Heart on the moon 前編
1
(探さなくちゃ…)
ずっと昔から、そう思ってきた。なのに、何を探さなければならないのか、どこを探せばいいのか、まったく思い当たらない。
また何時もの、よく分からない夢を見た。十歳前後の男の子と一緒にいるだけの夢だ。そしてこの夢を見る度に、探さなくちゃ、と思うのだ。
夢の中のあたしは、あたしと少し違って見えた。つぎはぎだらけの服を着て、おかっぱ頭だ。あたしより肉付きは良さそうに見えた。
この男の子は誰なのだろう。
あたし自身の記憶に、十歳ごろの親しい異性の友人は、いなかった。十歳ごろと言えば、もうあたしの保健室登校や不登校が始まっていたころだ。
あたしは人と接するといろいろ問題が発生するので、できるだけ人に近づかないようにしている。両親も含めて。
物心つく頃からなので、小学校の三年生辺りでもう保健室登校や不登校だった。そして今は、中学三年生で、一人暮らしをしている。
人と接すると問題が発生するので、買い物も最小限で済ませている。
料理を習うこともできない。一番の教師であるはずの母親に避けられたのだから。不登校なのだから、もちろん家庭科の授業も出ていない。
自分の体が成長するのが怖い。胸の膨らみとどう接していいか分からない。物語などで、お赤飯を炊く、女の子のイベントも、相談相手がいないので、恐怖でしかなかった。痛いしめまいはするしで、自分の体が自分の物でないような感覚に襲われ、不安に苛まれた。
ホラー小説で、高校生になって初めてその経験を迎えた主人公の女の子が戸惑うシーン。すごく共感してしまった。小説では超能力に目覚めるきっかけだった。あたしもそうなのだろうか。
とにかく、あたしは自分の体の成長が怖い。そう思うからだろうか。あたしの食は細かった。料理を習えなかったことと、お小遣いが限られていて節制しなければならなかったことも影響しているとは思う。
あまり食べなければ、体が大きくならず、色々と惑わずに済むと思っていた。実際は、自分の自由にならない体の現象に悩まされ続けているのだけれども。
一番怖く、悩んだものは、やはり月の物だ。ネットで調べても、デリケートな内容だけに、医学的なものを除けば、あまり詳しくはなかった。どれがいいか分からず、生理用品の説明書きを必死に読んで、何度か失敗しながらも使っていた。
こんなことは、母親か、女友達や、親しい近所のお姉さんにでも教わるのだろう。でも、あたしの母親は、あたしを怖がり、気味悪がり、近づこうとしない。不登校のあたしに、当然友人などいるはずもない。
大概のことは、ネットで調べれば分かる。でも、こういうデリケートな話題は、まだまだ難しく、困った。
下着もそうだ。一度ネット通販で買ってみた。サイトにあった通りに自分の胸を測り、合うカップの物を注文した。ところが実際に着けてみると、隙間ができる所があったり、圧迫されて擦れる所があったりと、使い物にならなかった。あたしの着け方が悪かったのかもしれないけれども。
そして、ブラというものは、なぜあんなにも高いのだろう。おかげで色々買って試す、というわけにはいかなかった。興味本位で見た男性物の下着は、なぜあんなにも安いのだろう。しかもそれ一つで済むのだ。女性は上下二つ。それだけで倍以上かかってしまうのに。
結局購入したのは、偶然ネットで見つけた、ニップレスとかニップルパッチという、シリコン製の、突起部分に着けて隠すだけの物だった。たったそれだけで服の上からでは分からなくなる優れものだ。価格はブラの三分の一以下とお手頃だった。そして、シリコン製なので、洗って使いまわせるのもいい。
ニップレスの問題は、夏場などの薄着になった時、胸の揺れが見えることだった。あたしが自意識過剰なのかもしれない。でも、自分ではよく分かるものだ。走ったりした時の、あの大きな揺れ。あれでは周りの視線を集めてしまうに違いない。そう思う度に、顔が暑くなった。
寝ている間は着けていない。ショーツと、寝間着だけだ。その胸が、今日は少し重く感じた。十歳くらいの男の子と一緒にいる夢を見た後は、いつもそうだ。切ないような、微笑ましいような、あたしのまだ知らない感情のような、色々なものが混ざっていると思う。
あたしの知らない感情。家族愛だろうか。友情だろうか。もしかしたら、恋愛感情かもしれない。あるいはまったく違うものなのかもしれない。でも、あたしには、恋愛なんて無理だろうな、と思う。
あたしは重い体を起こした。あまりゆっくりとしている時間はない。カーテン越しに、徐々に明るくなっていくのが分かった。
ベッド脇のテーブルに、充電台の上に置いた、掌サイズのモバイルがある。画面に触れると、
「三件のメッセージがあります」
と女性の声が流れ、画面上にポップアップメッセージが現れた。
ポップアップメッセージに触れる。
「真紀で~す。…おーい。祐美ちゃん。やっぱりこの時間にはもう寝ているんだね。あのね。課題の写し、もう送ってもらわなくても大丈夫になりそうなの。パパの友達が学校と話を付けてくれたから。まだ正式な通知は来てないから、決定ではないのだけどね。決まったらまた連絡するね。おやすみ~」
同じ通信教育を受けている真紀からだった。とあることで知り合った、二歳年下の女の子だ。
続けて別のメッセージが流れた。
「お母さんです。元気にしていますか?その、たまには家に帰って…」
画面に触れてメッセージを止めた。
「また心にもないことを言って…」
あたしはモバイルに向かって文句を言うと、次のメッセージを再生させた。
「今月も満月の注意週間が訪れ…」
政府が無理やり送りつけてくる迷惑メッセージだ。もちろん、即中断させた。
満月の前後で、交通事故、犯罪、異常事件が多発するため、注意喚起にと、政府が国民全員に送り付けているメッセージだ。だからと言って、どうなることでもない。逆に朝から気分が悪くなるだけで、いい迷惑だった。
立ち上がり、カーテンを開けた。まだ完全に明るくなってはいない。日の出から間もないこの時間は、空気が澄んでいるように思え、気持ちよかった。
大きく体を伸ばした。
鳥のさえずりが、心地よさを引き立てていた。
あたしの朝は早い。ここに引きこもっていても、あたし自身がひどい目にあうので、できるだけ人通りのない時間帯に出かけ、人が来ない場所に隠れて過ごす。そういう場所を二ヶ所見つけてあった。そこで日がな一日、モバイルで通信教育の講義を視聴したり、課題を進めたり、調べ物をしたりするのだ。
洗面所へ行って顔を洗い、歯を磨いた。髪を濡らしてドライヤーでくせ毛を直す。
散髪も行かず、自分ではさみを使って切っているので、後ろの方が綺麗にできているのか不安もある。できるだけ短く切っているので、きっと大丈夫だろう。
寝間着を脱ぎ、ショーツを新しいものに穿き替えた。その半裸の格好で鏡に映った自分を見つめる。胸の突起部分が、自己主張するように少し上を向いていた。
前に、ノーブラのままシャツを着こんで出かけたことがあった。あれは失敗だった。思い出しても顔が暑い。胸が揺れて人の目が集まったような気がした上に、シャツに突起が二つあって、目立つことこの上なかった。
その突起を黙らせるように、鏡の前に置いてあったシリコン製のパッチを押し当てた。
ニップレスの冷たい感触が気持ちいい。が、数分もすると体温に馴染んでしまう。
こんな格好を人が見たら、中学生の分際で、などと言われるのだろう。あたしとしては、決して色気づいているわけではない。どちらかと言えば見せたくない、見られたくないのだ。かと言って、擦れたり動いたりするブラを着けるわけにもいかない。厚着をして隠す手もあるが、真夏では耐えられない。
安物のシャツを着こんだ。柄のあるシャツなので、激しく動かなければ、ブラをしていないことがばれることはないだろう。下はデニム生地のショートパンツを穿いた。
ニップレスにシャツという格好は、母親に、はしたないなどと怒られるのかも。普通の家ならそうだろう。でもきっとあの母親は、何も言わない。それどころか、目を合わせようともしない。が、そもそも一人暮らしなので問題ない。
一人暮らしで清々する。あの母親の、嫌な顔を見なくて済む。あたしに怯え、避ける様子を見なくて済む。
家賃や光熱費は両親が支払ってくれ、食費込みのお小遣いも毎月振り込まれている。そういう意味では感謝しているものの、子を疎ましく思っているのが分かる母親のもとには、居たくない。
あたしは通信教育の学校を選んだおかげで、教師からとやかく言われることもない。クラスメイトと会うことも、ほぼない。なので、この格好でも困ることはあまりなかった。人の注目を集めなければいいのだから。
部屋に戻ると、モバイルから曲が流れた。画面に触れる。
「あ、おはよ~」
モバイル越しに挨拶する顔を確認した。どこかで見た覚えはある。たぶん、通信教育の学生会議だ。
会議と言っても、全員モバイル越しに、とあるテーマに沿って語り合うだけのものだ。テーマと日時が決まっている会議に任意で参加を申し込む。参加メンバーに選ばれたら、決まった日時に、参加した不特定多数の学生同士で話し合いを行う、というものだ。この会議に年数回参加しないと、単位がもらえない。直接会わないので、あたしに問題が発生することはない。だから、そういう催しは嫌いではなかった。
通信教育の特別授業の一環で、学生会議の他に、職業体験やボランティア活動がある。こちらは多くの人と接することになるので、あたしには苦痛でしかない。
画面の中で笑う女の子の名前は覚えていなかった。この子からかかってくること自体、初めてのはずだ。
女の子はいつもの友達に、気軽に電話するような雰囲気だった。
「おはよ」
答えないわけにもいかず、短く答えた。
「朝早いね」
「何かよう?」
深入りはされたくなかった。けん制するように、質問で返していた。
「うん。明日提出する課題、できた?できてたら見せて欲しいんだけど」
手を合わせて上目使いに見つめられた。
提出日が近づくと、普段連絡もしてこない人たちからこうやって電話が入ることがあった。でも今は、すぐに真紀に渡して提出も済ませていた。そして交友関係の広い真紀が、欲しい人にコピーを送っていた。だからこういう電話はしばらくかからなくなっていたのだが。
「真紀が写しを持っているから、彼女に言ってもらってくれる?」
あたしはいつものようにあしらった。
「え、あ、うん」
相手の女の子は、笑顔のまま変わらない。邪険にされたとか思わないのだろうか。
「真紀は夜型だから、もっと遅い時間に連絡してあげて」
あたしは気にせず、そう言って別れの挨拶を告げ、通信を切った。
リュックにタオルとポーチと財布を詰め、モバイルを放り込んだ。そのリュックを、背中側ではなく、胸側に持ってくる。手で鞄を持てば抱っこするような格好だけど、肩紐を通しているので、手は自由に動かせる。そして何より、胸が隠せるのがいい。ついでに財布の出し入れも、いちいちリュックを下ろさなくてもできる。少々視界が狭められるのと、手を使う時に邪魔になることがたまにあるのが欠点だ。
アパートの周りの住人が起き出す前に、ここから脱出しなくては。あたしは急いで外へ飛び出した。
2
『あ~あ。朝からついてねぇ…』
『いい女じゃん。声かけてみるか?』
『あーお金欲しい!』
『何あいつ、いやらしい目でじろじろ見ないでよ!』
『おい!早くしろよ!今日は課長より先に出社してないとまずいんだ!』
コンビニの店内は今日も嫌な声が充満していた。人数分の声だ。あたしは何とか雑音に耐え、おむすび三個とお茶を買って早々に逃げ出した。
人が多くなると、相乗してこの雑音も増え、頭痛がして、気持ち悪くなる。人々の口は動いていないのに、どうしてあんなにも煩いのだろう。
コンビニから出て表の通りではなく、横の道へ入っていく。踏切を越えると、田んぼの合間に建物が少しあるだけの田舎道だ。この田舎道の電信柱の陰に、いつも人がいる。
案の定、今日もいた。こんな朝早くから、何時も何をやっているのだろう。もしかしたら、向こうもそう思ってあたしを見ているのかも。視線が痛い気がする。顔を合わせないように通り過ぎるのが、何時もの日課だ。
もう少し進むと、古びたビルがある。田んぼと田んぼの間にぽつりと立っている。看板がなく、人の出入りもない。廃ビルのようだった。
ある時、廃ビルなら誰もいない、そう思ってここに上がった。案の定、誰にも出会うことなく、屋上で静かに過ごすことができた。以来、ここは避難所の一つとなった。
今日もこのビルに登った。屋上の戸口をあけ放ち、踊場で扇風機を回した。非常に都合のいいことに、この廃ビルは電気が流れていた。延長コードをここまで引き、粗大ごみの中から拾ってきた扇風機が大活躍してくれた。
朝食におむすびを一つ食べ、お茶で飲み下した。そしてモバイルで通信教育の講義を視聴する。これがいつもの日課だった。
ここにいれば、先ほどのコンビニでのような人々の声も、届かない。静かに過ごせるありがたい場所だった。
講義を視聴すると、その講義の内容をおさらいする課題が出る。内容をちゃんと聞き、見ていれば、問題なく解ける課題だ。
一つ視聴するごとに課題も済ませ、提出する。これとは別に、一定回数分視聴すると課題が出る。この課題が、皆が見たがるものだ。
今日も順調に勉強を進めていた。
通常の学校に通っていれば、今は夏休みだ。通信教育でももちろん休みはある。というより、受講する人の、自分のペースで行えるので、休みも本人次第だった。中には、特定の日にちまでに提出する課題もあるので、あまり自分のペースでのんびりしすぎても、困るのだけれども。
課題の提出は、担当教官が受けてくれれば、何時でも可能だ。教官が休みに入り、課題を受け付けてくれなくなると、次の講義を視聴できず、先に進めなくなる。
あたしは今、通常なら三学期に行われる分の講義を視聴していた。真紀から教わった方法だ。
あたしの利用している通信教育の学校は、先の授業でも視聴できる。中高一貫校なので、極端に言えば、高校の内容まで視聴できるのだ。ただ、学年自体は年齢に応じたものになる。日本の法律で決まっていて、これは変更できないのだとか。
あたしの学校の規則にも、上の授業に進むことは可能とうたってあったと、真紀が言っていた。なので、真紀は、中学卒業の年齢に達するまでに、高校卒業までの授業を進め、高一になったら、高等学校卒業認定試験を受るつもりだとか。厳密には学校を中退し、高校卒業相当の資格を取る、ということらしい。
その後、飛び級制度のある大学に進むのだと、真紀は言っていた。
「なぜ飛び級制度のあるところなの?」
そう尋ねたら、
「十七になる年で入学させてくれる大学が、そう言うところなの」
と、ため息交じり答えた。
どうやら、大概の大学は、十八歳以上でなければ受験できないらしい。
「海外の大学なら、今すぐでも行けるんだけど、お金がねぇ」
真紀はモバイル越しにそう言って空を仰いでいた。
ところが、今の真紀は担当教官の妨害を受けていた。
彼女の担当教官曰く、
「十三歳の子供が受ける授業ではない。年相応の勉強をしなさい」
であったそうだ。
その教官が、真紀の先に進んでいた課題をすべて受け付けなくなった。課題の受け付けと評価がなされなければ、次の講義に進めないので、続きを視聴できなくなったのだ。
そこで真紀は、提出課題の問題文を目的に、あたしから課題の写しを入手した。その問題文を頼りに、独自に勉強を進めているらしい。
どこをどうやったのか、真紀はあたしの番号を入手し、電話してきた。色々な人に断られながら、あたしの所にたどり着いたようだった。
真紀は事情を説明し、
「課題を見せてくれませんか?」
と、モバイル越しに頭を下げていた。
あたしは関わらず、断ってもよかったのだ。しかし、必死に頭を下げる、二歳年下の女の子を、放っておく気になれなかった。
以来ずっと、提出する課題の写しを真紀へ送っていた。
あたしは、その真紀の方法を見習って、授業を先へ進めていた。飛び級をするつもりはない。ただ、時間を作りたかっただけだ。
あたしは探さなければならないものがある。それが何なのかも分かっていない。どこを探せばいいのかも分からない。でも、時間をたっぷり作れば、きっかけくらい見つけられるかもしれないと考えたのだ。
真紀に出会わなければ、時間を作る考えも浮かばず、毎日授業を受けて漫然と過ごす日々だっただろう。
3
どれだけ授業に集中していたのだろうか。いくつかの講義を聞き終えた時、お腹が大きな音を立てた。
モバイルの時計を見ると十三時を回っていた。
リュックから、朝のコンビニで買ったおむすびを一個取り出した。残り一個は、晩御飯だ。
おむすびを食べ、お茶で一息つく。
講義の方も、もう終わりが見えてきた。大分気持ちが楽になっていた。扇風機の風を受けながら、戸口から覗く青空を眺めた。
