車を押した看護婦が入ってきた。台車の上には包帯やハサミなどが載っている。
看護婦は僕が起きていることに気づくと、枕もとに駆け寄ってナースコールのボタンを押した。
「気が付いたのね。よかった」
そう声をかけてくれた。
「どうされました?」
天井のスピーカーから声が響いた。
「三上君が目を覚ましました」
看護婦が答えると、
「分かりました」
と返ってきて、音が途切れた。
「先生が来ますからね」
看護婦はそういうと、台車を脇に寄せた。
この看護婦を、僕は見たことがあっただろうか?令子ばかりと関わっていたために、令子の同僚のことはほとんど知らない。名札には渡辺とあった。
看護婦は僕の状態を確かめるために、幾つか質問してきた。それに受け答えしている間に分かったことは、麻奈美の一件から三日が経過していたことだった。
僕は全身に切り傷を負い、意識を失っていたらしい。麻奈美の一件は、霊の見えない人には説明のしようもないことで、その辺りのことを聞かれたらどうしようかと思っていたら、その心配は無用だった。
僕の監視役の警官が一部始終を目撃しており、彼の説明するところが話として広まっていたようだ。
警官曰く、原因不明の爆発が起こり、僕が麻奈美を助けに入ったところ、再び爆発が起こった、と言うことになっていた。麻奈美が宙に浮いていたなどと不可解な現象は、報告されていないようだった。
なぜそこに僕がいたのかなど、細かい部分を追及されなかったので、助かった。
扉が開き、呆れ顔の主治医が入ってきた。
「前にも言ったかもしれんが、病院内で怪我を増やす患者は初めてだ」
そう言い置いて、僕の目を見た。ペンライトの光を当てて動きを観察し、幾つか診察をした。
「僕の監視、まだ続いているんですか?」
診察を受けながら、聞いてみた。あの警官はどうなったのだろう。
「君の後見人の働きで、疑いは晴れたよ。もういない」
「そうですか」
主治医は看護婦に残りの処置を指示して立ち上がった。
「切り傷はそれほど深くないので、数日で塞がるでしょう。足のリハビリは再開してください。それと、とにかく、もう問題を起こさないでよ?」
「は、はい」
僕の返事を聞き終えると、主治医は立ち去った。
看護婦も包帯を交換し終えると、台車を押して立ち去ろうとした。
「あの」
僕は一つ聞きたいことがあり、呼び止めた。
「高坂さんは?」
「彼女なら、三日前に辞めたわよ」
「え」
看護婦はそれで事は足りたとばかり、立ち去った。
辞めた、と言うことは、今日はもう、待っても会いに来てくれないということだ。では誰に、僕の罪を懺悔し、慰めてもらえばいいのだろう。その相手は、ゆみのことを知っている人物ではければならない。そうでなければ、ただの妄想話にしか聞こえないからだ。
賢吾や皆川では、慰めにならない気がする。やはりこういう時は、包容力のある女性が一番だ。
『ばっかじゃないの』
少女の蔑む声が聞こえたような気がした。
辺りを見渡しても、あの継ぎ接ぎだらけの服を着た少女はいない。
再び、目頭が熱くなってきた。散々泣いて、涸れたものと思っていたのに、いったいどこから湧いてくるのか。
外の雨同様、僕の涙は降り続けた。いつ止むとも知れず、しとしとと、あふれ出て行った。何時までも、何時までも降り続いていた。
「あら、泣き虫君」
女性の声が聞こえ、顔を上げると、そこに令子がいた。いつもと違い、白いブラウスにベージュのパンツスタイルだ。僕が会いたがっていたから、誰かがさし向けてくれたのだろうか。
僕は飛び起きて、令子の胸に飛び込みたい衝動にかられた。実際、起き上がろうと動作した時、賢吾や皆川が入ってくるのが見え、慌ててベッドに座り直したのだった。
二人の後ろに、高橋刑事もいた。そしてもう一人、若い男もいた。顔を見たことがあるように思っていたら、僕の監視をしていたあの警官だった。
「気が付いたと連絡をもらってね」
賢吾が代表して言った。
「どうしてこんなたくさん集まって?」
