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月のかけら  作者: ばぼびぃ
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2/8

Ghost on the moon 中編

  16


 僕は晴れて病衣を卒業し、賢吾が持って来てくれた鞄の中からシャツとジャージを出して着こんだ。今までカバンの中身は、下着のみ利用していた。それ以外は無用の長物とかしていた。

 ジャージとはいえ、自分の服を着ると妙な安心感がわいてきた。

 体もさっぱりして気分爽快と行きたいところだ。だが、頭の中ではぐるぐると考えが堂々巡りを繰り返していたようで、体の中に何かが貯まり込んで吐き出せない閉塞感があった。まるで水中にでもいるかのようだ。

 妙に落ち着かないと思っていたら、その原因の半分は、月だ。

 日が暮れて空が真っ暗になっても、どこか明るいなと思い、窓の外を覗くと、東の空に大きな丸い月があった。あれほど吹き続けていた風はすっかりと治まっていた。

 あの風はフェンスを落とすためだけに吹いていたのだろうか。そんな疑問さえわいてくる。

 僕は気持ちが落ち着かないので、部屋を出て病院内を徘徊した。こんな閉塞感のある時は、強制的に体を動かすに限る。

 東の階段で下へ降り、廊下を歩いた。松葉杖は右手に一本だけ持ち、あくまで補助に徹した。

 四〇五号室の前でわざとペースを落として中を覗いた。

 麻奈美のベッドは膨らみが見えるだけだ。たぶん、寝ているのだろう。そう思って何気なく部屋番号の下のプレートを見ると、北村麻奈美の名前が無い。どうやら左奥は別の人のようだ。

(あれ?退院したのかな?)

 僕は何気ない風を装って、そのまま通り過ぎ、階段へ向かった。

(無事に退院したのならいいか)

 名前が無くなっているということは、退院しかない。そう考え、僕は安堵した。もう彼女とは関わることは無いだろう。大学内や講義のどこかで顔を合わせることはある。が、あの時の様子では声をかけたとしても無視されるか、また酷い目に遭わされるかだろう。

 僕は麻奈美の事を頭から追い出すように歩いた。頭をすっきりさせるには、まだまだ歩かなければならなそうだ。

 三階ホールは昼間と打って変わって静かだ。まだ消灯時間ではないので、部屋の中は賑やかなのかもしれないが、階段までは声が聞こえなかった。

 二階に差し掛かるとどこからか声がするので、僕は何となく足音を立てないようにした。

「信也さん」

 女性の、どこか鼻にかかったような声だった。

 衣擦れの音が聞こえる。

 ゆっくりと二階ホールを覗き込むと、一つの影があった。人にしてはやや厚みがある。腕と思われる影の位置が、おかしい。

 人のいないはずのこのホールは非常灯しか点いておらず、薄暗い。

 よくよく見ると頭が二つあり、上下に重なり合うように接していた。背の高い方は男性だろう。もう一つの頭は男性の胸にあった。

 二人の人間が絡み合っていた。その姿は情欲的に互いを求め合っているように見えた。服を着ているはずなのに、まるで裸で抱き合っているような印象を受けた。

 僕は見てはならないものを見たような、それでいて見ていたいような衝動にかられ、そっと壁の陰に隠れた。

 二人とも白衣を着ている。男性の両手は、相手の背中に回されて見えない。女性の手は男性の腰辺りでしっかりと結ばれていた。

 女性が顔を上げると、男性が顔を近づけ、顔どうしが触れ合った。

 そのまま長い間動かない。

 見ている方が恥ずかしい。僕は耳が暑くなっていた。テレビでは見たことのあるキスシーンも、実際に見ると、テレビのように清々しくない。生々しく、陰湿だ。

 やっと二人の顔が離れた。

 女性が片手を離し、何かを差し出していた。男性がそれを受け取って無造作に白衣のポケットへ押し込んだ。

「何時もすまない」

 男性は小声だ。それでもはっきりと聞こえた。声の響きも若そうだ。

「いいの。信也さんのためだもの」

 女性の声も若い。顔が見えないので、僕としては自信が持てない。若くあって欲しいと思う願望かもしれない。熟年女性のキスシーンは、想像だにできなかった。

「あと少しで俺たちの住まいを手に入れられる。それまで我慢してくれ」

「ええ。待ち遠しいわ」

 女性の、この鼻にかかった声は、僕の心をかき乱した。僕に言われているわけではないのに、そわそわして、何かお返しをしたくなる。男性も同じ気持ちだったのか、再び顔を近づけた。