遠くの方に分厚い雲が立ち上っていた。
『ん?コード?』
不意に、男性の声が聞こえた。口に出した言葉ではないので、はっきりと聞き取れる。聞き取れると言うことは、この建物の中だ。
そして、コードを気にしていた。おそらく、あたしが使っている延長コードを見つけたのだ。
その男性が上がってくる。
慌てて荷物をリュックに詰め込み、扇風機を止めて、リュックの紐に腕を通して胸の前に据えた。
『まあいいや』
男性は、どうやらこのビルの管理人などではないようだ。早々にコードの不審感を追い払い、何処かに向かったようだった。
あたしはホッとするものの、また上がってこられても困るので、いつでも逃げ出せるように準備したまま、下の方の様子をうかがった。
このビルは五階建てで、電源は五階の部屋から延長コードで引いている。つまりは、下の階に男性がいるはずだった。
「あ!」
男性の声だ。壁に反響している。
「ちきしょう!逃げ足の速い!」
そう叫んで、走り出した足音が近づいてきた。
とっさにあたしは頭を引っ込め、隠れた。
足音は階段まで迫り、どたばたと下へ向かって行った。
どうやら、上には来ないようだ。
あたしはホッとして、息を漏らしていた。
人が近くにいると、緊張してしまう。関わりたくない。それでも、下で何が起こっているのか、気にはなった。あたしの秘密の場所が、利用できなくなるのは困る。もう一ヶ所あるにはあるが、こちらほど快適ではない。電源のあるなしは、大きな差だった。
あたしはそっと足音を忍ばせ、階段を下りて行った。
五階の廊下は埃にまみれている。一組の足跡が奥へ向かい、戻ってきているのが分かるほどだ。
あたしが延長コードを引いてからもだいぶたっているので、あたしの足跡は消えていた。
廊下の先で、物音はない。階下で、微かに音がする。先ほどの男性の足音だろう。
ゆっくりと下の階へ向かう。
足音はさらに下の階へ向かっているようだ。
四階の廊下も、埃まみれだ。こちらは足跡が無い。男性は、この階には立ち寄らなかったとみえる。
三階と四階の間の踊場で立ち止まり、そっと下を覗いてみた。
人影がさらに下の階へ向かうのが、視界の隅に見えた。
相手に見つからなかったかと、不安になる。
その場でじっと耳を澄ませ、足音が二階にたどり着いたであろうことを確認し、そっと三階へ下りた。
三階の廊下は、足跡が一往復していた。
男性は一体何を探しているのだろうか。あたしは疑問に思いつつも、廊下の先を確認するのは止めた。下手に足跡が付いて、疑われても困る。
そう思って、ふと不安になった。階段に足跡はなかったのだろうかと。
自分の足元や、階段をじっくりと眺めた。
大丈夫。足跡はない。
あたしの心臓の音が、階段下にまで聞こえるのではないだろうか。見つかってはならないと思えば思うほど、心臓が激しく打ち付けていた。
耳を澄ませて下の階の様子を探った。
足音が階段に戻ってきて、下へ向かった。
「こりゃダメだな…」
男性の呟く声が聞こえた。
「出直して、不意を突くしかないか」
独り言をつぶやきながら、さらに下へ向かっているようだった。
あたしは階段に座り込んで、音を立てないように息を吐き出した。体の力が抜ける。
どうやら、一難去ったようだ。が、今の男性はまた来るつもりのようだ。ここを利用するのなら、気を付けなければならない。
中学生の女の子が、日中にこんなところにいたら、見つけた人間は必ず、「学校はどうした」とか「女の子が一人でこんなところで何をしている」とか「こんなところで如何わしいことをしていたな」などと言う。学校は通信教育だと言っても聞いてはもらえない。怪しげなことはしていないと言っても、信じてもらえない。下手をすれば警察を呼ばれるか、怪しげなところへ連れていかれるかもしれない。
そんな危険は、避けるべきだ。
しかし、もう一ヶ所の隠れ場所は、真夏の今、利用するには、暑すぎる。せめて扇風機が無ければ。やはり危険を冒してでも、もうしばらくここを使うべきだろうか。
考えはまとまらない。
音がしなくなったことを確かめて、あたしは一階まで下りてみた。
もうそこには誰もいない。外は、めったに人通りが無い。この辺りは、田んぼが多くある。その合間合間に、このビルがあったり、コンビニがあったりしている。塀で囲まれた、お城のような建物もあった。コンビニの側には主要道路があり、そこから一本中に入った田舎道だった。
あたしは外へは出ず、階段の方を振り向いた。
一瞬、目を疑った。
今までそこは、上へ向かう階段のみで、反対側は何もない行き止まりだった。もう二年ここへ通ってきている。覚え間違いではない。
しかし、今はその行き止まりに扉があった。
不思議に思って扉の前へ行き、辺りを見渡してみた。
扉の前に、線を引いたような汚れの痕がある。扉の脇の壁にも、線を引いたような跡。上を見ると、扉の前に二本線があった。線と線の間は数センチ程度だ。汚れの跡は、この手前側の線の位置と一致しそうだ。
試しに扉のノブを回してみたが、鍵がかかっているようで、開かなかった。
これが何なのか、あたしには分からない。なぜ今まで気づかなかったのかも、分からない。
不思議なことがあるものだと、悩みつつ、上へ戻った。建物の中とはいえ、だんだん気温が上昇して暑い。扇風機の前に戻りたかった。
4
結局、あたしは十五時くらいまで扇風機の前に居座り、勉強を続けていた。
何時も、下校の始まる少し前にここを出て、アパートへ戻る。そうすれば、あまり人と出会うことが無くて済むのだ。とはいえ、今は夏休み中だ。何時、同年代の集団に出会うか、分からない。
だからと言って日が暮れるのを待つと、今度は社会人の帰宅や、散歩のお年寄りたちとすれ違うことになる。それはそれで面倒が発生するので、避けたかった。
同年代や小学生たちの集団なら、外見上はごまかせる。内面の雑音はどうにもならないものの。
人数分のラジオが、別々の放送を流している。しかもそれは、あたしにしか聞こえていないものだった。人数が多くなればなるほど、とんでもない雑音になった。相手の年齢は関係ない。
人が一人ずつ、自分専用のラジオ放送を持っているようなものだ。放送の内容は、その人の思っていることだった。
人を避けたい理由の、大部分がこれだ。
物心つく頃、あたしは優等生だった。母親の気持ちを察し、手伝ういい子だった。
ある時、母親が何も言っていないのに、
「それ、あたしがやっておくね」
と、行動した。
最初のうちは、母親も、なんて気立てのいい子、気の利く子、程度に思っていた。だが、それが度重なるにつれ、恐怖に代わって行った。その変化も、聞こえてしまった。
「何も言っていないのに、なぜ分かるの!」
『気味が悪い』
母親の口から発する怒声と、心の声が重なる。
次第に母親は、あたしを避けるようになった。あたしも、人の心の声が聞こえることが問題だと分かるようになり、保健室登校、不登校へと進んでいった。
ただ、母親にしろ、父親にしろ、当時は離れるわけにもいかず、あたしを煙たがり、怖がるのが分かっていても、傍に置いてもらおうと、努力した。努力すればするほど、母親はあたしに対する恐怖心を増して行ったようだった。
不登校でも学校へは通わなければならず、できるだけ人と接することのない所を探し、今の通信教育の学校を選んだ。そして、それと同時に、一人暮らしを親に頼んだ。
怖がっていた母親は、ありがたいとばかりにあたしの申し出を受け、田舎の安いアパートを借りてくれたのだった。
一人暮らしを始めたら始めたで、世間体を気にするのか、時々様子見の電話をかけては、たまには帰っておいでと言う。
本当に帰ったら帰ったで、逃げ惑うに違いない。自分が心ではどう思っているのか、全て見通す相手がいて、それと分かっていたら、近づいて欲しくないのも頷ける。頷けるが、両親にはそうなって欲しくなかったと、思う。
あたしに選ぶ権利はない。人の心が聞こえるこの力も、両親も。なら、できるだけ人との接触を避け、日陰に暮らしていくしかなかった。
あたしの思いを裏切るように、モバイルが鳴り響いた。
リュックからモバイルを取り出して画面に触れると、今朝かかってきた女の子が映っていた。
「あ、いた。よかったぁ」
不安そうな顔が、急に晴れやかになった。
「どうしたの?」
モバイル越しの彼女の顔を見ると、どうにも放っておけなかった。
「あのね。真紀ちゃん、心美にはあげないって…」
今にも消え入りそうな声で答えた。表情も、今にも泣きだしそうだ。
こんなにも表情がころころと変わる人なのかと、あたしは妙な感想を抱きつつ、心美と名乗った女の子の言わんとすることを考えた。思い当たるのは、課題のことだ。
「真紀がそう言ったの?」
「うん…」
か細い声が、震えていた。
「分かった。分かったから、泣かないで。メアド教えて。今から送ってあげるから」
あたしの返事を聞くと、心美の顔がくしゃくしゃになった。泣きそうなのか、笑いそうなのか、よく分からない。
メールが届いた。
「今メール送ったから、そこへお願い」
心美が言う。
「うん。で、どの課題だっけ?」
あたしはみんなとは違う進め方をしている。この時期に出す課題がどれだったのか、覚えていなかった。
心美が答える内容を聞きながら、モバイルを操作してファイルを探した。
心美の声が震えていると思ったら、案の定、泣いていた。あたしがうやむやにして断るとでも思ったのだろうか。
「ちょっと。今送ってあげるから泣かないでよ」
あたしは見つけたファイルをメールに添付して送り返した。
「ほら、今送ったよ」
心美の側で、メールの着信を知らせる音が鳴っていた。
「ありがと…。ごめんね。…でも、なんか、うれしくて」
そう言って、よけいに泣き出していた。
ああ、もう、参ったなぁ。あたしは人と接する機会が少ない。だから、こういう時どうすればいいのか、分からなかった。人と関わりたくないわりには、こうやって目の前で泣かれたりすると、どうにも放っておけないように感じた。
あくまでモバイル越しであって、当人が目の前にいないことが救いだったかもしれない。相手の心の声が聞こえないことが、あたしに油断を生んだのかもしれない。
「じゃ、勉強頑張ってね。何かあったら言って」
あたしはそう言って、通信を切った。自分で何を言ったのだろうかと、後悔してしまう。ため息が漏れる。
モバイル越しなら、相手の心の声が聞こえないので、何を考えているのか分からない。でも、余分な情報が流れてこないだけに、自然な対応ができる。できたはずだ。
しかし、自分で「何かあったら」と言った以上、またかかってきたら対応しなければならない。
モバイル越しなら、きっと大丈夫。あたしは安易に考えていた。
5
通信を終えて帰ろうと、階段を下り始めると、途中に犬のような生き物がいた。大型犬のようでありながら、体が細い。顔もやや細長いような気がする。毛が長く、艶が無かった。そして、尻尾がやたらと大きい。
一瞬、目が合ったような気がして、立ち止まった。その犬も立ち止まっている。
『まだ人の子が居ったか』
かすれた声が聞こえた。老齢の男性の声に似ている。
『坊主もワシを退治しに来たのかえ?』
「坊主?あたし?あたしは女の子です」
とっさに答えてしまった。慌てて口を押さえても、もう遅い。
『ほう。わっぱが、ワシに用かえ?』
声の主は、どうも、目の前の犬のようだ。あたしは犬と会話してしまっている。今まで動物の言葉を聞いたことはない。イメージを受け取って、なんとなく理解する程度だった。なのに、今、明確に言葉を聞き、会話してしまった。
何かがおかしい。この場を切り抜けて逃げなければ。
「犬になんて、用はないの」
『犬畜生何ぞと一緒にせんでくれ。わしは狐じゃ。しかも九尾の、な』
狐の太い尻尾が揺れ、複数本あるように見えた。
あたしにしてみれば、それがどうした、といったところだった。そもそもこの状況の方がおかしい。関わらない方がいいと、強く感じていた。
『ふむ。ならば、ワシがわっぱを食ろうても問題ないの』
狐が妙なことを言う。
「はい?食らう?」
『そうじゃ。ワシのようなものを見ることができ、会話できる人間を食らえば、さらに力も増そうと言うものじゃよ』
「何のこと言っているのか分からないけど、食べられるなんてごめんよ」
『ふぉっふぉっふぉ。なあに、痛いのは最初だけじゃ』
そう言って狐が近づいてきた。
「来ないで!」
あたしが声を張り上げると、なぜか狐の動きが止まった。
『なんということじゃ!』
老狐が、細くなった目を見開いていた。
『これはわっぱの仕業か!』
老狐の体が一回り大きくなった。再び前進してくる。
『ますます食らいとうなったわ』
あたしはとっさに、狐の頭を叩いて逃げようとした。ところが、手が相手の体をすり抜け、空を切った。
『ふぉっふぉっふぉっ。無駄じゃよ』
老狐の口が耳元まで広がった。
『な~に、少しばかり痛いだけじゃよ。その後は魂となって、ワシと永遠に暮らすのじゃ。幸せじゃろう?』
「どこが!」
あたしは、逃げるしかなかった。階段を駆け上る。
体の大きくなった老狐は、意外にも俊敏で、あっという間にあたしを前足で踏みつけて押し倒した。
『暴れるでない』
「放して!」
あたしの声に反応するかのように、老狐の前足が離れた。
『ぬぉぉぉ!』
あたしが振り向くと、老狐が自分の前足を持ち上げたまま震わせて、おかしな声を発していた。
『わっぱか!わっぱがこれを!』
その前足で自分の頭でも叩けばいいのに。そう思った途端、どういうことか、老狐は自分の振り上げた前足で、自分の後頭部を叩くという、器用な芸当をやってのけた。
『わっぱの力がこれほどとは…。まさかワシを操るじゃと』
老狐の言葉を信じるなら、どうやら、あたしが操ったらしい。でも、どうやったのだろう。操ることができるのなら、この場からも逃げられるはずだが。
『相手の心の奥底に呼びかけるのよ』
どこからか、女性の声が聞こえた。
その声に、老狐が顔を凶悪に歪めた。
『やつめ、まだワシの支配を逃れておったのか!』
あたしには何のことを言っているのかは分からない。でも、女の人の言葉は、何かヒントのような気がした。
『悪いがのう。悠長に遊んでいる暇はなくなってしもうたわ』
老狐は言うが早いか、あたしに飛びかかってきた。
「伏せ!」
あたしはとっさに、犬に命令するように叫んでいた。
老狐が着地と同時に、階段の途中で、器用に体を伏せた。
『なんじゃとぉ!』
老狐が体を震わせ、必死に上体を起こした。そして前足を振り上げ、あたしに振り下ろそうとする。
「お手!」
あたしの言葉に反応して、その振り下ろした前足が、ゆっくりとあたしの目の前に差し出された。
『止めろぉ!止めてくれ!』
老狐の目の端に、涙が浮いているようだった。
すごい。あたしにこんなことができるなんて。あたしは感動しつつ、色々試してみることにした。目の前で、あたしの言う通りに行動する生き物がいる。あたしの中で妙な気分が膨れ上がっていた。
「回れ!」
老狐が自分の尻尾を追って回った。
「座れ!」
ちょこんとお尻を下して座った。これで尻尾でも振っていれば、もう犬そのものだ。
『このような屈辱…!』
老狐の顔は苦痛に歪んでいるように見えた。
『ワシには耐えられん!わっぱ!もう何もせんから、許しておくれ!』
あたしは容赦しなかった。
「伏せ!お腹を出して!」
あたしの言う通りに、老狐がゴロンと横になり、足を上げてお腹を見せた。
『いやじゃぁぁぁぁ!』
「そのまま尻尾も振って」
『止めてくれっ!犬畜生と同じなど、耐えられん!』
老狐が懇願した。揺っている尻尾が一本、離れて行った。
「え」
あたしは何が起こったのか、理解できなかった。
次々に、尻尾が分離し、老狐の体から何かが離れて行った。
『あああ。せっかく集めたものが…』
老狐の体から出るものは、人の形をしているものもあった。何かが出ていく度に、声が聞こえたように感じた。複数の声が重なり合っているので、それぞれが何を言っているのか分からない。
老狐から出たものは、各々、壁をすり抜けて外へ向かっていた。
余りにも多くの物が出てくるので、老狐自体も見失ってしまった。壁をすり抜けていくものに紛れて、逃げてしまっていたのだ。
「あら…」
周りを見渡しても、やはりいない。
全てが消え去ると、小型犬くらいの大きさの、毛艶のいい狐が、足元に現れた。先ほどの老狐だろうかと怪しんでいると、声が聞こえた。
『ありがとう。やっと私も開放されました』
女性の声で、先ほどヒントを与えてくれた声と同じだった。
「この狐…?」
『ふふ。そう、私は狐の霊の、綾と申します』
足元の狐はそう名乗った。
『助けていただき、ありがとうございます。あの爺に取り込まれて、もう戻れぬものと思っておりました』
狐が可愛らしい頭を下げた。
あたしは屈んで狐を見つめた。子犬を思わせるような愛らしさがあった。