僕は素朴な疑問を呈した。
「おいおい。少年が意味不明な事件を起こすからだろうが。まあそれと、経過報告と、だな」
皆川が椅子を持ち出して、何時ものように窓際に座りながら言った。
「どこから話していきましょうか?」
高橋刑事が言った。
「まずは、皆が聞きたがっている、北村麻奈美の病室の爆発事故について、だな」
皆川が代表して言った。
「爆発事故?」
僕はオウム返しに聞いた。
「そこの若いの曰く」
皆川が、高橋刑事の後ろに控える、自分と対して年齢の変わらない人物を指さして言った。
「北村麻奈美の病室で爆発事故が起こり、救助を乞われて駆け付けたところ、再び爆発が起こって少年が巻き込まれた、と言うことになっている件について」
「その件で、彼はやむなく監視対象の三上君を連れて現場に行った、と言うことになっております。監視対象を連れだしたことに対して問題を問われ、彼は目下、謹慎中の身分でしてね」
「謹慎中とはいえ、あのような不可解な事故、どうなっているのか、本官も知る権利があると思います」
若い声が響いた。
「それで私の一存で連れ出してまいった次第でして」
高橋刑事が、何時ものように柔らかい物腰で言った。
令子がベッドに上がり、そっと僕の肩に触れた。辺りを見渡しているところを見ると、ゆみを探しているらしい。
賢吾、高橋刑事、そして若い私服の警官は僕の足元側に並んで立っている。
僕は頭をかいて、ゆっくりと話し出した。また、涙があふれるかもしれない。用心して語らねば。
事の顛末を、霊のことも含めて語った。幽霊を見ていない高橋刑事と若い警官は怪訝な顔をしながらも、聞き入っていた。
ゆみを知っている令子は、僕の肩に顔をうずめ、泣いていた。僕ももらい泣きしてしまいそうだ。
語り終えた時、僕もやはり、泣いていた。この涙は、一生涸れることが無いのだろう。
「幽霊と言うものが現実にいるのなら、確かにあの不可解なことは納得できますが…」
若い警官は、現場を見ていたにもかかわらず、僕の説明を信じ切れてはいなかったようだ。
「しかし、報告はしませんでしたが、北村麻奈美の身体が宙に浮いていたのは事実なのです」
その言葉に、高橋刑事はゆっくりと頷いた。
「少年は彼に借りができたな」
「え?」
「彼が証言してくれたおかげで、少年は罪に問われずに済んでいる。でなければ、今頃あの北村宗信に何をされていたことか」
皆川の言葉に、過去のいざこざが重なった。北村宗信は僕の胸を突き、約一カ月に及ぶ怪我を負わせた。更に、娘に近づけば殺すとまで言い放った。
北村宗信にしてみれば、今回の件も僕のせいと言うことになりえたのだ。いや、実際に麻奈美の父親はそう思い、行動しているのかもしれない。この後、何が待ち構えているのかと思うと、恐ろしいものがあった。
「ああ、ついでに言っておくと、少年はもうあの父親から危害を加えられることはないぜ。やっこさん、任意同行から逃げて失踪中だ」
「家宅捜査の時に出た不審なデータの確認のため、だったのですけどね」
皆川の言葉を、高橋刑事が引き継いだ。
僕が眠っている間に色々なことがあったようだ。
まず、北村産婦人科医院は警察の家宅捜査が入った。新生児の扱いについて匿名の通報があった、と言うことで行われた。その調査で、医薬品の出納に差異があり、任意同行と相成った。ところが当の北村宗信はその寸でのところで姿を消してしまったのだ。
また、警察が、北村宗信の別荘の一つで遠藤武が佐々木宏美を監禁している現場を押さえ、身柄を確保した。
佐々木宏美の証言で、僕の殺人未遂については無実が証明された。
遠藤武の証言で、遠藤園子、田中朝子外科婦長の策謀が明らかになった。
更に、尾永病院内での窃盗事件は、ロッカー内から遠藤園子の指紋が検出され、逆に令子の指紋は出なかった。ために、令子の疑惑は晴れた。
そして、田中朝子外科婦長の病院内での横暴人事の一端が発覚し、現在精査中と言う。