 二人の顔が重なる。

 今度は比較的早く離れた。

 僕の口にも、何やら甘い感覚があった。キスをすれば、これを実感できるのかもしれない。テレビなどで、キスはイチゴの味だとか何とかだとかいうのを聞いた覚えがある。女性の多くが憧れるであろう、甘く淡い感覚。男の僕にとっても、甘美な魅力があった。

 実のところ、女の子と付き合った経験はあるものの、キスまで及んだことは無い。せいぜい手を握った程度だ。

 一緒に出掛けて遊んだりはするものの、それ以上への進み方がよく分からず、まごついているうちに、飽きられることが多かった。と言っても、片手で数えてもかなり指が余る人数だが。

「問題は親父だな」

 男性がおもむろに呟いた。

「やはり反対されているの?」

「ああ。あの性格だからな。言い出したら聞く耳を持たない。はた迷惑な行動も起こす」

「ここでも問題起こしたものね」

「ああ。そうだったな。妹の相手は何と言ったかな?胸を突かれた、あの子。いい迷惑だったろうに」

 男性が、恋人の頭を撫でた。答えるように、女性が男性の背中に回した手に力を込めた。服の皺が増していく。その上に、もう一組の腕があるように見えた。

 よくよく見ると、何もない。皺が光の加減でそう見えたのだろう。

「親父はまだいい。最後は俺が出て行けばすむ。問題は妹だ。なぜ妹に俺の恋路を反対されなきゃならん」

 男性の声が少し大きくなった。

「私が嫌われたのかも。ごめんなさい」

「いや、園子のせいじゃない。君は献身的に妹の看護をしてくれているじゃないか」

「そんな、大層なことはしてないわ。それにこれが仕事だから」

「それでもだ。ありがとう」

 男性はそう言って恋人を強く抱きしめた。

「ずっとこのままでいたい」

 女性がくぐもった声で言った。

「ああ。俺もだ」

 男性はそう答えると、片手を自分の頭にやって髪を掻きむしった。

「愛しているわ」

 女性の声が聞こえた。

「ああ、もう、邪魔な妹もいなくなればいいのに!」

 男性は女性の愛の囁きには答えず、嘆いた。

 女性が男性の手を両手で掴み、自分の胸に押し当てながら、相手の顔をじっと見つめた。

「滅多のことを言うものではないわ。でも、信也さんの望みですもの。きっといい方向に向かうわ」

「ん、ああ。そうだな。園子がそう言ってくれるなら、運も味方するだろう。君は俺の女神だもの」

 三度、二人の顔が重なる。互いの手が、相手の背中をまさぐる。互いの顔がうごめき、何かが絡み合うかのようだ。

 僕は体のどこかが飛んで行きそうな思いだ。それとはまったく相反する、蛇の絡み合うシーンを連想して背筋が冷たくもなった。ただ、どちらの印象を取っても、もう見ていられず、足音を忍ばせて階段に戻った。僕がここにいることが見つかると面倒だ。絡み合う二人に気づかれないように、そっと、時間をかけて階段を下りて行った。

 それにしても、僕は何という場面に出くわしたのだろう。ドラマのラブシーンならまだしも、現実世界の男女のそれは、僕にとって未知の世界であり、憧れのものだ。なのに、この生々しさときたら。

 キスとは甘く淡いものではないのか。イチゴの味ではないのか。あれではまるで、重く、絡みつく、二匹の蛇のようだ。

 お昼のドラマのようだ。互いに相手がいるのにもかかわらず、それぞれのパートナーにばれない様に隠れて行う情事のようだ。余りに陰湿で、重苦しく、情欲的で、僕のイメージと違い過ぎた。

 僕はなぜか、恥ずかしいような感覚にも襲われ、なかなか追い払えずにいた。気持ちを落ち着かさるためにも体を動かそうと、徘徊を続けた。先ほどの現場を避けて行ける場所となると、本館しかない。

 僕は延々と先ほどの事を考え続けたので、どこをどう歩いたのかは覚えがない。

 ふと、男女のキスシーンを思い出した瞬間、背筋が凍る思いをした。蛇を連想した時の感覚とも違った。

(え?何、この感覚…。なぜキスでこんな…)

 どこだか分からない階段の途中で立ち止まり、二の腕を擦った。

(僕はまた、何かを見たのに、見てないことにしているのか?)