『あの爺に力のほとんどを奪われてしまいました。これでは、生後間もない小狐ですね』
綾と名乗った狐は、自分の体を見渡して言った。表情が読めたら、きっと苦笑していたに違いない。
『よろしければ、恩人であるあなた様のお名前を教えていただけませんか?』
「え?あたしが恩人?」
『ええ。あなたがあの爺の自尊心を傷つけてくれたおかげで、取り込まれていた私たちは解放されましたもの』
「そなんだ?」
『これであの忌々しい爺も、大した力は残っていないでしょう。清々しますわ』
子狐の立ち振る舞いが、凛とすました格好に見え、微笑ましかった。
「あたしが役に立ったのなら、よかった。あたしは武田祐美と言います」
『祐美様。しかと記憶いたします。お礼と言っては何ですが、祐美様には力がおありのようです。私がその力の使い方を指導いたしましょう』
「様は止めて、様は。指導?」
『ええ。祐美さ…』
「祐美でいいって」
『では、祐美。あなたは人の心が読めますね。それもかなり強い力のようです。相手を操れるほどに。私も心を読むことはできますので、分かります。祐美のように操ることはできませんが。そして、祐美はその力を扱いきれておらず、お悩みの様子ですので』
「なぜ…」
『私も心が読めますので』
あたしの心が読まれ、人を避けて過ごしているのが、綾には一発で看破された、ということだろうか。
心を覗かれると言うのは、どういうわけか、恥ずかしいものだった。あたしは周りの人々に、こういう思いをさせていたのだろうか。
『お優しいのですね』
綾がほほ笑んだ。
『でも、そうでなければ、人の心を読むことも、操ることもできません』
「そう、なの?」
『ええ。でも、祐美は、言うなれば心が開いたままの状態なのです。それはあなた自身にとっても、あまりよろしくないので、私でよければ、導いて差し上げますわ』
「あの煩いの、止められるの?」
『止める、とは少々違いますが、煩わされることはなくなると思います』
「よろしくお願いします」
あたしはあまり考えもせず、答えていた。
6
あたしはアパートに帰ろうと思っていたのだけど、狐の綾の誘いに乗ったために、帰れなくなっていた。
綾に言われて屋上に出ると、手すりまで行き、下を見下ろした。
田舎道を、日傘をさして歩く人が見えた。傘のために顔は見えない。
『では、その人の心の声を聞き取ってみてください』
綾が言う。
「え、でも、聞こえないようにするんじゃ?」
『そうですねぇ…。祐美が力の使い方を覚えれば、自然と制御できるようになりますよ。そのための、力を使う訓練です』
「でも」
あたしは力の使い方を知りたいのではなく、この力の失い方を知りたかった。人の心の声が聞こえなくなる方法を知りたかった。
『まずは騙されたと思って、どうぞ』
あたしは納得いかなかったものの、大人しく従った。綾に悪意があるようには見えなかったのだ。
ビルの屋上から下の道を歩く人の、心の声を聞く、というのは今まで試したことはなかった。これだけ離れていれば、自分の耳に届かない、という程度しか思ってなかった。
また、一人の相手に意識して、心の声を聞く、ということも試したことが無かった。目の前にいれば勝手に聞こえてくるので、努力の必要が無かったのだ。
今回初めて、一人の相手に意識を向けてみた。次第に何か聞こえてきた。
『この時間でも暑いわね』
『こんな時間からあんなところへ…』
日傘の人が向かう先に、塀で囲まれた、お城のような建物がある。そこへ車が一台、入って行った。
『お盛んなことで…』
日傘の人は、非難するようなことを考えていた。
あたしには、何のことを言っているのか分からなかった。あんな綺麗な建物に入るのが、まずい事なのだろうか。
『聞こえたようですね。では、今度はあちらの方の声を聞いてみてください』
綾が、今度は反対側から日傘の人の方へ向かって歩く男性を指して言った。
男性は、よく見ると高校生くらいだろうか。半袖の白い服とジャージのズボンといった格好で、スポーツバッグを抱えていた。
『アイス食いたい!』
『早く帰ってゲームしたい!』
『部活面倒!』
矢継ぎ早に心の声が聞こえた。彼はきっと、その先のコンビニに立ち寄ってアイスクリームを買い食いするに違いない。
『やはり筋がよろしいですね』
綾がほほ笑んだ。
「え?」
『今、男の子の声しか聞こえていないでしょ?日傘の人の声はないでしょう?』
言われてみれば、確かにそうだ。この距離があるせいなのか、意識した相手の声しか聞こえていなかった。
試しに、日傘の人に意識を戻した。
『最近、旦那とご無沙汰よね…』
今度は学生の声が聞こえない。
「これって、これだけ距離があるから?」
『それもあるでしょうね。でも、突き詰めれば、この屋上に大勢の人がいたとしても、一人の心に限定して聞くことができますよ』
「へーーー」
あたしは驚き、感心していた。力を失いたかったあたしの意思とは違い、力を使うことで、聞こえる範囲、相手を限定すると言う。今まで考えたこともなかった。これなら、綾の指導に従えば、本当にあの雑音から解放されるかもしれない。人々を避けて暮らす生活も、変えられるかもしれない。
狐の霊という、非日常的なものに触れ、できれば関わらない方がいいという思いも、まだ頭の隅にはあったものの、綾を信じる気持ちが勝っていた。
『まずはできることから始めるのが基本です。焦らず、ゆっくりと』
最初の綾の指導は、これで終わった。
帰りがけにコンビニの前を通ると、先ほどの学生がアイスクリームを持ってレジに並ぶのが見えた。
予測が当たったことが、妙に嬉しい。そしてその感情に、あたし自身驚いた。今まで人の心を読んで、曲がりなりにも嬉しいと言う感情に結び付いたことが無かったのだ。
空はまだ明るいが、太陽は確実に西に降りつつあった。真夏の日暮は遅い。明るさに油断しているとすぐに帰宅の時間を迎え、人々の雑多と出くわしてしまう。
あたしは自分の感情に戸惑いつつ、アパートへの道を急いだ。さすがに人通りが増えれば、煩わしい声が頭に鳴り響くことになる。余韻に浸っている場合ではないのだ。
一人の声ならまだしも、一度に数十人の声が頭に鳴り響けば、頭痛の一つも出ようと言うものだ。過去に、耐えられず、胃の中の物を戻したこともある。
あたしの足は自然と駆けだしていた。
7
息を切らせてアパートに駆け込んだ。呼吸を整えながら、部屋に置いてある時計を見ると、十七時前だった。
この時期は十九時まで明るいので、外で遊ぶ子供たちもまだ帰宅の途についてはいない。社会人の退社も、これからだ。
何とか人通りが増える前に、帰りつけた。
あたしはホッとして、ひんやりする廊下の上に転がった。タイマーで動いているエアコンのおかげだ。
もがくようにリュックを外して部屋に投げた。走ったために、リュックを抱いていたシャツの前面はすっかり濡れて、透けていた。
あたしは呼吸が整うまで、廊下に寝転がっていた。濡れた服も、冷たくて心地いい。
『眼福眼福』
あたしの呼吸が整うのを待っていたかのように、狐の綾の声が聞こえた。嬉しそうに声が上ずっている。
頭を起こしてみると、綾があたしの胸の辺りを凝視していた。女性で、狐で、霊である相手に見つめられた。あたしはとっさに両手で胸を隠した。顔から湯気が出そうだ。
『でも、祐美は少し肉を付けるべきですね』
綾はあたしの恥ずかしさもお構いなく、体つきについて批判していた。あたしがいくら睨みつけても、何とも思っていないようだ。
『ちゃんとご飯は食べていますか?』
『おむすびだけ?それでは足りませんよ』
綾はあたしが口に出して答える前に、返事を返してきた。矢継ぎ早に言う。
『ああ、私の体が大きければ、料理の一つも作って差し上げられるのに』
『そうですわ。指導しますので、作ってみましょう。道具は?あるのね?材料が無いのですね。それは、明日にでも買いに行きましょう。お金?うまくやりくりすれば、最終的にはかなりお得になりますよ』
この間、あたしは胸を押さえたまま、口をパクパクさせていた。声を発する前に、次のことを言われ、対応に困っていた。
『さあ、汗をかいたままじっとしていては、お肌にも健康にも悪いですわ。お風呂に入ってらっしゃいな』
まるで母親のようだ。ふと思ったこのことが、あたしにとって、思いもよらず、考えさせられた。
実際に、普通に暮らしていれば、本当の母親は、たぶん、こういう対応をするのだろう。そうであって欲しい。そして、あたしは、こういうことに、飢えていたのかもしれない。
なぜか、涙がこぼれ、止まらなかった。
『抱きしめてあげられなくて、ごめんなさい』
綾はそう言って、苦笑した。
『さ、涙と一緒に汗も流してらっしゃいな』
まるで綾に背中を押されるように、あたしは洗面所へ追いやられた。
泣きじゃくりながら、濡れて脱ぎにくくなったシャツと格闘し、洗濯機の中へ放り込んだ。ニップレスを外し、洗面台に水をためて洗った。洗剤も付けてニップレスを洗い、鏡の前に干す。
次第に涙が止まってくる。
押さえつけられていた、胸の突起が自己主張していた。突起の周りの肌に、後が残っている。
『あらあら。元気のいい胸です事。若いわねぇ』
いつの間にか、狐の綾が洗濯機の上にいて、あたしの胸を見つめて微笑んでいた。
「ちょ!いつの間に!出てって!」
あたしは片手で胸を隠し、もう片方の手を振り回して綾を追い払った。
綾は笑いながら、壁をすり抜けて消えた。
いったいどういうつもりなのだろう。あたしをからかっているのだろうか。
もう一度辺りを見渡して、綾がいないことを確認した。
ため息を一つ漏らすと、ショートパンツを脱いで横にある籠へ入れた。ショーツを脱ぎ、朝脱いで置いてあったものと一緒にネットに入れ、洗濯機へ投入した。
洗面所からお風呂へ入り、シャワーを浴びると、しおれていた体がよみがえるような感覚を味わった。
シャワーを浴びながら、自分の体を眺めた。
綾の言う通り、痩せすぎかもしれない。あばらが浮き、腰骨が目立つ。足は細い。
肉付きの良い自分の体、というものは想像だにできなかった。初めは月の物が怖くて食事もままならなかったが、今の少食に慣れると、それが当たり前になって、どう変えていいかも分からない。
肉付きが変わると、月の物の重さは、どう変わるのだろう。あたしには想像もできない。知らないと言うことは、恐怖に変換され、行動を鈍らせる。
だけど、もしかすると、狐の綾はいい相談相手になってくれるかもしれない。そういう考えがふと浮かび、離れなくなった。
人外のものにあたしは頼っていいのだろうか。不安もある。だが、先ほどの母親のような物言いが、心に沁み込んでいた。
体を洗い、頭を洗う間中、綾のことを考えていた。
つい今朝方まで、一人でいることにこだわっていたのに、人と関わりたくないと考えていたのに、今は綾が大きな存在となっていた。
全身を綺麗に洗い流し、洗面所に置いてあったタオルで拭いた。拭き取るごとに、さっぱりしていく。
きれいに拭き終わると、タオルを洗濯機に放り込んでふたを閉め、おまかせボタンを押した。洗剤は洗濯機のストックにすでに入れてある。後は全自動で洗ってくれるので、便利だ。
裸のまま鏡の前に立って、ドライヤーとクシを使って、頭を乾かす。それが終わると、新しいショーツを穿いて、寝間着を着こんだ。
部屋へ戻ると、綾はベッドの上に大人しく座っていた。さすがに、風呂の中までは覗きに来なかった、のだろう。確認していない自分に気づき、少し不安になった。
『大丈夫ですよ。そのうち、一緒にお風呂に入りましょうね』
「それのどこが大丈夫なの」
あたしの不安に対して、否定とも肯定ともとれる物言いをする綾に、呆れてしまう。
『もっと肉付きがよくなってからにします』
綾の言葉に、あたしは睨み返した。
「綾さんて、女の人じゃないの?」
ふと疑問に思い、尋ねた。
『もちろん、女ですわ』
「…」
『男性も女性も行ける性質ですので』
あたしは近くにあったものを思わず投げつけていた。綾はすまし顔で、毛づくろいを始めていた。
8
あたしのアパートは、古い。一部屋と、台所兼廊下、洗面所とその奥に風呂。入り口傍にトイレがあった。
エアコンがあるので、これは重宝している。タイマーで夕方から冷房がかかるようにしている。おかげで、帰宅して廊下で涼むこともできる。
困ることは、壁が薄いことだ。隣や上の階の音が、よく聞こえる。あたしも大きな音を立てれば、隣近所にそれと知れてしまうので、気を付けなければならない。
狐の綾の戯れに、怒鳴り返すようなことをすれば、周りに聞かれて、何事かと思われてしまう。綾は心が読めると言う。なら、できるだけ心の中で叫ぶように、気を付けよう。
テレビをつけて、主にニュース情報番組を流す。あたしは探したいものがある。何を探したいのか、何を見つけなければならないのか、分からないので、世間の情勢はできるだけ見るようにしていた。ニュースの中で、ひょんなことからヒントが見つかるかもしれない。
何より、情勢を知っていることは悪い事ではない。通信教育の学生会議でも、ニュースの知識は役に立つ。話題のニュースがテーマのこともあるし、とあるテーマについて話し合っていると、関連する事件のことが話題になることもある。知っていて損はなかった。
ベッドの端に腰かけてニュースを眺めていると、モバイルが着信を知らせて鳴り響いた。今日はよくかかってくる一日だ。
モバイルの画面に、心美が映っていた。
「あのね。実は祐美ちゃんにお願いがあって」
心美が困惑した表情を浮かべていた。
この子の困った顔って、すごいのかも。なんでも頼みを聞いてあげたくなる。
「な、なに?」
あたしの声は、少し動揺していたかもしれない。
「あのね。心美ね。今度の日曜に特別講義のボランティア活動をすることになってるんだけど、人手が足りないって言われちゃって…。誰かいないかって…」
あたしたちの通信教育制の学校は、特殊な授業がある。文化祭や運動会、社会見学といったものがない代わりに、テーマを決めて学生同士で話し合う学生会議や、職業体験、ボランティア活動に参加、といったものがあった。
学校が提携するイベントにボランティアとして参加して手伝い、単位をもらうのだ。年数回、ボランティアを行わなければならない。また、イベントの主催者が参加した生徒の行動を評価する。よっぽどのことが無い限りは良い評価を付けてもらえるそうだけども。
あたしがもっとも苦手とするものだ。モバイル越しなら問題ないものの、人と面と向かって接する職業体験やボランティア活動は、苦痛でしかない。複数の心の声に惑わされ、頭痛や吐き気を催して、耐えるのも大変だった。次の日は身動き一つとれないほど疲労しきってしまう。
講義の方は順調に進めているものの、ボランティア活動に関しては、まだ一回分しか消化していなかった。最低でもあと三回は参加しなければならない。が、できれば参加したくなかった。
あたしが渋っていることに心美も気づいたのだろう。涙声になって、必死に説得しようとしていた。あまりの必死さに、危機感を覚えた。この子を放っておいたら危ないのではないか、と。
具体的にどう危ないのかは分からない。まるでガラス細工のような感じだ。今にもモバイルの向こうで、心美の体がバラバラに砕け散ってしまいそうに見える。
「分かった。行ってあげる」
あたしは折れていた。どのみち、あたしも回数分参加しなければならない。それに、モバイル越しとはいえ、目の前で心美が砕け散ってもらっても、困る。
「わぁ!ほんとにぃ?ありがとう!」
心美は、目の前にいたら飛びついてきそうな勢いだった。顔が一瞬で晴れやかになっている。
「それで、どこに何時に行けばいいの?」
「あ、待っててー。今メールで…」
心美はモバイルに向かって書き込みながら、祐美に声をかけた。
「祐美ちゃんて、優しいんだねー」
「え?べ、別にそんなんじゃ…」
「ううん。心美には分かるのー。今度、何かお礼しなくちゃー」
「い、いいよ。別に」
「心美はお礼したいのー。はい、メール送ったよー。じゃあ、絶対に来てねー」
「うん」
通信が切れた。
「はぁ…。どうしよう…」
思わず約束してしまったが、耐えられるだろうか。今度の日曜ならまだ数日先の話だが、もう不安でたまらなかった。
メールが届いた。
場所はボランティア活動でいつも行くイベントホールだ。集合時間は朝の八時。
別に問題はなかった。普通のイベントに、普通のボランティア活動だ。しかし、気が重くて仕方なかった。
隣で狐の綾が、面白そうに微笑んでいた。
「なによ?」
あたしの声は、思いのほか低く響いた。
『いえ、お優しいのだと、再確認していただけです。その調子で、私の欲望も叶えてくださると嬉しいのですけれども』
「よ、欲望?願望とかじゃなくて?」
『ええ』
「どんなこと?」
『祐美の性の開発』
(うるさい!)