皆川の説明を聞き、僕は驚いた。たった三日でどこまで話が進むのやら。しかし、これで令子の汚名は近い将来、返上されるだろう。僕は何もできなかったが、それでも喜ばしい事だった。
北村宗信や遠藤武については、高橋刑事が尽力してくれたようだ。そして遠藤武が女性を誘拐し、北村宗信の別荘に監禁したものだから、北村宗信も事件の当事者とされ、現在は指名手配をかけて北村宗信を追っていると言う。
「さすがに警察から追われながら、少年に危害を加えるなんて芸当、できないだろうよ」
皆川はそう言って僕の身の安全を保障した。
「すごいですね。たった三日で、諸々の事件全てに解決の糸目が見えてくるなんて」
「俺のここがいいのさ」
皆川は不敵にも、自分の頭を指さしてみせた。
「たまたま運がよかったんだ」
賢吾は呆れたように言い、
「それに、高橋刑事のような優秀な方の援助が得られたことも大きい」
と言って刑事に頭を下げた。
「いえいえ、これも職務ですから」
高橋刑事はそう言ってはにかんだ。
「えっと、色々とありがとうございます」
僕も頭を下げておいた。こういうことはその場で言わなければ、言う機会を失ってしまう。ゆみに対して言えていない言葉があるように。
「そちらの方も、僕のせいでご迷惑をかけました」
ゆみのことを思い出し、胸が熱くなる。言葉が出難くなる。何とか詫びの言葉を絞り出したが、声が震えていた。
「いえ、構いません。これも警官としての職務の一環です」
若い警官は、今の謹慎中も含めて職務だと言い放ち、僕の気持ちを和らげようとしてくれたのだろう。
「あー名前なんと言いましたかね?」
賢吾が警官に尋ねた。
「ああ、これは申し遅れました。村上正樹と申します」
「村上さんのおかげで彼は罪に問われずに済みました。感謝します」
賢吾は僕の代わりに頭を下げた。
「そうだぞ。少年は彼に大きな借りがある。立派な社会人になって、借りを返さないとな」
「借りだなんて大げさな」
「いやいや、どういう縁があるか分からないものさ。少年も心しておけ。そしてその機会があったなら、必ず恩に報いることだ」
「は、はい」
僕みたいな小市民に、そんな機会があるとは思えないが、もしもその機会に恵まれたら、恩を返さなければならない。それは、ここにいる全員に対しても、だ。
賢吾は僕のために尽力してくれている。令子は僕を立ち直らせてくれた。皆川は僕の無実を証明してくれた。高橋刑事や村上と名乗ったこの警官もだ。彼らがいなければ、僕は殺人未遂で捕まっていたか、麻奈美の父親に殺されたかもしれない。
そして忘れてはならないのが、幽霊のゆみだ。多大な恩がある。僕の傍にいて、僕を励ましてくれた。僕を勇気づけてくれた。僕を助けてくれた。僕を信じてくれた。
もう存在しないゆみに対して、あまりにも大きな恩がある。こんなもの、どうやって返せばいいのだろうか。せめて、彼女を失うことが無ければ、いつの日か、その恩に報いることができたかもしれないのに。
大人たちは事件のことについて話し合っていたが、僕はほとんど聞いていなかった。ゆみのことが頭から離れない。
こんな感情と、僕はどうやって付き合って行けばいいのか、見当もつかなかった。
ただただ、胸が苦しくなり、涙が浮かぶだけだ。
27
数日後、唐突に、小学生のお見舞いがやってきた。屋上で知り合った可香谷姫子だ。
全身の包帯の下が痒くなり、悶えているところにやって来て、開口一番、
「ミノムシがいる」
などと言い放った。
いったい誰かと頭を起こしてみれば、気味悪いものを見たと顔を歪めた姫子がいたのだ。
「や、やあ」
姫子は返事の代わりに天井を仰いでみせた。
「見舞いに来てくれたんだ?」
「ええ、まあ、そうなるわね」
姫子はよく、大人びた口調になる。この時もどこか、子供らしからぬ口調だった。
僕の顔を正面から見つめ、
「よくやったわ」
とだけ言った。