 見間違いとはいえ、あのキスシーンで一度だけ、変なものを見た。

(それが見間違いじゃなかったら…)

 もう一度、キスシーンを思い出す。

 最初は暗がりだということもあって、男女が抱き合っているとは思わなかった。二人の人がいると分かっても、妙に顔が接しているとしか分からなかった。いや、正確には、理解が及ばなかったというべきだろう。キスシーンに対する僕の願望と、現実の違いに戸惑ったのだ。

 二人が抱き合う腕。

 思い返すと、やはり腕はもう一組あったように思う。女性に重なるように、別の人がいた。考えが廻ると確信めいてくる。

 あの腕は病衣を着ていた。髪の長い、病衣姿の女の人。

 フェンスが落ちた現場で見かけた相手を思い出す。

(間違いない。あの女の人だ)

 そう確信すると、先ほどのキスシーンが様相をがらりと変えた。

 お互いに抱き合った男女に、女の人が混ざって、男性を見つめていた。女の人も男性に抱き着き、女性と男性との間に割り込んでいた。キスも、女性に重なるようにしていた。男性は知らず知らず、二人に、同時にキスをしていたのだ。一人は直接的に、一人は間接的に。

 女の人は、あの男女には全く見えていないはずだ。触れることすらできない。だからできた芸当だ。

(あの女の人は園子と呼ばれた人に憑りついている?)

 フェンスを落とし、園子と呼ばれた女性に憑りつく。それで何をなそうというのだろうか。

「胸を突かれた、あの子」

 男性の言葉をふと思い出した。

(それって、もしかして僕のこと?そう言えば、北村という研修医がいると、看護婦が話していたのを聞いたなぁ)

 麻奈美と同じ姓の研修医。麻奈美に兄がいると聞いたような気もする。

 何気ないものが組み合わさっていく。

「遠藤園子という名前に心当たりは?」

 皆川の言葉を思い出した。

「遠藤園子」

「遠藤…ああ、小柄で少しポッチャリ系の」

 看護婦どうしの何気ない会話も思い出された。

 先ほどの男女は、北村という研修医と、看護婦の遠藤園子だ。

(この事実が何を意味するんだろう?)

 分かったところで、そこから先へはたどれなかった。これだけの事実で未来を、人の行動を予測できるほど、僕の頭脳は明晰ではない。

 僕はあの女の人に関して、ずっと不吉な予感がしている。何かが起こる気配が、日を追う毎に増してきたように思う。

 そろそろ満月だ。何かが起こりやすい時期だ。その何かが、まだ導き出せない。

 皆川なら、僕の知らない事実を幾つか入手していて、回答を導けるのだろうか。探偵と名乗る以上、できるのではないか。それともドラマのように、足で情報を集め、事件が連続で起こって、最後の最後で突き止めるのだろうか。

 僕の思考はあちこちに飛散した。こんな考え方も探偵には向かないだろうと思いつつも、思い当たった事柄から考えを進めた。

 あの女の人で関わりがあるのは、麻奈美と、先ほどの二人だろう。

 麻奈美の身に何かが起こるのだろうか。でも退院したのなら、今の僕には何もできない。もしも傍にいるのなら、すでにフラれたとはいえ、助けてあげたい。

 北村という研修医の身に何か起こるのか。この人に関しては、接点がないこともあり、何とかしてあげたいとは思えない。

 遠藤園子という看護婦の身に起こるのだろうか。彼女に関しても、僕が別段何かできるとは思えなかった。

 他に見落としはないだろうかと、考えてみる。

 婦長たちの会話でも、北村は出てきた。高坂が狙っている相手として。

(あんな男のどこがいいんだ!)