聞くのではなかったと、後悔した。口に出して叫ばなかったところをみると、あたしは思いのほか冷静だったようだ。口に出して叫んでいたら、隣近所にどう思われたことか。
しかし、あたしの心はそれどころではなくなっていた。なぜか、うるさいと叫んだことが、あたしの心をかき乱した。あたしが発した言葉ではないはずだ。
一瞬、男の子声が聞こえたように思う。そう思った途端に、胸の奥がざわついた。
あたしの探すべきもの。それはあの夢に出てきた男の子なのだろうか。
「うるさいやい!」
男の子の声が、心の中に響いた。今現在、この近所から聞こえる声ではない。記憶の奥底から、聞こえてきた。でも、その記憶はあたしの物ではない。あたしに友人はいないし、男の子と遊んだ記憶もない。なのに、どこか懐かしい響きだ。
隣の綾は、黙ってあたしを見つめていた。何も言わないのが、ありがたかった。
9
そろそろ隣が帰宅してくる。隣の住人は、心の中でぼやくのが好きなのか、とにかくうるさい。なので、あたしは隣が帰宅する前に眠り、朝早く起きる生活をしていた。
洗濯機の中身を洗面所に干した。タオルだけは洗濯機に戻し、乾燥をスタートさせた。その後、そろそろ寝ようと部屋に戻ってテレビを消したところで、モバイルが鳴った。
画面に出たのは、ショートカットの、一見すると少年のような顔立ちの子だった。真紀だ。
「よかった。まだ寝て無かった」
「もう寝る所だった」
「セーフ」
真紀はそう言って笑った。笑った顔も少年のようだ。
「そうだ。あたしも真紀に聞きたいことがあったんだ」
「ボクに?なに?」
真紀が「ボク」と言うと、本当に少年に思えてくる。真紀はどういうわけか、自分の事をボクと言う。
「心美のこと。なんで課題のコピーあげなかったの?」
「ああ、あの子、祐美ちゃんに言ったんだ。コピーあげたの?」
「うん」
「あちゃー。じゃあ、その後もう一回電話あったでしょ」
「え?うん、あった」
「今度の日曜日のイベントで人手が欲しいって?」
「どうして分かるの?」
あたしは驚いた。真紀に、心美との会話がどうして分かるのだろう。
「それ、嘘だよ。学校のボランティア活動の、イベントリストを確認してみて」
あたしは真紀に言われるまま、モバイルを操作して確認した。
次の日曜のリストをたどっても、該当するものが無い。
「うそ…」
「無いでしょ」
「うん。でも、どうして…?」
「経験済みだから」
真紀は照れくさそうに笑った。
「あの子、そうやって嘘ついて、かまって欲しいんだ。でも嘘をつくのはよくないから、突き放したんだけど…」
「あたし、余計なことをした?」
「ううん。そんなことはない」
真紀は即答だった。明快に答えてくれるので、あたしとしても気持ちが晴れる思いだった。
「心美って、なんか、ガラス細工みたいで、放っておけなくて」
「あー、確かに、割れそう」
真紀が笑った。あたしは笑う気にはなれないものの、真紀のこういう反応の一つ一つに、気持ちが和らいでいくように感じた。
「やっぱりもう一度会ってみるべきかな。ボクにも集合場所と時間、教えて」
真紀は決断が早い。
「あたしも約束した以上、行ってみる」
あたしは答えながら、心美のメールを真紀へ転送した。
「ああ、あそこね。朝が早いけど、なんとかするさ!」
真紀は夜型だ。きっとこれから夜中まで勉強するのだろう。土曜の夜にも同じことをしていたら、朝起きられないのかもしれない。
真紀の苦労を想像して、あたしは苦笑してしまった。それをごまかすように、あたしは真紀に聞いた。
「ところで、真紀はあたしに何か用だったの?」
「え?あ、いや、その…」
真紀にしては珍しく、言いよどんだ。
「学校のこと?」
あたしが真紀のことで思いつくのは、それしかなかった。
「え?あ、いや、その、あははは。そう、そのこと!」
どうも笑ってごまかしているように見える。面と向かっていれば、心を覗いて確認できるが、モバイル越しでは無理だ。
「ボクの担当者、クビだって。と言っても、担当を外される、ってだけね。ボクに対する処置が学園の趣旨に反するものって、運営側が認めてくれたんだ。パパの友達が抗議してくれたからみたいだけどね」
「へぇ~。そのお父さんの友達って、すごい人なの?」
「どうでしょう?弁護士みたいだから、効き目があったんじゃないかな」
「ふ~ん。それじゃ、講義も受けられるようになるの?課題も提出できるように?」
「うん。来週にはボクの新しい担当者が決まって課題も受けつけられるようになるって。講義は今日から見られるようになったから、ずっと今まで見てたんだ。祐美ちゃんは今、どこまで進んでる?」
「あたし?あたしはがんばれば今週中に全部終わるかなって…」
「おー!進んでるじゃん!じゃあ、すぐに高校の講義へ進むの?」
「ううん。だって、学生会議もまだあるし、ボランティア活動とか、職業体験はまだだもの」
そのままあたしと真紀は学校の話を一時間も続けていた。電話が終わった時、すでに隣が帰宅し、何時ものようにぶつぶつと独り言のような心の声が響いていた。
しまった、と思ったものの、電気を消し、ベッドに入ってみると、あっさりと眠り込んでいた。
10
翌朝、目が覚めると、狐の綾がいなくなっていた。行き先に思い当たるものはない。どこかへ去って行ったのかもしれなかった。綾があたしについてくる理由もほとんどない。
指導をするとは言っていたが、どこまで本気なのか分かったものではない。時々変な視線を胸などに向けられるので、いない方がいいかもしれない。
充電器の上に置いたモバイルの画面に触れた。
「メッセージが一件届いています」
あたしはメッセージを再生させずに終了した。一件しかないのなら、「満月注意」のやつしかない。今週いっぱいは届くはずだ。
あたしはいつものようにカーテンを開け、明るくなり始める外を眺めた。大きく体を伸ばすと、洗面所へ向かう。
洗面所で素っ裸になった。裸になると、妙な解放感がある。あたしはこの開放感が好きだった。体に何もつけていない状態。圧迫感もなく、自然な状態は、殻を破って自由に羽ばたく蝶のような気分だ。蝶の気分は知らないものの、そう感じていた。
とはいえ、裸で窓のある部屋に行く気はない。窓の外から人に見られたくはなかった。そしてもちろん、誰かに見せる気もない。それが狐の綾であっても、だ。あばら骨の浮いた、痩せてがりがりの体を見て、誰が喜ぶと言うのだろう。違う。もしもモデルのような体型だったとしても、誰かに見てもらいたいとは思わない。
一人だけの時間を、短いながらも堪能すると、洗面所に干していたショーツを穿いて、身支度を整える。
全てが終わり、いざ出かけようとしたところへ、狐の綾が戻ってきた。なぜか、毛艶がよくなっているように見えた。
「どこ行ってたの?」
あたしはあいさつ代わりに聞いてみた。
『ちょっと斜め上の部屋まで』
斜め上と言えば、若いカップルが同棲していたはずだ。
『若いっていいわね。もう一晩中お盛んで』
綾は舌なめずりしながら微笑んだ。
あたしにも思い当たる節があった。以前、一晩中、男女の行為の音と、心の声が響いてきたことがあったのだ。あたしは耐えられず、真夜中に外へ飛び出した。
隣の独り言や、そういうこともあって、夜は早く寝るようにしていたのだ。眠っていれば、聞こえずに済む。実は聞こえていて、夢でうなされる、などということもない。なぜかぐっすりと眠れるのは、思えばありがたかった。
綾はその男女の行為を真直で見学していたのだろう。
「ずっと覗いてたの?」
『ええ。私の食事は、そう言う行為中に発する感情ですもの』
「感情?」
『そう。特に、あなた方の言葉で言うところのオルガスムスとかオーガズムとかいうものが、最高に美味しいの』
あたしはその言葉を聞いただけで、顔が赤くなっていた。心の声が聞こえる分、人よりはそう言った行為のことについての、知識だけはあるのだと思う。自分で体験したいとは思わないものの、そう言う行為、例えば、ドラマで見るキスシーンですら、あたしは顔が赤くなる。
『男性の物でも女性の物でも、ね。でも、女性の物の方が、美味ですわね』
綾はあたしの反応を楽しんでいるのか、それとも気付かずに思い出して陶酔しているのか、うっとりと続けた。そして、舌なめずりをする。
つい、その舌の動きに気を取られてしまう。そのことが綾にばれてしまったようで、怪しい目つきで見つめられた。
「な、なんであたしを見る!あ、あたしはお断りですからね!」
あたしは必至で断った。顔が暑くて仕方ない。
『あら?いったい何のことかしら?』
綾が怪しく微笑んだ。
あたしはもう、顔から火が出る勢いだった。答えることもできず、リュックを掴んでアパートを駆けだしていた。
気を付けなければならない。そのうちに、好奇心や、誘惑に負けて、綾に身を任せてしまいそうな自分がいることに気づいた。そんなふしだらなことをしてはいけない。
でも、この気持ちを開放したら、あの裸で過ごす解放感以上に、心地いいものかもしれない。
ダメだ。あたしはそんなんじゃない。自分に言い聞かせ、考えないようにするのが精一杯だった。
11
必死に走ったので、何時ものコンビニでの買い物も忘れてしまった。でも、真っ赤な顔をしたまま、人前に出る気にはなれない。そして、あまり空腹を感じなかった。
気付くと昨日の廃ビルにたどり着いていた。もう戻る気にもなれないので、このまま中に入ることにした。
この廃ビルは、なぜか、一階のトイレがきれいに掃除されている。他の場所は埃まみれなのに、トイレだけ清潔だった。一階の廊下は足跡まみれで、トイレの利用者の物もあるのに。
トイレは水も流れる。紙が無いだけなので、リュックの中にトイレットペーパーを入れてあった。あたしもよく利用している一人だ。
トイレに座って呼吸が落ち着くのを待って、何時もの屋上へ向かった。
昨日、男の人の気配があったものの、あれから誰も来ていないようで、あたしの隠れ家はいつも通り平穏だった。
扇風機を付け、モバイルで講義の視聴を始めた。始めのうちは綾も面白がって眺めていたものの、すぐに飽きた様子で、
『退屈なことをするのですね』
と言ってどこかへ行ってしまった。
どこかで綾の犠牲になる女の人がいるのだろうか。そう思うと、放っておいていいものか悩んでしまう。が、綾が居なければ、邪魔されずに勉強できる。
あたしは勉強を優先した。
昼を過ぎると、さすがにお腹が鳴って、勉強を中断した。余り日中に出歩きたくはないが、コンビニに行って買ってくるしかない。
狐の綾はまだ戻ってきていない。きっとどこかで男女の睦事を見学しているのだろう。あんなにエッチな人だとは思ってもいなかった。野放しにしていたら、誰かが被害に遭うのだろうか。少しばかり、罪悪感があった。
だから、下の方から叫び声が聞こえた時、思わず駆けだしていた。あたしのせいで、誰かが綾の犠牲になったのかもしれない。階段を一段飛ばしで駆け下りた。
風の通らない階段は異様な熱気があった。駆けるごとに、汗が噴き出す。
一階まで駆け下りる。
再び声が聞こえた。上からだ。声の主は、男性だ。
急いで階段を駆け上り、二階へ出た。二階の廊下に出たところで、一人の男性とぶつかりそうになった。
「おっと」
男性が驚いて、一歩下がった。
あたしも咄嗟に後退る。しかし、鉢合わせてしまった以上、何か言い訳が必要だった。何か言うべきかと思い悩んでいたら、男性があたしの体を眺めまわしているのに気づいた。
自分の体を見ると、シャツが汗を吸い、肌に張り付いていた。肌に張り付いた状態は、ニップレスを付けているとはいえ、裸同然の格好だ。
あたしは思わず両手で胸を隠す。そして、身構えた。きっとこの人は、エッチなことを妄想するに違いない。最悪、あたしに触れようとするかもしれない。ここはひと気のない廃ビルだ。どこかに連れ込まれ、いたずらされるかもしれない。
ところが男性は、上着を脱ぐと、あたしの肩にかけた。
「子供とはいえ、体は大人に近づいているんだから、もっと、大事にしな」
男性は妙な説教を言うと、階段に向かった。
『やっぱりあいつには逃げられてたなぁ』
男性の心の声も聞こえるが、あたしのことを考えている風ではなかった。あたしの体には魅力もなかったのだろうか。男性が女性の裸、それに近いものを見て、何とも思わないなんて。
自分で、あばら骨の浮いたみすぼらしい体、だと思っていても、ここまでスルーされるのは、ムッと来た。あたしにこんな自尊心があったことにも驚きだけれども。
それと同時に、妙な感覚があった。普段は人の声が聞こえると、不快感も伴っていた。相手の負の感情を受け取ってしまうせいもあるのだろう。ところが、この男性からは、その不快感が無かった。
なぜかは分からない。見ず知らずのあたしを思いやり、上着をかけてくれた。その行為にも、驚いた。そして、あたしを心配する心の声が、僅かに響いてきた。
思えば、あたしに何げなく接してくれる人はいなかった。あたしが警戒しすぎていたせいもあるのかもしれない。でも、この男性は、何気ない接し方をしてくれたのだ。
男性は階段を下り、そのまま外へ出て行ったようだ。心の声も聞こえなくなる。不思議なことに、あたしは聞こえなくなったことを残念に思っていた。こんなこと、初めてだ。
今までの人は、大抵、不満の声を心の中で発している。たまたまなのかもしれないが、今の男性は、不満の声が聞こえなかった。そしてあたしの、裸同然の、シャツが肌に張り付いた状態を見ても、淫らな考えを起こさなかった。
嬉しくもあり、自尊心を傷つけられたようでもあった。そしてなぜか、安らぐ思いがあった。あたし自身でもよく分からない感情が渦巻いていた。
あたしはトボトボと、上へ戻った。上着をかけられたとはいえ、この濡れた状態で外に出るわけにはいかない。
いつもの場所へ戻り、男性の上着をリュックの上に置くと、張り付いたシャツを苦労して脱いだ。
上半身裸のままで扇風機の前に立つと、風が冷たくて気持ちいい。が、そのまま風に当たり続けるのは体によくなさそうだ。あたしは扇風機の後ろへ回り、濡れたシャツを両手で、扇風機の前へ押し出した。
扇風機の羽に吸い込まれる風が、僅かにある。ゆっくりとだが、体の熱も一緒に吸い込んでくれるようだ。
しばらく、シャツを扇風機の風に当てていると、なぜか視線を感じた。
『おやおや。私のいない間に、何かいいことをなさったようで』
視線の主はそう言って、あたしの上半身を嘗め回すように見つめていた。
体を隠そうとすれば、シャツを乾かせない。乾かさないと、ここから出ることもできない。かと言って、綾に見つめられたままにするのも、恥ずかしいし、癪だった。
苦心の末、片手で胸を隠し、片手でシャツを扇風機の風に当て続けた。
『あらあら。隠すこともないのに』
綾は残念そうに言うと、狐の手があたしの背中に触れた。驚いたことに、綾に触れられている。壁もすり抜ける存在の綾に、だ。
『大分汗をかいたようですね。その胸の、ニップレスと言いましたか。それも一度外して乾かしたほうがいいと思いますよ』
綾はもっともらしいことを言いつつ、あたしの体のあちこちに触れようとしていた。
「やめて!」
あたしは体と足を振り回して綾を遠ざけた。どうやら、あたしからでも、綾に触れることができるようだ。あたしの太ももが綾に触れ、綾は避けるように飛び退いた。
綾を睨みつけつつ、綾の言い分ももっともだと思い、片手でニップレスを外した。リュックの中からタオルを取り出して拭き、タオルの上にのせて、男性の上着の上に置いた。
『なかなか立派ですね』
綾が嬉しそうにつぶやいていた。あたしの胸のことを言っているのは、聞かなくても分かる。
すぐに片手で隠し、濡れたシャツを扇風機の風の中に入れた。後から思えば、なぜタオルで胸を隠そうとしなかったのだろう。あたしもつくづくバカだ。
「どうせ、変な形してたでしょ」
見られたのは恥ずかしく、嫌なことだったが、あたしの胸の突起が、上に突き出ているのは、人とは違う、不格好なものに思えた。
『そんなことはありませんよ。肉付きがよくなれば、綺麗な形になると思いますよ』
綾はあたしの恥ずかしさや、体に対するコンプレックスに気づいたのだろう。当たり障りのない慰めを言ってくれた。
『肉付きは本当によくすべきですね。腰のくびれ、というよりは、へこみと腰骨、ですし』
綾はあたしの体をじっくり鑑賞して、批評していた。
でも、あたしは食が細い。そして、体が成長するのが怖かった。さすがに月の物との付き合い方は慣れてきたものの、女性の体特有の症状が他にも出てくるかもしれない。相談する相手もいない状態で、そう言う初体験は、望まない。
『私はこれでも長く生きていますのよ。体について、不安なこと、分からないことは相談くださいな』
綾はあたしの心を読んだようだ。優しい言葉をかけてくれる。本当に、頼りにしてもいいのだろうか。人ではない存在の綾に。幽霊とか妖怪とか、そう言った類の存在のはずだ。
『私はこれでも、人間として過ごしたこともあるのですよ』
「え、そうなの?」
『ええ。私たちは力を得ることで、受肉…肉体を得ることが可能なのです。受肉して、人間の男性と恋をして、家庭を持ち、子育てをして、老いる、ということも経験しました』
あたしの頭では理解が追いつかない。そうなのか、とありきたりなことしか感想を持ちえなかった。
『私たちは肉体が滅んでも、消滅することはありません。現に、このように存在していますでしょう?』
「うん、まあ。でも、狐でしょ?」
『狐は人に化けるのが得意なのですよ』
綾はそう言って笑った。
『漠然とご理解いただければ、結構ですわ。ともかく、祐美は、そうね。あと十キロくらい体重を増やすべきですね』
「十キロも?」
『ええ。そうすれば、胸のサイズも、二、いえ三つ上のサイズになるので、もっと自信を持てる形になると思いますよ』
「そ、そう?」
『ええ。私が保証します』
「って、胸の心配をしているんじゃないんだけど!」
あたしの気持ちと言葉は裏腹だった。胸の心配をしているのではないと言っても、胸の形は確かに気にしている。でも、今問題なのは、綾に見つめられているのことだ。恥ずかしくてしかたない。恥ずかしいけれども、あたしのこの胸、形がよくなるのだろうか。
『あら?減るものでもなし、いいじゃないですか』
「あたしの気持ちが減ります!」
『わがままですねぇ。裸にならなければならないようなことをなさるからでしょう?』
「してません!汗かいただけ!」
『だから、汗をかくような運動を…』
「少なくとも、綾が思うようなことはしてません!」
どうやら、話題を変えない限り、堂々巡りに陥りそうだ。あたしの顔も暑くなりすぎて、けむりが出そうだ。何か別の話題に逃げなければ。