一瞬、何のことだろうと思ったものの、姫子の台詞とゆみの笑顔が重なり、とめどなく涙があふれ出した。一度出始めた液体は、どこに栓があるのかも分からない。いつまでもあふれ続け、止める術がなかった。
姫子はそれだけを言いに来たのか、踵を返して立ち去りかけた。立ち止まり、振り向くと、
「また何時か、何処かで出会えるわ」
と意味深に言い放ち、去っていった。
僕は泣いていることも忘れ、追いかけてどういうことか尋ねようと思った。ところが、入れ替わりに皆川がやって来て、追いかけることができなかった。
「おやおや、女の子に泣かされたのかい?」
皆川はそう言って笑った。
僕は泣きじゃくっていて、何も言い返せなかった。浮いていた腰もベッドに落ち、根が生えてしまった。
皆川は言葉に困り、頭をかいていた。おもむろに、銀色の小さなものを僕に投げてよこした。
ベッドの上に落ちたそれは、ジッポライターらしかった。涙でぼやけているので、自信はないものの、それ以外には見えない。
「幽霊退治に使えるんだろう?そいつは俺からの差し入れだ。使ってくれ」
皆川はそう言って、何時ものように椅子を窓際に置いて座った。
今日も天気があまりよくないようで、どんよりと曇った空が見える。
「梅雨にはまだ早いな」
皆川が何とはなしに呟いていた。彼は僕が泣き止み、落ち着くのを待っているのかもしれない。そのまましばらく空を眺めていた。
僕は落ち着いてくると、病衣の袖で涙をぬぐった。
「もう、大丈夫です」
「そか」
皆川は短く答えると、じっと僕の顔を見つめた。
「北村佳奈美」
皆川は僕が幽霊の話として挙げた不確定な名前を一言告げた。そして、ゆっくりと語った。
「彼女は戸籍もないが、実在した。お前の予想通り、北村麻奈美の双子の片割れだ。生まれてすぐに、父親の宗信の手で処分された不幸な新生児だ。北村麻奈美の母と祖母で名前は決めてあったそうだ。だが、母は目の前で旦那に娘を殺され、そのことを書き記して自殺した。祖母がそのメモをまだ持っていた。
そのメモはコピーさせてもらって、警察と賢吾のもとにある。重要な証拠の一つになるだろうさ。
そうそう、言っておくと、お前が前に、北村宗信と一緒にいるところを見た母親は、その後再婚した女性だ。その女性との間に子はない。できなかったようだな」
「亡くなった母親の写真て、有りますか?」
僕の予想が見事に当たっていた。興味がわき、顔を見てみたくなったのだ。
「もちろんある」
皆川はそう言って一枚の黄ばんだ写真を内ポケットから出した。
そこには麻奈美によく似た切れ長の目をした美しい女性が、笑顔で佇んでいた。髪は長く、腰の辺りまである。表情はまるで違うが、麻奈美に憑りついていた女の人の霊に間違いない。
「やっぱり」
僕は一言呟いていた。
「そうか。しかし、母親がなぜ娘に憑りついて殺そうとしたのか…」
「たぶん、最初は守っていたんだと思います。でも他の赤ちゃんたちの幽霊に支配されて行って…」
「なるほど。だが、なぜ北村麻奈美だったんだ?新生児を殺めたのは北村宗信だ。呪い殺されるとしたら、宗信だろう?」
「僕もそう思います。でも実際は違った。たぶん、佳奈美と麻奈美のつながりのせいだと思う」
「双子のつながりか」
「たぶん。で、佳奈美に引き付けられるように他の霊が集まって、肥大化して、暴走していったんだと思う」
「なるほど」
皆川は俯いてしばらく考え込んでいた。
「確かに筋は通りそうだ。幽霊がらみとなると、お門違いでな…参考になった」
顔を上げるとそう言って立ち上がった。
「北村産婦人科医院は、今話題だぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。最近テレビ見ていないのか。連日報じられているのに」
「うん。最近あまり見る気がしなくて」
「そうか」
皆川は同情するように僕を見つめた。
「まあ、時間が解決するさ。それと、今後、不可解なことに当たったら、弘樹をアルバイトに雇いに来るからな」