 思わず、毒付いた。声に出さなかっただけましだろう。これに関しては間違いであって欲しいと願う。

 キスシーンが強烈に、脳裏に残っていたこともあり、至近距離で見た高坂の唇を思い出した。

 舌で湿らせた唇。淡く膨らみ、赤みを帯びている。湿った唇が非常灯の明かりを反射して、艶美な光沢を放っている。

 あの唇にキスをしたら、どんな味がするのだろう。きっと淡く切ない味がするに違いない。胸が締め付けられ、それでいて幸福で満たされるに違いない。

 あの時、本当にキスしていればよかったと、後悔した。あの時はそんな考えがなかった上に、そういう間柄ではないので、できもしなかったが。皆川に残念がられたことに、自分自身も、今なら同意する。

 高坂とのキスを想像していたら、階段が終わった。

 本館のはずなので、五階だろう。階段を上り切った正面と左側は壁だ。右に曲がると、右手にエレベーターがあり、その先は広間になっていた。広間はかなりの面積がありそうだ。

 左側の壁は小さな扉に行き着いて、正面の壁とぶつかった。

 エレベーターを回り込む形で広間が続いた。広い間隔で長椅子が幾つか置かれ、観葉植物が点在していた。

 エレベーターを回り込むと、幅の広い廊下が延びていた。ベッド二台を並べて歩けるほどだ。別館の廊下より少し広い。

 廊下は明かりが煌々と灯っていた。廊下の左右に病室らしき部屋が並んでいた。すでに扉は閉まっており、中は覗けない。雰囲気、別館よりも奥行きのある病室ではないだろうか。

 廊下を進むと、円形のナースステーションに行き当たった。道は左右に分かれている。左へ進むと、左側にも広間があって、ここにも長椅子が数台置かれていた。

 長椅子の向こうに窓があるので、近づいて外を眺めた。

 正面に大きな月が見える。左側には同じ高さの建物が視界を塞いでいた。

 別館の三階はもうほぼ電気が消えていた。四階と五階はまだ煌々と灯っており、カーテンの閉まっていない部屋は中までよく見えた。角度的に許す範囲においては、だが。

 四階の遠くの方に見える病室で、窓際に看護婦が立っていた。窓の大きさから判断して、かなり小柄だ。窓の数から予想するに、四〇九号室辺りだろう。

「あら?遠藤さん、またあの病室にいるのね」

 後ろで女性の声がした。

 振り向くと、看護婦が二人、僕の後ろから窓の外を見ていた。

「田中婦長の指示で、北村って患者の専属だそうよ」

「何それ?病院として、いいの?」

 もう一人の看護婦は押し黙って答えない。しかめた顔からしても、よくは思っていないようだ。

 僕と目が合う。

「君、ここで何しているの?」

「え、あ、その、ちょっともやもやして、徘徊中です」

「あら?溜まってるの?」

 もう一人がからかうように言った。

「ちょっとやめなさいな」

 しかめ面のままで同僚をいさめた。

 僕の顔は早くも赤くなっていたに違いない。

「お姉さんが、優しく、介抱してあげましょうか?」

 そう言いながら、自分の胸を両腕で押し、強調するように突き出した。

「こら、ここはキャバクラか!」

「だって~夜勤て退屈なんだもの。ちょっとくらいいいじゃない」

「まだ消灯前でしょ」

「消灯したらいいの?」

「ダメでしょ」

 その時、廊下の電気が消え、非常灯のみになった。

 月明かりと、非常灯の明かりで不自由はない。

 僕は看護婦の胸を見つめていた。強調され、押し出された胸の上に名札があると初めて気づいた。

 胸を突き出して僕をからかっているのは、佐々木というようだ。もう一人は田頭とあった。

「あら、この子も期待大みたいよ。あたしたちの胸を見比べちゃって」

「え、ちょ、違います!」

 とっさに僕は否定した。

 田頭が胸を隠すようにして、僕を睨みつけてきた。

「そこに名札があるの、初めて気づいて、それを見てたんです」

「へぇ。そう。ふ~ん」

 佐々木がにやにやと意味ありげに見つめてきた。

 看護婦の格好は、人を美人に見せるのだろうか。二人とも美人に見えた。

 佐々木は大きな目に厚みのある唇だ。田頭は細い眉に切れ長の目。佐々木の方がやや背が低い。田頭の方は細身で、スラッとしていた。

「もう、あなたが変なこと言うから、坊やがその気になっちゃってるじゃないの」

 田頭が嘆いた。その割には、顔が笑っている。

「あたしたちを見比べちゃって、どちらに慰めてもらおうかしらって?」

「だから、違いますって!」

(令子さんといい、この病院の看護婦は、こういうからかい方をする人が多いな)