「そう言えば、さっき、綾があたしの体に触ったような」
『ええ、触りましたね』
「触れないんじゃなかったの?」
『私の力が増したので、少々なら、触れられるようになりましたの』
「力が増した?」
『ええ。ですので、祐美が私に慰めて欲しいときは、是非とも…』
「結構です!」
『あらそう?』
「いいから!で、どうして力が増したの?」
『ああ、それはですね。すぐそこに、男女が交わるための部屋があるのですよ。そこで私の栄養となる感情を集めていたおかげですね』
あたしは綾の言葉に、どこを突っ込むべきか悩んでしまった。男女の交わる場所、というのは、たぶん、あれだろう。単語を出して考えるのも恥ずかしい。
「すぐそこ?」
『ええ。そこの、尖塔がいくつもある、塀で囲まれた場所です』
綾の言う場所として該当するのは、あたしがお城のように思っていたものだ。それ以外に思い当たらない。
お城のように思っていたのに、そう言う如何わしい場所だったなんて。あたしはショックを受けていた。あたしの顔はずっと赤くなったまま、戻りそうもない。
『興味はおありですね。でも、祐美が利用するにはまだ早いですね。まずは体を作って…』
「利用しません!興味ありません!」
あたしはまた裏腹なことを言っている。興味が無いわけではない。あたしも年ごろの女の子なのだから。でも、心の声が聞こえるために、人一倍知識があって、敬遠してしまう事柄にもなっていた。
綾が面白そうにあたしを眺めていた。
そうだった。綾は心が読める。あたしが裏腹なことを言っていると、分かっているのだ。全て御見通しなのだ。だからこそ、からかっているに違いない。
綾はそれ以上、追求しなかった。代わりに、全く別のことを言った。
『シャツが乾いたら、買い物に行きましょう。料理をして、食事の改善です』
その先に、あたしの肉付きの改善が、含まれている。綾の心の声が、大きく告げていた。
12
シャツが乾くと、身支度を整えた。せっかくなので、男性の上着も着込んだ。シャツに汗のシミができていたから、これで隠せる。ちょうどいい。
上着は、形はスーツのようでもあるのだけど、前を止めるのはボタンではなく、ジッパーだった。襟は飾りのようなものが付いているだけだ。しかし、生地はよく見ると、折り込みで柄が表現してある。襟首の内側にブランド名らしきアルファベッドがあった。
あたしは服に詳しくないので知らないブランドだったが、表面の折り込みのきめ細やかさから見て、安物ではなさそうだった。
こんなものを、見ず知らずのあたしに渡すなんて、どういう人なのだろう。
上着を羽織り、リュックを片方の肩に引っ掛けると、階段を下りて行った。
歩きながら、男性のことを考えてみる。
身長は、あたしより頭一つ分ほど高かった。短めの髪に、少し白髪があったように思う。あたしの父親と同じくらいの年齢だろうか。緑色のシャツを着て、ベージュのズボンを穿いていた。サラリーマンよりはラフな格好だ。でも、この上着を着ていたら、ラフには見えないかもしれない。
そして何より、その男性の心の声を聞いても不快に思わなかったことが、印象深かった。大抵の人は、負の感情がどうしても混ざる。あの時、あたしは汗に濡れたシャツが体に張り付き、裸同然、いえ、もっと恥ずかしい格好になっていた。なのに、あの人は卑猥なことも考えなかった。ただ、あたしを気遣ってくれていただけだ。
父親と同じくらいの年の男性が、どうしてこうも気になるのだろう。その人の上着を着ているからだろうか。
『あらあら。隅に置けませんねぇ。男の人を思い煩うなんて』
綾があたしの心を読んで、茶化した。
「そうい…」
口に出して反論しようとして、思いとどまった。今は外を歩いている。他の人が見たら、あたしが独り言をつぶやく変な人に見えるに違いない。
(そういうのではなくて…。その、変わった人に会ったから、気になってただけ。この上着もその人のだし)
『そうなの?』
あたしはいつの間にか、綾と普通に接していた。案外あたしは、生きた人間より、こういう人外のものの方が、打ち解けるのかもしれない。お互いに心が読める、ということも影響しているのかも。気心の知れた間柄、というのは、綾とあたしの関係のようなものなのかもしれない。
綾はそういうあたしの思いには、あまり触れなかった。綾なりの気づかいだったのかもしれない。それがあたしにはちょうどよかった。綾が、年の離れた姉のようにも思えていた。
少し離れた場所にあるスーパーへ向かう道中、綾は、自分が付き合った男性について、馴れ初めを幾つか話してくれた。あたしが着ている上着の男性のように、何の気ない出会いから始まったものもある、という話から、色々な馴れ初めを話してくれた。
あたしには触れることの無かった人と人との触れ合いの話は、大変興味のわく内容だった。いわゆる恋バナというのだろう。こういうのは。あたしも恋バナが好きな人種だったのだと、初めて知ることとなった。
そして、もう一つ気付いたことがある。綾の話に夢中になっていたためか、周りに人がいても、気にならなかったのだ。心の声があまり響いてこなかった。不思議なこともあるものだ。
『何かに没頭していると、よくあることですわ』
綾はあたしのこの不思議な状態を説明してみせた。
『そうね。例えば、テレビを見ていて、電話がかかってきたら、出ますよね?電話していたら、テレビの内容は頭に入ってこなかったり聞こえなかったりするでしょ?』
(うん、そういうこともあったかも。本を読んでいたら、時間を忘れてた、とか?)
実際、読書に夢中になる余り、隣の帰宅に気づかなかったこともあった。読み終えた後、隣から心の独り言が聞こえ、時計を見て驚いたものだ。
『周りの音を耳で聞くことも、心の声を聞くことも、実は大差ないのですよ。周りの音が聞こえなくなるほど集中できていれば、心の声も聞こえないものなのです』
(へー)
『昨日、ビルの上から行った訓練も、その一環だったのですけど、祐美は優秀ですね。もうコントロールできる入り口にたどり着いているようです』
あたし自身に、綾の言うコントロールの実感はない。なので、何が優秀なのかもよく分からないものの、言われて悪い気はしなかった。
スーパーにたどり着き、カゴを持って店内に入る。レジも含め、多くの人がいた。しかし、綾の言う食材を捜し歩き、選び方を教わっていると、周りの声は気にならなかった。
ある意味、あたしは拍子抜けだった。もっと苦労して、やっとのことで習得する静寂だと思っていた。それはまだまだ先の話で、今は周りの人々の心の声が聞こえるものと思い込んでいた。なのに、こうもあっさり、意識の外に追いやれるものだとは。少し物足りない気もする。だからと言って、多重放送の心の声を聞く気もないのだけど。
綾の言う野菜の選び方のコツは、これまたぴんと来なかった。何度も見て、触って、覚えるしかなさそうだ。そもそも、そう何度も買い物に来るかも、まだ分からない。
一通り買い終えると、綾が雑貨屋はないかという。すぐ隣に百円ショップがあったので、重い買い物袋を提げたまま、隣に移動した。そこでは小さなタッパーを幾つか買うように言われ、従った。
おかげで財布の中身がかなり乏しくなった。これで次の入金まで、凌げるのだろうか。綾は簡単に、大丈夫よ、と請け負ったが、不安で仕方ない。
『さあ、アパートへ戻りましょう』
綾は料理が好きなのだろうか。うきうきと言った。とはいえ、狐の体では、料理もできないだろう。あの小さな手で包丁を握りしめ、可憐に野菜を切るシーンは、想像できない。包丁の柄を握ろうとして握れない様子が思い浮かび、微笑ましかった。
いつもよりだいぶ早くアパートへ戻ったので、まだエアコンも動いていない。蒸し暑い部屋に入ると、急いでリモコンを操作した。そしてカーテンを閉めて、日差しを遮断した。
男性の上着をハンガーで壁にかけ、洗面所でショーツ一枚の格好になる。ニップレスも洗浄しておいた。
やっぱり先にお風呂へ入るべきだと思い直し、買ってきた食材を適当に冷蔵庫に納めた。ほぼ使っていない冷蔵庫に、初めていっぱい物が収まった。
『ああ、野菜室というものがあるのに』
綾の抗議を無視して、適当な棚に押し込んだ。
そう言えば、ほぼ裸の状態だと言うのに、綾はあまり見つめてこなかったし、からかってもこなかった。
あたしは急いでお風呂へ入り、汗でべとつく体をシャワーで洗い流した。こんなにもシャワーって気持ちいいものなのだと、改めて実感する。が、あたしは朝もお昼もご飯を食べていない。さすがにお腹が鳴って仕方ないので、早々にシャワーを済ませて上がった。
ショーツを穿いて、寝間着の上側だけ着こんで台所へ戻った。
エアコンがやっと効いてきたようで、蒸し暑さだけは収まっている。
綾は台所で大人しく待っていた。風呂に覗きに来なかったのも、不思議だ。
『お風呂は女の子にとって、大事なところですもの』
綾はそう答えると、あたしに食材を出すように指示した。
『今日は、煮物と、みそ汁を作りましょう。それを買ってきたタッパーに一食分ずつ詰めて、冷蔵庫で保管するの。食べるときはそれをレンジで温めればいいから』
妖怪のくせに、なぜか家電に詳しそうだ。あたしはそんなことを思いつつ、綾の指示に従った。
まず、お米をといで炊飯器にセットする。野菜を洗い、まな板と包丁の使い方から教わりつつ、切ったり皮をむいたりを行った。
綾の指示通りに食材を鍋に投入して煮込む。包丁の扱いに比べれば、楽なものだ。調味料を入れていくと、いい匂いが立ち上った。
あたしのお腹が盛大に鳴り、顔が真っ赤になった。綾はおかしそうに笑っている。
『健康でよろしいですわ』
フォローになっていない気もする。が、言い返す言葉もなく、黙って料理を続けた。
みそ汁が完成する前に、炊飯器から炊き上がりを告げる音が鳴った。意外と時間がかかっていたらしい。
『しゃもじに水を付けて、炊きあがったご飯を混ぜるの』
言われるままに行動する。お米の粒が立ち上がり、何ともおいしそうに見えた。もうあたしのお腹は抗議しっぱなしで、止まってくれない。
『しゃもじに水を付けると、ご飯粒がこびりつきにくいので後が楽なの』
綾の小話も、あまり耳に入っていなかった。
『あらあら、もう。お腹を空かせたわんぱくさん』
綾は楽しそうに笑っていた。
しかし、なんとか初めての料理が出来上がった。お皿に盛りつけてみると、いびつな形のジャガイモやニンジンが見える。でも、匂いはいい。みそ汁の中で、豆腐が砕けている。でも、みその匂いだけで、口の中に唾を誘った。ただカットしただけの緑の野菜サラダとごはん。これが今日のメニューだった。
今まで、一食はコンビニのおむすび一つ、が定番だった。目の前にある食事はその何倍もある。が、こちらの方が、食欲をそそられた。あたしの体がこんなにも食事を欲するのは、自分でも驚きだ。お腹が鳴り響き、口の中の唾液が止まらない。
綾は器に盛りつける量にも注文を付けた。
『今までおむすび一個でしょ?なら、体が受け付けないので、もっと少量ずつで』
「でも、こんなにお腹鳴ってるのに?」
『食欲は起き出したようだけど、胃が追いつかないの。後で胃液と共に吐き出したくなければ、少量ずつにしておきなさい』
あたしは納得できなかった。お腹がこれほど鳴って、食事を要求しているのだから、大丈夫に違いない。
『後悔するわよ?』
でも、今は平気そうな気がする。
従わなければ、あたしが吐き出すことになると、綾は確信しているようだった。
『吐いたら、その食費がもったいないわね』
綾のその一言で、不満ながらも従うことにした。なけなしのお金で買った食材を調理したのだ。無駄にはできない。あたしは何時からお金のしもべになったのだろうか。
すべて用意が終わると、
『ほら。食べてごらんなさい。見た目はともかく、分量を間違えなければ、味はいいものよ』
綾が姉か母親のように優しく言った。
あたしはみそ汁を一口すすった。みその香りが鼻を刺激する。温かいものが食道を通って胃に向かうのが分かる。たったそれだけの事なのに、体が軽くなったような気がした。活力がわいてきたような気がした。そして、もっと食べたいと思う。
そこからは、あたしは憑りつかれたかのように食事に没頭していた。綾に言われて量は減らしたものの、おむすび一個と比べて、相当量が勝るこの食事も、難なく食べきってしまった。
まともな食事をしたのは、何時ぶりなのだろう。母の手料理も、何時からかまともに食べなくなっていた。ということは、十歳くらいが、最後かもしれない。
食事がこんなにも美味しいもので、心が満たされるものだとは、知らなかった。ただ物を食べただけなのに、妙な充足感を味わっていた。
『食事と睡眠は、生活の基本』
綾が呟いた。
確かにそうなのかもしれない。あたしのこの痩せ細った体に、力がみなぎってくるように思えた。
『でも、そのためには手間も増えるわ』
綾はそう言って、後の指示を出した。ご飯を一膳分ずつタッパーに詰めて冷凍室へ、煮物とみそ汁も小分けして冷蔵庫へ収めさせた。残った野菜は野菜室へ。余った肉はラップで包んで冷凍庫へ。鍋や使った食器を洗って片付け、やっと終わりだった。
13
気付けばもうあたしの就寝時間をとうに過ぎていた。結構早い時間に帰宅したのに、もうこんなにも時間が経っているとは。食事を作るのに、それだけ時間がかかったのだろう。
それにしても、我ながら、美味しい食事だった。自分でも上手に作れたとは思わない。しかし、味は申し分なかった。
食べることがこれほど幸せな気持ちになるのだと、初めて知った。なぜこんなにも、ホッとした気持ちになるのだろう。余韻に浸るように、ベッドへ横になった。思わずため息が漏れる。
『きれいなお肌…。若いっていいわね』
綾が、たぶんあたしを見ながら、うっとりと言っていた。
そう言えば、あたしは寝間着の下を穿いていない。素足をさらしたままだった。
『肉付きがよくなれば、さぞいいでしょうに。でも、お肌のお手入れも、もうそろそろ始めておいた方がいいわよ?』
テレビを見ていると、女性がお肌のお手入れ、などと言うコマーシャルや通販番組が流れることもあったが、あたしにとってはぴんと来なかった。
『美容液とか、ムダ毛のお手入れくらいは始めましょう』
綾も通販商品を薦める司会のように言う。
「それって、化粧品を買うってこと?お金が無いからいい」
顔を上げて言うと、綾はあたしの足を見つめながら、しばらく考え込んでいた。
あまり見つめられると、なぜか、恥ずかしい。毛布を取って足にかけ、隠した。
『そうね。まずは食生活の改善からね。でも、少しずつお金を残して、必要なお手入れ用品を買うわよ』
綾はルームメイトか何かだろうか。あたしの家計にまで気を配っている。
「そんなにお手入れが必要なの?」
『もちろん!』
「即答なのね」
『四十代にもなれば、差が歴然と出てくるわよ?』
まるで脅しのように言う。でも、そんな先のことは想像だにできない。
『それが若さよ』
綾がため息交じりに、あたしの心の中のことに返事をした。
『でも、今でもできることはあるわ』
綾の必死さが気になり、
「なに?」
と、そっけなさを装いながらも聞いてみた。
『湯船にためたお湯に浸かってしっかりとリラクゼーションすること』
「たったそれだけ?」
『ええ。精神状態がお肌に影響するもの』
「ふーん」
帰宅直後にシャワーは浴びたものの、綾の真剣さに影響されたのか、あるいは食事の支度や片付けで汗をかいたのか、もう一度お風呂に入るのも悪くないと感じていた。
そう言えば、湯船に浸かるのは、当分やっていない。
「試しに入ってみようかな」
あたしはそう言い置いて、お風呂場へ向かった。
『ごゆっくり』
湯船にお湯を入れる間に歯を磨き、洗面所で部屋干しされていた洗濯物を片付けた。
再び裸になり、改めて自分の体を確認した。あばら骨が浮いている。ウエストがくびれていると言うよりは、お腹が引っ込み過ぎて背骨が見えそうだ。腰骨の出っ張りが目立つ。お尻はあるのかないのかよく分からない。腿に肉はない。ふくらはぎは若干膨らんでいるものの、周りは骨と皮ばかり。
綾に肉を付けるように言われているからだろうか。今まであまり気にもならなかったのに、今は非常にみすぼらしく見えた。まるで女の子らしくない。と言うより、人間らしくない。できの悪い人形か、枯れ枝のようだ。
今のままではだめだと、自分でも分かった。でも、食事を改善するだけで、綾の言うように肉付きがよくなるものなのだろうか。あたしには分からない。綾に従ってみるしかないだろう。
あたしはまだお湯が注がれ続けている湯船に、ゆっくりと浸かった。
体の力が抜け、何とも心地いい。
それにしても、出会ったばかりの、それも人間ではない綾と、こうも打ち解けて、あたしが従うようになるとは、考えもしなかった。もしかして、あたしは綾を、人生の先輩として尊敬し始めているのかもしれない。今まで知らなかったことをいろいろ教えてもらえそうだ。エッチなことは御免こうむるが。綾はそっち方面が得意そうだけども。
あたしは頭を軽く振って考えの方向を変えた。
綾と出会うことで、あたしは人として大きく成長できそうな気がする。綾の指導で料理を続ければ、いっぱしの物が作れるようになるだろう。将来誰かに作ってあげたいと思った時に役立つかも。いや、そんなことあるはずもない。心が読めるので、他人と打ち解けることはまずできない。食事を作るような親しい仲になれる相手がいるとは思えなかった。
でも、綾のおかげで心を読む力を制御できるかもしれない。現に、今日は買い物中に人の心を聞かずに済んだ。今日のようにできれば、他人とも親しくなれるかもしれない。
例え心を読んでしまっても仲良く…綾のように付き合うことができる相手。
しばらく考えてみても、想像できなかった。綾は特殊なのだ。きっと。人ではないのだし。
体が火照ってきた。気のせいか、毛穴が開いたような気がする。湯が、あたしの体に染み込むような感覚があった。
実際にはそんなことないと思う。でも、湯があたしの体に入り、清められたような気持がした。
湯船から出て、軽く体を洗って流すと、何時もより心地いい。気のせいだろうか。綾に聞いてみると、分かるのだろうか。
あたしはぼんやりと考えながら、お風呂を出た。
上気した体が、ピンク色に染まっている。タオルで優しく拭くと、これも心地いい。
『本当は、拭き終わった後に、保湿クリームとか化粧水をお肌に塗りこむといいのよ』
綾の声が聞こえ、思わず覗いているのかと辺りを見渡した。しかし、見える範囲にはいないようだった。洗面所の音で判断して言ったのかもしれない。
(どうして?)