この時初めて、皆川は僕を、少年以外の呼び方をした。彼はそれを意識したのか無意識なのかは分からない。しかし、呼ばれて少し心が晴れた気がした。彼が僕を認めてくれた気がしたのだ。
「僕でよければ」
そう言って、ジッポライターを拾い上げた。
「そう言えば、前に忘れていった…」
「ああ、あのジッポは遺留品として警察にある。気にすんな。そんなに良い物でもない」
皆川は途中で察し、割り込むように言った。そしてズボンのポケットから、もう一つジッポライターを出してみせた。
28
僕は数日後に全身の包帯から解放され、無事、退院できた。とはいえ、それからしばらくはまだ病院通いだった。右足のリハビリが続いたのだ。
松葉杖はもう必要なくなった。なので学校に復帰し、放課後に病院という生活になった。
次第に雨の日が増え、僕はまた色々なことを忘れそうになっていた。いや、また忘れようとしていたのかもしれない。
たまたま、ある晴れた夜、満月を見たことで、涙が自然とあふれ出し、忘れることはできないと悟った。
月を見ると思いだす。幽霊のゆみのあの笑顔。一生忘れられないだろう。いや、忘れてはいけないのだ。僕が心から思う相手なのだから。
僕は再び日常に戻って行く。でも今回の出来事は、僕を変えた。それは間違いない。良い方向で変われたのだろうか。それとも間違った方向に進むのだろうか。この時の僕には判断が付かない。
そして、二十年経った今でも、判断は付いていない。しかし、今の仕事につくきっかけになっている。間違いなく、人生の大きな転機だったのだ。
二十年経った今でも、僕はゆみのことを忘れていない。今度はしっかりと記憶した。彼女に感謝して生き続けてきたのだ。さすがにもう思い出しても涙は出まいと思っていたが、これを書き記していて、不覚にも泣いてしまった。やはり僕にとってゆみは、大きな存在だったのだ。
ちなみに、高坂令子は看護婦には復帰しなかった。木村賢吾の助力で名誉を回復し、不払い分の賃金と慰謝料を病院から貰った。病院側は表ざたにして欲しくなかったのだろう。かなりの金額をせしめてやったと、賢吾が語っていた。
令子はその後、どういうわけか、皆川の事務所に入り浸り、これもどういうわけか、数年後、この二人が結婚していた。なので、僕の淡い恋は叶わず仕舞いだった。二人は娘を一人儲け、相変わらず探偵業をやっている。
遠藤武は、彼は僕と全く接点がなかったが、ニュースになっていたので、顔だけは見た。彼は誘拐事件や暴力団員としての数々の悪行が表に出て、実刑判決を受けた。何年の刑だったかは覚えていない。
遠藤園子はその後捕まったものの、意味不明なことを口走り続けたそうで、精神病院に強制入院させられたらしい。それ以降のことは知らない。
田中婦長は、遠藤園子の窃盗ほう助で捕まり、佐々木宏美の誘拐事件の指示者としても有罪となり、実刑を受けた。裏では、尾永病院での横暴が広まり、もう二度と看護婦はできない、誰も雇わないだろう。
北村産婦人科医院は、自然消滅するように消えた。医院長が姿を消した途端、関係者が色々と暴露したものだから、医院そのものの信用は失墜していた。
北村信也は人知れず、どこかに消えたらしい。凄惨な事件の首謀者の家族とあっては、肩身が狭かったのだろう。北村麻奈美もそうだ。大学にも戻らず、ひっそりとどこかへ引っ越していったらしい。僕もあれ以降、一度も会っていない。
北村宗信は、と言うと、未だに指名手配中だ。二十年間逃げおおせている。
僕は、と言うと、大学を無事卒業した。合間合間で皆川に呼び出され、仕事を手伝った。その縁もあって、彼の探偵事務所に所属し、今に至っている。
そして何より、昨今、霊的な事件が起こるようになり、僕の活躍する場が増えていたのだ。探偵のようなヤクザな商売でも、生活に困らない程度の稼ぎができるくらいに。それが幸か不幸かは分からないが。
僕にとってはこれが功を奏し、第三の転機を迎えることとなる。が、それはまたの機会に書き記すことにしよう。