心の声なら、距離も関係なくはっきりと聞こえるだろう。顔を拭いていても問題ないだろう。
『お肌は乾くと乾燥しやすいの。でも、お肌は潤いが必要なのよ』
(ふーん)
『二十年後くらいには実感すると思うわ』
(へいへい。ところで、湯船に浸かっていたら、毛穴が開いたような気がしたけど)
せっかくなので、さっき思ったことを聞いてみた。
『ええ。広がるわね。でもよく気付いたわね。普通は分からないものよ。毛穴が広がってそこにある汚れが出るの。怠ると体臭のもとになるのよ』
(へー)
あたしは拭き終わった体に鼻を近づけてにおいを嗅いでみた。石鹸のにおいしかしない。
洗うものを洗濯機に入れ、洗濯を始めた。
『さあ、体が冷える前に服を着て』
洗濯機の音が響いていても、綾の声はしっかりと聞こえた。
(どこから覗いているの!)
『見てないわ。でも分かるわよ。祐美は、洗面所で、裸になるのが大好きだもの』
(何その誤解のある言い方は)
『あらそうかしら?』
確かに、間違ってはいない。人がいない、閉鎖されたこの空間で、あたしは自由を堪能している。
あたしはショーツと寝間着を着こんだ。体を包むものがあると、あたしは束縛されたような気もする。だからと言って、裸で人前に出る気はない。洗面所はあたしの小さな、くつろげるスペースなのだ。
でも、服を着た以上、ここを出る。それに、これ以上綾に何か言われたくない。
隣の部屋から、心の声が聞こえてきた。
『聞くまいとしてはダメ。聞き流すようにして』
綾が先んじて言った。
(もう隣が帰宅する時間なのね)
あたしは少し驚いた。そして、警戒した。また心の声が聞こえると思うと、嫌になる。
『自分の力を否定しないで』
(でも)
『いいから。綾お姉さんの目を見て』
綾があたしの目の前に浮かんでいた。
(宙にも浮けるんだ?)
『霊体だから』
綾はそう言ってほほ笑んだ。狐も微笑むのかと、感じ入った。するとどうしたことか、隣の心の声が聞こえなくなっていた。
『今はそれでいいわ。さ、体が冷える前に、寝支度しましょう』
あたしは綾に守られながら、支度を整え、ベッドに横たわった。まるで綾に寝かしつけられる幼子のように、あたしはあっさりと眠りについていた。
14
それからの数日間、あたしは実に充実した日々を過ごした。あたしがこのような生活を送れるとは、想像だにしていなかった。生涯、人々を避け、隠遁な生活を続けると思っていた。
現実をみれば、そんな生活、資産家か宝くじにでもあたらない限り無理な話だと分かるのだけど、当時のあたしはそう思っていた。
ところが、狐の霊の綾と知り合って以降、たった数日で、激変していた。
綾の指導で、人々の心を、あたしから聞くようにした。午前中、比較的人通りの少ない所で実行した。綾の指導がいいのか、あたしは大勢多数の心の声を同時に聞いて、悩まされることが減っていった。
綾は微笑み、
『優秀ですね』
と褒めてくれた。
あたしは何となく嬉しくなり、より一層頑張れた。ただ、おかげで、通信教育の講義を進めるのは疎かになった。
料理は毎日作る必要はなかったものの、冷蔵庫の減り具合を見て、次の料理を、綾の指導の下に行った。
こちらも回数を重ねるごとに、目に見えて進歩があった。包丁がまな板を叩く音が、一定のリズムを奏でるようになると、作っているあたしもなんだか楽しくなった。
が、油断すると指先を切ってしまう。まだまだいっぱい修業しなければならない。
化粧品を買うお金がないならと、綾にデパートの化粧品コーナーを訪ねるようにアドバイスされた。行ってみると、試供品がもらえた。綾はどこでそういう知識を身に着けてくるのだろう。
デパートは電車で一駅分移動した所にある。この界隈では一番大きな町の、駅の目の前だ。郊外型のモールが流行り、駅前はだいぶ廃れた雰囲気があるものの、そのデパートは古い建物ながら、駅前に存在感を醸し出していた。
こういうところも、綾が居なければ、出会わなければ、来ることはなかった。あたしは綾に感謝したし、姉のように慕うようになったし、時に母親のようにも感じて、甘えたくなった。
当の綾と言えば、案外マイペースで、ふらっといなくなっては、翌日に帰ってきたりした。そう言う時は大抵、男女の睦事を見学に行っているようで、あたしはもう何も聞かないことにした。聞けば恥ずかしい思いをするだけだ。
前の日も綾はふらっといなくなり、どうせ朝には顔を見せると思っていたら、朝の身支度が済んで出かける段階になっても戻ってこなかった。
どうしたのだろうと不安になる。でも、今日はじっと待つわけにはいかない。日曜の今日は、約束がある。約束の時間に約束の場所へたどり着かなければならない。
真紀曰く、心美の嘘だと言う。心美が人にかまって欲しくてついた嘘だと言う。実際にイベントスケジュールにはなかったので、嘘だと分かった。嘘だから、行かなくてもいいのかもしれない。でも、行くと約束した以上、行かなければならない。ガラス細工のような心美を、放置できなかった。
あたしは時間ぎりぎりまで綾を待った。それでも帰ってこないので、仕方なく、アパートを出て駅へ向かった。
先日、化粧品の試供品をもらったデパートのある町へ向かい、そこから南へ三十分ほど歩いたところにあるイベントホール。そこが目的地だ。
平日なら混み合う時間帯の電車も、日曜はまだ空いていた。それがあたしには救いだ。
綾がいない今、人が大勢いる場所はやはり怖い。大勢の心の声が一度に聞こえ、パニックになるかもしれない。実際、過去にそう言うこともあった。頭痛が激しくなり、吐き気を催したこともあった。あたしは世界から隔離され、雑多な音で攻め立てられる。それが永久に続くかと、恐怖したこともあった。あの不快感、恐怖はもう味わいたくない。
たぶん、この感覚は誰にも分らない。分かってもらえない苦痛。不安。でも、綾は違った。だから、なのかもしれない。あたしは綾を頼っている。綾を探して、不安がっている。姉の優しい手を求めるように、母親の抱擁を求めるように。
イベントホールにたどり着くまで、何度も振り返って綾を探した。その度にがっかりし、不安が増した。
あたしのそんな気持ちとは裏腹に、イベントホールへたどり着いてしまう。
いっそ引き返してしまおうか。そう思った途端、足が動かなくなる。逃げてしまいたい。人が増える前に、何時もの隠れ家へ逃げ込んでしまいたい。
逃げてもいい。いいはずだ。そう思う一方で、心美との約束、真紀との約束を守らなければという使命感もあった。せっかくここまで来たのに、ここで逃げ出したら、全てが無意味になってしまう。
心美に対してそれほどの思い入れはない。ただ、壊れやすいガラス細工のような女の子の心を、砕いていいのだろうか。
真紀も来ると言っていた。あたしが逃げ帰れば、真紀も裏切ることになる。真紀とは、モバイル越しの付き合いでも、何処か友情があるように感じていた。あたしのかってな思いかもしれない。けれど、その友情を壊していいものだろうか。
あたしが少し頑張れば、真紀との友情を守れ、心美のガラス細工の心を壊さなくて済むはずだ。
そう思うと、重い足が、動いた。
イベントホールに入ろうと戸口を押す。しかし、鍵がかかっていて動かなかった。考えてみれば、当然だ。今日はイベントの予定がない。
ここで待つべきだろうか。別の入り口を探してみるべきだろうか。それとももう帰ってもいいのだろうか。
悩んで辺りを見渡すと、近づいてくる人が見えた。淡いピンクのブラウスに水色のフレアスカート。白い靴下が眩しい。その上の足も白い。モバイル越しに見た、ウェーブをかけたセミロングの女の子が、あたしを見つけた途端に眩しいほどの笑顔を見せ、駆け寄ってきた。
どこかお嬢様のような、お人形のような雰囲気だ。でも、なぜか、幼く見える。心美はあたしと同じ十五歳のはずだ。なのに、小学生のような、雰囲気とでもいうのだろうか。そんなものがあった。
無邪気、天真爛漫と言う言葉が当てはまりそうだ。なんだろう。どこか、無防備な様子が見て取れた。
近づく前から、心美の心の声は聞こえていた。無邪気に、あたしがいることに喜んでいる。嘘をついて呼び出した事などと微塵も考えていなかった。彼女にとっては、嘘ではないのかもしれない。
あたしには嘘をつく人間の心情など分からない。今までそういう人と関わっていないのだから。
あたしはイベントが無いことを知っている。なのに、心美の心の中では、イベントがあることになっていて、あたしが来ていることに大変感謝していた。
これはどういうことなのだろう。考えている間に、意外と走るのが遅い心美も目の前に迫っていた。
「よかったー!来てくれたのねー!」
心美の声が明るく弾んでいた。でも息が切れているようで、途切れ途切れだった。
「おはよう」
あたしは何と答えていいか分からず、とりあえず、挨拶をしておいた。これで帰る選択肢は消えた。
「嬉しいー!来てくれるなんてー!」
心美のこのはしゃぎ様を見ると、悪い気はしなかった。彼女の心の声も一致している。でも、心美は嘘をついている後ろめたさはないのだろうか。心の声にも、そう言う気持ちはなかった。
あたしが世間を知らないだけなのかもしれない。嘘をついて平気でいられる人がいるとは、思えなかった。では今の心美の状態は、一体どういうことなのだろう。どれほど外見を取り繕うと、口先でうまくあしらおうと、心の声は偽れない。でも、心美の心は、表情と一致しているし、嘘をついて呼び出した後ろめたさや何かを企んでいる様子もなかった。だから、今の心美の状態がどういうことなのか、あたしには理解できなかった。
どう対処していいか分からずにいると、心美はあたしの目の前まで駆け寄り、あたしの手を取って、更にお礼を言った。何かがあふれてきそうな笑顔だ。
心美のあふれる思いを表すかのように、心美のスカートがふわりと広がる。今時こんなスカート穿く子がいるのか、と思わず感心してしまった。
心美はお礼だけでは物足りなかったのか、あたしに抱き付いてきた。鞄が間にあるので、触れる部分は少ない。でも、ここまで人と接近したことが無いあたしは、あまりのことに固まってしまった。どう対応していいか分からない。
心美の目が、すぐそこにあった。やや茶色がかった瞳が、うるうると輝いて、あたしを見つめていた。
「本当にありがとー!」
心美はもう一度言い、笑った。
「うん、あの…」
あたしはどうしたのだろう。言葉が出てこない。何をどうすればいいのだろう。首筋に感じる、この温もりは何なのだろう。少し湿った感触で、弾力がある。心美の腕の感触。心美が寄り掛かってきた体の重み。目の前に見える綺麗な瞳。柔らかそうなピンクの唇。
あたしは手持無沙汰な両手で、心美を抱きしめればいいのだろうか。それともつき離せばいいのだろうか。何もせず、ただ心美の顔を見つめていればいいのだろうか。誰かに答えを教えて欲しい。綾がここにいてくれればよかったのに。
でも、綾はどこかに行ったまま、いない。綾に聞けないと思うと、不安になってくる。
あたしの表情が曇ったのかもしれない。心美が首をかしげるようにして、離れた。でも両手はあたしの肩に触れたままだ。
「迷惑だったー?」
心美の表情が、あっという間に泣きそうになった。
「え、いえ、違う。その…」
心美の表情に、あたしの胸が締め付けられた。何か言葉を発して誤解を解こうと思っても、何を言っていいか分からない。あたしって、こんなにも人と接するのが下手だったんだ。何とかしたいのだけれど、何も言えない。ただただ焦るばかりだった。
「あ!いた!」
大きな声が聞こえて、横を向くと、背の高い、ボーイッシュな女の子がいた。ショートカットで、Tシャツにホットパンツ、白いスニーカー姿の、真紀だ。全身を見るのは初めてで、意外と背が高いと驚いた。あたしより二歳年下の女の子なのに、あたしより背は高そうだ。
真紀はある意味、救世主だった。心美の対応に困って焦っていたあたしの平常心を取り戻させてくれた。
「うそー!真紀ちゃん…」
心美は両手で口を押さえ、目を大きく見開いていた。
「うん。おはよ!」
真紀は明るい声で答えると、軽い足取りで傍まで近づいてきた。真紀の心の声は、聞き取りにくい。たった一人なのに、何人も真紀が存在するかのように、たくさんの声が聞こえ、重なっているので、判別できない。でも、悪い印象は受けなかった。
「さてと、イベントはやってないみたいだし、どこか別の場所で話でもする?」
真紀は会場の確認もせず、唐突にそう切り出した。
「えー?嘘―?ここで間違いないはずよー!」
心美はイベントホールの入り口に駆け寄り、戸口を揺り動かした。しかし、押しても引いても、僅かに動き、ガチャガチャと金属音が鳴り響くだけだった。
「そんな…。どうして…」
振り向いた心美の頬に、涙が流れていた。これが演技なら、大したものだ。でも、あたしには心の声が聞こえる。あれは演技ではなく、本当に動揺し、理不尽さに打ち震えている。
「ふむ…。そう来るか」
真紀はそう呟いて、考え込んでいた。
「どういうこと?あたしには心美が嘘をついているように見えない。ううん。あれは嘘をついていないよ」
あたしは理解できていないので、真紀の意見を聞きたかった。
心美は手当たり次第に戸口をガチャガチャと動かし、悲壮な顔で右往左往していた。
「たまにいるんだよ。自分で言い続けたことがいつしか本人の中では真実になってしまう人が」
真紀が呟くように言った。
どういう意味だろう。言い続けたら真実になるなんて、あり得ない。現実が変わるわけがない。あくまでその人は嘘を言っているだけだ。
それとも、あたしのように特殊な力を持った人がいて、念じれば現実が変化するのだろうか。それは、あまりに都合のよすぎる能力だ。その人が欲しいものを念じれば、自動的に手に入るようにできると言うことだ。そんなはちゃめちゃな能力、有ってたまるか。
でも、それはあたしの感想に過ぎない。現実にそんな能力を持った人がいるのかもしれない。
真紀は、たまにいると言った。そうすると、そんなはちゃめちゃな能力者が複数いることになる。その能力者同士が出会ったら、互いに望む方向へ運ぼうとして、世界が混とんと化しはしないだろうか。結果が出るまで、その攻防が延々と続く、時間の止まった世界にでもなるのだろうか。
あたしは自分でも、突拍子もないことを考えたものだと、驚いた。変な妄想よりも、目の前の心美だ。
そう思って顔を上げると、真紀があたしを見つめていた。右往左往する心美はそのまま放置されている。
「心美を何とかしないと」
あたしは何の解決策も見つけられない。でも放っておくこともできない。
「落ち着くのを待つしかないよ」
「え」
真紀の答えは意外だった。何もせず、待つと言うのだ。声をかけたり、手を引いたりして、止めるべきではないのだろうか。落ち着かせるべきではないのだろうか。
「嘘を指摘しても逆効果。疎外感を持たれて、悪くすると敵対的になる。本人は本当のことを言っているつもりだから、それを否定されたら、嫌な気分になるでしょ」
「でも」
「イベントが無いことを伝えても、彼女が納得するまではあのままで変わらないと思うよ。彼女を抱きしめでもして落ち着かせる?それは効果ありそうだけど、そこまで彼女に深入りする覚悟が必要だね。例えば、一生彼女に寄り添って導く覚悟、とかね」
「え、そこまでしなきゃいけないの?」
「しなくてもいいんだけど、知っちゃったからねぇ」
「そもそも飛躍しすぎじゃ?」
「たぶん、し過ぎじゃないと思う。確証はないけど、彼女、依存心強そう」
そう言いながらも、真紀はずっとあたしを見ている。まるで観察でもしているかのようだ。
なぜあたしを見つめるのだろう。今問題なのは心美のはずなのに。
でも、真紀の言う通り、心美は依存心が強いかもしれない。電話を受け、答えた途端、頻繁に連絡が来るようになったし、今日の呼び出しに行き着いた。
嘘がばれれば、せっかく築いた関係が崩し、依存できなくなる。心美にとってはマイナスのはずだ。なぜそんな矛盾した行動をとるのか、あたしにはまるで見当もつかない。
右往左往する心美は、ともすれば割れやすいガラスのような危うさを感じる。確かに、対応は難しそうだ。
心美の心の声も、悲鳴に似ていた。目の前の現実を受け入れられずにいた。そして応援に来たあたしに申し訳なくも思っているのが分かった。
やっぱり見るに堪えない。
あたしは心美に近づくと、手を引いてこちらに向かせた。
こういう時、綾ならどうするのだろう。
あたしはそっと、心美の頬に触れた。
「落ち着いて」
あたしが一言いうと、どういうわけか、心美がぴたりと止まった。彼女の心が、波だっていた水面が収まっていくように、静かになった。
このまま抱きしめて、優しく慰めればいいのだろう。でも、人と接してこなかったあたしに、そんな勇気はなかった。相手の顔に触れるのでも精一杯すぎて、ドキドキしていた。
心美の目に、落ち着きが戻った。それと分かるほど、彼女の表情は変化が大きい。
「落ち着いた?」
「うん」
心美が小さな声で頷いた。そしてはにかむように笑った。
「すごいね。それが…」
真紀が隣に来て呟いた。口に出してはそれで止まったが、あたしには続きが聞こえた。
『祐美ちゃんの能力…人を避ける理由?』
そこから先は複数の声になって、判別できなくなった。
あたしは驚いた。真紀はどうして、どうやって、あたしに特殊な力があると分かったのだろう。
そのあたしの驚いた顔を見て、真紀はなお確信していったのが、分かった。
まずいと思い、あたしは慌てて真紀に背を向けた。しかし、いつの間にかあたしの手を心美が掴んでいて、大して向きを変えることができなかった。
心美があたしの手を掴み、にっこりとほほ笑んでいた。あたしを信頼し、無二の友人のように思っているのが、まる聞こえだ。
横では真紀があたしのことを色々考えているらしいことは分かる。
えっと、これは、どうしたらいいのだろう。どうすれば、真紀に変な疑いをかけられずに済むのだろう。どうすれば、心美が手を放してくれるのだろう。無垢な瞳で訴えるのをやめてくれるのだろう。
あたしでは何もできない。誰かの手助けが必要だ。心美が落ち着いたのも、あたしが触れると言うきっかけがあっただけで、特にあたしは何もしていない。あれだけで心美がこんなにも変わるとは思いもしなかった。
どうすればいいのだろう。心美に対して、どうすればいいのだろう。真紀の目からどう逃れればいいのだろう。誰か答えを教えて欲しい。
狐の霊の綾は、傍にいない。
誰か大人の人。
辺りには歩く人の姿はある。でもその人たちはあたしたちに関わろうとはしない。何をやっているのだろうとか、どうして女の子同士ってそんなに引っ付きたがるのだろうとか、若いわねぇだとか、思い思いの心の声を発しながら通り過ぎて行った。
気付けば、あたしの周りに人が多くいる。心美に、真紀に、通行人たち。今まで人を避ける生活をしていたこともあって、こんなに人がいる状況に慣れていない。恐怖感すらある。これだけの人数の心の声がいっぺんに聞こえたら、あたしには対処できない。
不安に思った途端、複数の心の声が重なり、雑音となってあたしに襲い掛かった。
15
『あ~あ。あいつとデートなんてしたくないなぁ』
『なんでこんな日に仕事なんだ!』
『なかなか良い感じじゃのう』
『店が開く前に行かなきゃ!いい席が取れない!』
『さっきのエロじじぃ!絶対あたしのケツ触っただろ!ぶん殴ってやればよかった』
『祐美ちゃんは心美を助けてくれるー』
『お?女の子がいっぱい。どれか一人僕の物にならないかな』
『眩しい!太陽に溶かされる!』
『この辺りに集まっているって話だったな』
『デートの待ち合わせ、早く来すぎたな…』
『こっちへ来い!』
『どこだ?どこにある?』
『うわ。キモ。変な目で見んな』
『急がないと良いものが取られちゃう!』
『最近の若い子は発育がいいのぉ』
『あ、あの子の服、いいな。どこで買ったんだろう?』
『特撮ヒーローみたいなイケメン、何処かに落ちてないかしら』
『何かいいことないかな』
『さて、朝っぱらから遭遇できるかな?』
『みんな幸せ面しやがって…。爆発しろ』
『先に見つけないと!』
『今のマセラッティ?すげー!』
『さっきから様子がおかしくない?』
『あと少しじゃ』
『早く来すぎたな。開店まで時間もあるし、どうすっかな』
『自転車の…太もも眩しい!』
『あ、可愛い犬!触りたい!』
『誰にも渡さない!』
雑多な心の声が、祐美の頭の中に鳴り響いた。余りに多すぎて、ただの雑音でしかない。神経を逆なでするような大音響の雑音だ。
頭の中から締め出そうとしても、一向に収まらない。
やはり、傍に綾がいて、導いてもらわなければだめなのだろうか。
(綾!)
声に出して叫びたかったのを、必死で耐えた。
あたしの目は何も見えていなかった。周りで何が起きているのか、さっぱり分かっていない。ゆっくりと周りを確認する余裕はなかった。
あたし自身、どういう振る舞いをしていたのかも、分からない。傍に誰かがいた気もする。
(綾!助けて!)
必死に、声にならない声で叫んだ。もしかしたら、綾に声が届き、駆けつけてくれるかもしれない。
『あらあら。祐美。落ち着いてごらん?そうすれば、何ともないのだから』
綾の声がしたような気がした。でも、傍にはいない。
幻聴に耳を傾け、落ち着こうとする。しかし、頭の中で雑音が増しただけだった。
気分が悪くなる。吐き気がする。早く止めて欲しい。ここから逃げ出したい。どこか人のいないところに行けば、なんとかなるかも。
思ってみても、足が動かなかった。自分の体の感覚もない。これでは逃げることもできない。
「祐美ちゃん?大丈夫?しっかりして!」
誰かの声が頭の中に響いた。
「なにがどうなってるのー?」
「分からない。でも、普通じゃないよ。落ち着かせなきゃ!」
誰の声だろう。ううん。どうでもいい。とにかく全部聞こえなくなって欲しい。耳障りな雑音が消えて欲しい。もういっそう、あたしが消えてなくなれば、こんな思いをしなくて済むのに。
こういう時のあたしはいつも、自分がこの世からいなくなればいいと思う。周りが居なくなればいいと思えばよかったのだろうか。でも、なぜかそう思うことはなかった。
自分の体が光に溶けて消えていく感覚。どこかで味わったことがあるように思う。ふと、おかしな感覚に捕らわれたものの、雑音に襲われ、それどころではなかったと、耳を塞いだ。
でも、本当に消えてなくなれば、もうこの雑音に悩まされることはないのではないか。
あたしがいなくなったら、綾は悲しむだろうか。分からない。
あたしが消えてなくなったら、両親はきっと喜ぶに違いない。
あたしが消えてなくなったら、悲しむ人はいるのだろうか。誰もいそうにない。
なら、あたしはやっぱり、消えていい存在なのだ。このまま雑音にかき消されて、消えてしまえばいい。消えてしまえば、この雑音からも解放される。
消えてしまえば!
それは突然だった。あたしには何が起こったのか、まるで分らない。気付いたら、目の前に人の顔があった。
もしもあたしが冷静だったら、その顔が、まるでキスでもするかのように、鼻先が触れる寸でのところにあったことに気づき、顔が真っ赤になっていただろう。
冷静さを失っていたあたしは、そんなことにも気づかず、目の前に何があるのか、理解できていなかった。
「何が何だか分からないが、とにかく、落ち着け」
男性の声が聞こえた。声が妙にくぐもって聞こえていた。目の前の顔から発せられた声のはずなのに。
そう言えば、両方の頬に何か温かいものが触れているように感じた。温かく、少しごつごつしたもの。それがあたしの顔を包み、目の前の顔に向けさせていた。
目じりにしわがある。少し角ばった顔。男の人の顔だ。額と鼻の頭が触れそうだ。あたしはやっと気づき、驚いた。
そしてさらに驚いたことがある。いつの間にか、雑音が消えていた。心の声が聞こえてこない。違う。心の声、聞こえる声が、一つだけになっていた。
「いったい何があったんだ?」
『何かの発作か?』
どちらも、同じ男性の声だ。前者は、声に出して、後者は心の声。
「分からない。突然、何かの発作みたいに」
女の子の声が答えていた。
「てんかんとか、何か持病は?」
男性の声。
「分からない」
女の子の声。
『何か、霊的なもの…魂が不安定に見えた』
男性の心の声。
「落ち着いたか?」
男性の声。
あたしの目を見つめていた。目じりが少し、緩んだように見えた。
男性の顔が少し離れ、あたしの頬に触れていたものが離れた。男性の両手だった。
男性の手の温もりが消えると同時に、また辺りの心の声が雑音となって聞こえてきた。
あたしが、見るからにうろたえたのだろう。すぐに男性が両手であたしの頬を包んだ。
すると、雑音が消えた。
どういうことなのだろう。あたし自身にも理解できないことが、あたしの体に起きている。
この男の人に触れられていれば、周りの心の声が聞こえずに済むのだろうか。なら、ずっと触れていてもらいたい。
あたしは男性の手に、自分の手を重ね、しっかりと抑えた。
「こうすると落ち着くのかい?」
男性が言った。笑っているのか。それとも苦笑しているのか。
『確かに、魂が安定するように見える。僕の手で押さえているってことか?なら、頬ではなく、例えば手をつないでいるとかでも大丈夫かも。問題は、どうやってこの子にそのことを納得させるか、だな』
男性の心の声だ。この声の通り、頬でなくても大丈夫なのだろうか。不安だ。今は頬に伝わる温もりのおかげで、気持ちが落ち着いている。でも、放したら、先ほどのように、温もりが消えるのと反比例するように、雑音が増してくるかもしれない。
しかし、確かに、このままずっと頬を包み込んでいてもらうわけにもいかないのかもしれない。ここは町中で、公共の場なのだということを、思い出した。
そう言えば、真紀や心美もいたはず。目を動かして周りを見ると、心配そうに口元を押さえた心美と、同じく心配と、何か不満そうな気持が入り混じった表情の真紀がいた。
さっきまでのあたしは、この二人がいることも分からなくなっていた。
今のあたしは、男の人に顔を掴まれている。傍から見れば、奇怪な光景かもしれない。恥ずかしい光景かもしれない。
徐々にあたしの顔が暑くなるのが分かった。でも、だからと言って、離してもいいものだろうか。
周りに、好奇の視線を感じたように思う。気のせいかもしれないし、そうではないかもしれない。まだ早い時間帯なのでそれほど人通りはないはずだ。男性に触れられているおかげか、周りの心の声を聞いて確認することができない。
「とりあえず、片手を離してもいいかな?」
男性が言った。
男性は、あたしに両手を押さえられ、あたしの頬に触れたままだった。でも、離して大丈夫なのだろうか。まだ大勢の心の声が聞こえ、パニックに陥るかもしれない。
『魂も霊的なものといっしょで、ちょっと触れているだけでも安定させられると思うんだけど』
男性の心の声。何を言っているのか、いまいち分からない。でも、言う通りなら、指先が触れているだけでも、あたしが今の状態でいられると言うことだろうか。
あたしは片方の手を離してみた。男性もその手をあたしの頬から離す。
特に何の変化もなかった。相変わらず、あたしの周りは静寂で、男性の心の声しか聞こえていない。
『やっぱり。だけど、僕の力が生きている人にも影響するとは思わなかったな』
力って何だろう。あたしのように、人とは違う能力があると言うことか。あたしは他人の心の声が聞こえる、忌まわしい能力。男性のは、あたしを落ち着ける能力、かな。
あたしはまじまじと、男性の顔見つめていた。
16
どのくらい時間が経ったのだろう。
「ちょっと。何時まで見つめ合ってるの」
真紀が低い声を出していた。
「あ、いや、別にやましい気持ちはないからね」
男性はあたふたと答え、あたしから目線を反らした。
「どうだかぁ。元々惚れっぽいんだし、この子が…なんて考えてたんじゃないの?」
「いやいや、年が離れすぎでしょ」
「あら?この前惚れた相手って、十代じゃなかった?」
「あ」
「ほら~。中学生に手を出したら、犯罪だよ」
「出さないって!」
「ああ、そうか。今まで手を出せたことないものねぇ」
「う、うるさいやい!」
真紀と男性が言い合っている。どういうことだろう。この二人は知り合いなのだろうか。この男性はただの通りすがりではないのだろうか。
だけど、その疑問よりも、深く響くものがあった。
『うるさいやい!』
男の子が拗ねるように言い放った。
でも、ここに男の子はいない。あたしの中で聞こえた声だ。近くにいる子供の心の声でもない。男の子の声と男性の声が重なった。姿も重なって見えた。
どういうことだろう。もう、疑問だらけで、訳が分からない。
「ああ、ごめん。このヘンタイ、ボクの兄ちゃんなんだ」
戸惑っているあたしに、真紀が説明した。真紀に年の離れたお兄さんがいたとは、驚きだ。
「真紀ちゃん、誤解のある紹介はやめてくれよ。僕は真紀ちゃんのお父さんと一緒に働いているんだ。実の兄弟ではないよ」
「あ~。もしかして、ボクにもワンチャンあると思ってる?」
「な!ばか!」
真紀はそう言いながらも、何処か、期待するような雰囲気があった。男性に触れられているおかげで心の声が聞こえない。なので確認はできない。
「弟のように思っているだけだ」
男性が答えると、真紀のスラッとした足がすごい勢いで、男性のお尻に打ち込まれた。
「いったぁ!何すんだ!」
「ふん!」
真紀は大きな鼻息を立ててそっぽを向いてしまった。
『まったく、何を拗ねてるんだ?』
男性は悩みつつも、
「改めまして。僕は三上弘樹。よろしく」
そう言って、空いた手をあたしに差し出した。あたしはこういうことに慣れていないので、何の手だろうと悩んでしまった。
『握手』
男性の心の声が、答えを言っていた。
あたしはおずおずとその手に触れた。握ることはできなかった。でも、男性があたしの手を握った。
そして男性は、あたしの頬に当てていた手を離した。
騒音は聞こえない。頬でなくても大丈夫のようだ。
男性はにっこりとほほ笑むと、心美にも手を差し出した。
心美は顔を歪め、男性の手から離れた。
「ああ、ごめん」
男性はすぐに手を引いた。
心美の今の反応は何だったのだろう。疑問には思うが、それ以上追及する気にはなれなかった。今は、手に伝わる温もりが気になっていた。
この繋いだ手が、あたしをここに繋ぎ止めてくれている。これが無ければ、あたしは再び騒音の中に埋もれ、消えていくしかない。
嫌だ。消えたくない。そう思うと、自然と手に力が入り、男性の手をしっかりと握りしめていた。
17
この後、真紀が心美にイベントが無いこと、間違いだったことを納得させた。そしてそれぞれ分かれて帰るはずだったが、あたしが手を離すのを嫌がったので、男性があたしのアパートまで送ってくれた。
真紀は「送り狼禁止」などと言って、ついてきた。
駅で三人そろって降りると、
「僕らはもう一駅向こうに住んでるんだ」
と、男性が説明していた。
この頃になるとあたしも幾分落ち着きを取り戻していた。
もう一駅先なら、あたしの実家と同じだ。帰る気もないけれど、この男性がいるのなら、そこまで行ってもいいとも思えた。
男性、では失礼だった。そう言えば、名前を聞いたように思う。でも覚えていなかったので、もう一度聞いてみた。
「三上弘樹。幽霊などの霊的なことにお悩みなら、僕にご相談を」
そう言って、名刺を渡された。名刺には、三上弘樹という名前と、皆川総合調査事務所という名前があった。
皆川といえば、真紀の姓だ。真紀のお父さんが所長なのだろうか。
そもそも、調査事務所って何なのだろうか。聞きなれない名前だ。疑問に思っていると、男性、三上が耳打ちしてきた。
「いわゆる探偵さ」
思わず、三上を目踏みしてしまう。どこにでも居そうな、パッとしない男性だ。小説に出てくるような探偵には見えない。こんな人に事件が解決できるのだろうか。
「兄ちゃんの担当は、詐欺まがいだものねぇ」
真紀が茶化すように言った。
「こらこら。詐欺まがいとは何だ。霊的な物が見えないからって、否定はしないでくれよ。実際、苦しんでいる人がいて、手助けしてきたんだから」
「霊的な物って?」
「幽霊とか妖怪とか」
「祐美ちゃん、あんまり真剣に聞かないで」
真紀はごまかすように言った。あたしが信じず、変な目で見ると思ったのだろう。
ふと、通りがかった道の先の電柱に、人影があった。ただそこに立ち続けるだけで、何もしていない。
三上があたしの視線に気づいて耳打ちしてきた。
「やっぱり見えるんだね。あまり見つめない方がいい」
三上はあたしが握りしめている手を持ち上げ、
「ちょっとだけ離しても大丈夫かい?」
と聞いてきた。
辺りを見渡すと、三上と真紀と、電信柱の陰にいる人だけだ。それ以外の人影は見えなかった。
これなら、心の声が聞こえても大丈夫だと思う。思うけれども、手が離せない。
「大丈夫」
三上があたしの握りしめる手に、空いた手を重ねて包み込んだ。
思わず、頷いてしまった。
三上は微笑んで、手を離した。
離れて行ってしまう。あたしは妙に落ち着かない気分になった。追いかけて手を掴みたい。なぜあたしはこんなにもこの男性に触れていたいのだろう。どうして男性に触れているとこんなにも安心できたのだろう。離れてしまった途端に、この胸の奥からこみあげてくるような、足のすくむような感覚は、いったい何なのだろう。あたし自身の感情なのに、訳が分からない。
真紀がそっとあたしの手を取った。はにかんだ表情。
『不安そうだったから』
『これで大丈夫?』
真紀の心の声が、二重に聞こえた。でも、どちらもちゃんと聞き取れた。
真紀もあたしの様子を気にしてくれているのだ。二歳年下のはずなのに、あたしより立派だ。あたしはただ取り乱すだけ。
『どういう理由でそこにいるのかは知らないが、成仏してくれ』
三上が心の中で呟き、手に取り出した何かを、電信柱の陰にいる人に向けた。するとどうしたわけか、その陰の人が急に燃え出した。だからと言ってその人が苦しそうにするわけでもない。急速に縮んでいき、炎と一緒に消えた。そして、煙のように何かが空に向かって登って行くのが見えた。
三上が電信柱の陰に向かって手を合わせると、ゆっくりと戻ってきた。
「また何かいたの?」
真紀が尋ねた。
三上は頷くと、あたしに向かって手を差し伸べた。
その手を真紀がはたき、
「ボクでも大丈夫だよね?」
と言う。
ダメ、とは言えなかった。三上に手を握って欲しい。けれども、真紀の好意もむげにできない。それに、この辺りはひと気が少なく、人々の心の声が騒音になることもなかった。先ほどの恐怖でまだ足はすくむものの、なんとかなりそうではあった。
三上ははたかれた手を擦りつつ、
「そこに地縛霊がね」
と、先ほどのことを説明した。
「ふーん」
真紀はそう答えただけだ。幽霊や妖怪の話をごまかすようにしていた割には、真紀もそれが存在しているであろうことは認めているようだった。
あれが幽霊。あたしは今まで、幽霊と生きている人との区別がついていなかったかもしれない。先ほどのようなことも、あそこに人がいる、程度にしか考えていなかった。
たぶん、あたしは驚いているのだろう。でも、幽霊の存在を不思議に思うこともなかった。狐の霊の綾と触れ合うくらいだもの。幽霊だっていてもおかしくない。
生きている人と幽霊との区別がついていなかったことは、あたし自身、驚きだ。
「地縛霊って言われても、困るよねぇ。何もない所で変な行動取られて」
真紀があたしの顔を覗き込んで言った。
あたしは言葉が出てこなかったので、首を左右に振った。別に困ることはない。ただ、区別がついていなかったことに驚いているだけだ。
「うん。まあいいや。行こう」
真紀はそう答えて、歩き出した。でも、真紀は道を知っているわけではない。あたしが時々手を引いて、道を修正しなければならなかった。
古びた二階建てのアパートにたどり着くと、一階の自分の部屋へ向かった。
「ここです」
あたしはそう告げて、鍵を取り出して開けた。
三上は玄関先で立ち止まった。対して、真紀は戸口の中まで入って、あたしを引っ張った。
「無事にたどり着けたね」
三上は、思えば変なことを言った。あたしの状態を気にして言ったのだと思うのだけど。
突然、誰もいないはずのあたしの部屋から人が出てきた。
「あら、おかえり」
大きな胸が特徴の、年上の女性。ウェーブのかかった茶色い髪。赤く厚い唇。見覚えのない人だ。
あたしが戸惑っていると、
「ヤダ、綾よ。イメチェンしすぎた?」
女性がそう言って笑った。
「これは失礼しました。お姉さんがいらしたとは」
三上がそう言ってお辞儀をした。
『姉っていたっけ?』
真紀の心の声だ。でも、何も言わず、お辞儀をした。
「え、綾さん?あの?えっと、どうして?」
あたしは戸惑い、何を言っていいのかも分からない。
「三上弘樹です。妹さんが体調を崩されて」
「あらあら、わざわざ送ってくださったの?ありがとうございます」
「ちょっと、兄ちゃん、どこ見てるの!」
「どこって…」
「ここかしら?」
綾がわざと胸を反らした。
「見るな!」
真紀の足が後ろに飛ぶ。
「うわ!」
さすがに離れていたので、今回は三上が後ろに飛び下がって当たらずに済んだ。
「あらあら」
綾が口に手を当てて笑っていた。
「妹がお世話になりました」
綾は三上に合わせ、姉を演じ続けるつもりのようだ。
「祐美ちゃん、さあ、突っ立ってないで、上がりなさいな。あなたたちも、お茶でもどうですか?」
「ああ、いえ、お構いなく」
外から三上が言った。
「あ、あのジャケット…」
部屋の中を見た真紀が呟いた。
「あれですか?妹が先日、親切な方に借りたものでして」
「あ、それ、僕のとよく似てますね」
外から覗き込んだ三上が言った。
あたしは驚いて、三上の顔を見直した。確かに、見覚えがある。
「え?あの時の人って?」
「あのビルにいた子って、君だったの?」
三上の方も、あたしを指さして驚いていた。
あたしは頷くしかなかった。
「あらあら。縁は異なものと言いますが」
綾がそう言ってほほ笑んだ。
「本当ですねぇ」
三上も微笑む。
「あの、洗濯して返しますから!」
あたしはとっさにそう言っていた。あの時、あたしは大汗をかいて、これを羽織ったのだ。あたしの汗のにおいが付いているに違いない。
「いいよ、そのままで」
「ダメ!」
「汗のにおいが付いているからかしら?」
綾が面白そうに言う。
「ダメ!」
あたしは言葉が見つからない。顔が暑い。
「汗くらいいよ」
「その汗のにおいを嗅ぐの?」
真紀がおかしなことを言う。
「僕は変態かい!」
「異性の汗のにおいは心地いいと言いますものねぇ」
綾まで。
「というか、それなら、僕の汗も染み込んでるよ」
「ボクがにおって確認しよう!」
「お前がにおいたいんかい!」
綾が部屋に戻ってジャケットを持ち出してきた。
「別ににおいませんよ」
しっかりと鼻をつけてにおっていた。
「そもそもそれ、洗濯じゃなくて、クリーニングでしょ」
「ん?そだっけ?こないだアウトレット行った時に買ってきたものだけど」
「これだから兄ちゃんは…」
「兄思いの良い妹さんね」
綾が真紀を見つめていた。
「じゃあ、クリーニングに出します!それからで!」
「お金かかるからいいよ」
「やっぱりにおいたいのね」
「だから蒸し返さないで」
三上はそう言いながらも、いつの間にか戸口に入ってきており、綾からジャケットを受け取った。
そして、おもむろに鼻を近づけた。
「あ!」
「ダメ!」
真紀とあたしが同時に叫んでいた。
「大丈夫。いいにおいだ」
「ヘンタイ…」
真紀が蔑むように呟いた。
あたしは恥ずかしくて、声も出ない。あたしの汗のにおい。考えただけで、恥ずかしい。
三上が笑った。
「大丈夫。服のにおいと、僕の汗のにおいしかしないよ」
「フォローになってない」
真紀がにべもなく告げた。
「ところで狐のお姉さん」
「はいはい」
「え?」
三上と綾の、あまりにも自然な呼びかけと答えに、あたしは一瞬で氷ついた。とっさに綾の前に立つ。先ほどの幽霊のように彼女を燃やされては、あたしが困る。まだ教えてもらうことがいっぱいあるのだから。
三上がほほ笑んだ。
『なるほど。相手が人外でも、信頼しているのか。魅了されているわけでもなさそうだし…。なら…』
「この子の魂が不安定なのだけど、心当たりは?」
「分かりません。ただ、苦しんでいたので、恩返しに力の制御や料理や美容について教えて差し上げようとしていましたの」
「そうですか」
真紀は黙って、三上と綾を見比べていた。
「一応、僕も霊能者の端くれです。協力できることがあれば、何なりと」
そう言って名刺を取り出し、綾に渡した。
「それと、もしも彼女に害が及ぶようなことがあれば…」
「もちろん」
綾がほほ笑んで答えた。でも、何処か、怖い。目が笑っていないのかもしれない。
「じゃ、帰ろうか」
三上はそう言うと、さっさと外に出た。
真紀があたしに別れを告げ、三上を追いかけた。
「いいの?」
「たぶん、ね」
そういう声が聞こえた。
あたしは二人の背が見えなくなるまで呆然と見送った。
18
腕に手が触れた。綾の手だ。温かい。これは霊の手だろうか。でも、そう言えば、霊を見ることができない真紀も、綾を見ていた。
「依代を創ったの」
綾がそう言いながら、戸口を閉め、中に入るように促した。
「依代?」
「そう。仮の肉体を創ってそこに入り込んでいるの」
こともなげに言われても、あたしには理解できない。分かることは、と考えて、ふと気づいた。いつの間にか、足のすくむ感覚が消え、落ち着いていた。
綾があたしの胸に抱えたリュックを取り外し、そっと背を押した。人に触れてもらうことが、あたしの奥底に何かを浸すように、あたしにはよく分からないものが染み込んできた。決して嫌なものではない。どちらかと言えば、心地いいものだ。
これはいったい何なのだろう。ずっと触れていて欲しい気もするほどだ。あたしの体と心はどうなってしまったのだろう。三上に手を握られている時もそうだった。思えば、同じ感覚だ。あの時は心の声が聞こえなくなることばかりに気を取られていたけれども。
部屋の中に導かれ、ベッドに並んで腰かけた。
部屋の中が暑くない。見ると、エアコンが動いていた。綾が付けたのだろう。
「何があったのか、話してくださいますか?」
綾は綾で、あたしを気にかけてくれているようだ。優しく背中を擦ってくれるのが気持ちいい。
あたしはゆっくりと、イベント会場の外で遭った出来事を話した。話しながら思い出すと体が震える。その震えを、綾が優しく包み込むように抑えてくれた。
話し終え、一息つく。
「そう。それで、魂が不安定…」
綾はあたしの背を擦りながら、しばらく考え込んでいた。
一応、関係ないかもしれないけれど、帰り道の出来事も話した。
すると綾は顔を上げ、
「たぶんそれね」
と頷いた。
「どれ?」
「人と幽霊の区別がついていないこと。もちろん祐美の力のせいもあるの」
あたしが理解できずにいると、綾は言葉をつづけた。
「人と幽霊の区別がついていないと言うことは、祐美自身、物質と霊との境が曖昧なのよ。あたしのような存在とも、あっさり接しているのも、その証拠ね」
言われても、あたしには意味が分からない。
「そうね。今の私、どう見える?触れてみてどういう感じ?」
何を言いたいのか分からない。
「あたしと同じみたい?」
「体温があって、ちゃんと人の体のようでしょ?」
「うん」
「でもこれ、紙でできた依代に私の霊力を注ぎ込んで創ったものなの」
「え?」
あたしは驚き、綾の腕を触ってみた。でも、温もりのある柔らかい肌だった。決して紙ではない。
「すごいでしょ」
綾はそう言って笑った。
「私の今の体は、言うなれば、霊体と肉体の狭間の状態なの。本質は紙だけれども、霊力を得て、肉体になっているの。でも、霊力が無くなれば紙に戻る。その霊力は私自身だから、紙で創った肉体に私という魂を宿した状態、ともいえるの」
綾がゆっくりと話している。
「でもさっきの、三上という男性、すごいわね。初見で私の正体を見破るなんて。彼にはどういう風に見えているのか、気になるわ」
あたしはそれを聞いて、なぜか胸の奥が締め付けられた。
「だからこそ、祐美の魂が不安定なのも分かったのでしょうし。それにしても、近くにいた私が見抜けなかったのに。なんだか悔しいわ」
綾があたしの顔を見て、苦笑した。
「あら、ごめんなさい。脱線したわね。祐美の状態は、ちゃんとした肉体と魂があって、普通ならこの二つが分離することはないの。でも、祐美はなぜか、魂がちゃんと定着していないのね。誰かに引き剥がされたのか、元々なのか。とにかく、今は何か刺激があると、肉体から魂が抜けだしてもおかしくない、不安定な状態なのよ」
「それって、魂が抜けだしたら、死ぬってこと?」
「そういうこともあるし、戻れることもあるわ」
そう言って、綾があたしの背中を擦った。
「大丈夫。すぐ分離するようなら、さっきの三上も帰ったりしなかったでしょう」
「そう、なの?」
「ええ、きっと」
綾はそう言って、あたしの肩を抱きしめた。
「分かった以上は、私も守ってあげるから」
「うん」
「より不安定になる原因は、やっぱりあなたの力のせいね。まずは力の制御をしっかりと身に着けましょう」
「うん」
あたしに綾の言うことが理解できたかと言えば、できていなかったと思う。あたしに分かっていることは、人が多い所に行くと心の騒音に押しつぶされ、おかしくなると言うこと。それを押さえられるのは、三上だけ。綾はきっと、不安定になる前の予防までだと思う。
綾といれば、不安定にならずに済み、三上は必要ない。でもそうだろうか。もしも綾といても不安定になってしまったら、心の騒音に押しつぶされ、消えてしまいそうになったら。
押しつぶされたら、あたしは魂が肉体から抜け出してしまうのだろうか。そうなったら、あたしは死ぬのか。それとも魂だけになって、幽霊のように過ごすのだろうか。
考えると、怖い。あたしも何時しか、電信柱の陰に佇むのだろうか。痛くないのだろうか。寒くないのだろうか。
急に、頭が柔らかい物の中にうずめられた。綾があたしの頭を胸に押し付け、抱きしめていた。
とても柔らかく、温かい。鼓動の音も聞こえる。何だろう。どこか懐かしい感覚。包み込んでくれる柔らかさ。規則正しい音が耳に心地いい。肌のにおいを吸い込む度に、落ち着きを取り戻す。まるで心地いい水の中に漂っているような気分。
「大丈夫。私が付いていますよ」
綾の声が、体に響く。この感覚も、何処かで味わったことがあるような気がして、とても心地よかった。
あたしには分からないことだらけだ。あたし自身の事なのに。不安もいっぱいあるのに、不安に締め付けられた胸の奥が、広がって解けていく。
ずっとこうしていたい。
あたしはいつの間にか、綾にしがみついていた。
綾はそっとあたしの背を、とんとんと叩き続けていた。