 思いながらも、完全に否定する方法が思いつかず、焦った。

「夜はまだ長いもの。お姉さんと遊んでいきましょうか」

 佐々木が言う。

「馬鹿言ってないで。君も病室に戻らないと。外科病棟でしょ」

 田頭が僕の足と松葉杖を見ながら言った。

「え、あ、はい」

「え~。もう少し遊ばせてよ~」

「君、もしかして、三上君?」

 鼻にかかった声を出して抗議する佐々木を無視して、田頭が言った。

「は、はい」

 名前を言い当てられて、驚き、緊張した。何も悪い事はしていないはずだが、何か咎められるような気がしてしまう。

「やっぱり。その年恰好で右足首のサポーターで入院患者って、三上君だと思った」

「え、この子、あの有名な?」

「そうそう」

「え、僕って有名なの?」

「そりゃね、入院して大怪我する人って、普通いないからね」

 田頭が答えた。

「お兄さんも有名よ」

「え?お兄さん?」

「そうそう。北村さんがどこからか代議士まで連れ出してきて、大文句言ってきたのよ」

 佐々木が答えた。

「それを君のお兄さんが論破しちゃったものだから、もう一部ファンができちゃって、人気者よ」

「え、論破?」

 しばらく考えて、賢吾の存在に思い至った。

「ああ!あの人、弁護士ですから」

「おー、いいね!弁護士」

 佐々木の目が輝いたように見えた。控えめだった田頭まで、前のめりになっているようだ。

「言っておきますが、あの人、妻帯者ですよ」

 僕はため息交じりに言った。

(どうして賢吾兄さんばっかりモテるんだろう…)

「えー残念!」

 佐々木が嘆きとともに項垂れ、田頭も明らかにがっかりしていた。

 僕はなぜか悲しくなり、紛らわせるために振り返り、外を眺めた。

 別館の四階五階の大半から、明かりが消えていた。

 視界の隅で、何かが動いた気がして、別館の屋上の方を見た。

 月明かりの中で、何かが光を反射した。別館の屋上。手前側だ。

 白っぽいものに押された何かが、時折光を反射している。

 目が慣れてくると、人の輪郭が見えた。

 白っぽいものは看護婦だ。小柄な看護婦が車椅子を押している。看護婦の体に重なって、髪の長い女の人がいた。女の人も車椅子を押しているように見える。

 車椅子にも人の気配がある。月明かりに照らし出されたのは、麻奈美だった。

 ゆっくりと進む先に、フェンスの無くなった場所が、口を広げて待っていた。

 背筋に冷たいものが走った。

(麻奈美は退院したんじゃなかったの?その前に、あの女の人、やっぱり麻奈美を…)

「何かあるの?」

 佐々木がそう言って、僕の隣から外を見ていた。

 僕は別館の屋上を指さし、

「あれ、まずくないですか?あそこ、フェンス落ちたところに向かってますよね」

 と言った。我ながら、冷静に言ったものだ。麻奈美の姿を認識した途端、僕はどうしたらいいのか訳が分からず、内心焦っていた。にもかかわらず、言葉は明快だった。

 僕は何かに導かれるような感覚を味わいながら、屋上の様子を指摘していた。

 田頭もすぐに窓際に寄って確かめた。

「まずいわね」

 田頭は一言呟くと、ナースステーションへ向かった。

「あたしが行くわ」

 佐々木も走り出した。ナースステーションを避け、右に向かった。

 僕も思わず、後を追う。

 佐々木はサンダルのようなものを履いていたので、走ると言っても速足程度だ。無理をすれば何とか付いていけた。

 佐々木はナースステーションに沿って反時計回りに走り、反対側へ向かった。

 ナースステーションの小窓が開き、田頭の手が突き出された。指先に鍵のようなものが見えた。

 佐々木が駆け抜けざまに受け取ると、西側に向かって伸びる廊下を進む。

 廊下の先にエレベーターと階段があり、エレベーターの呼び出しボタンを押していた。

 この廊下もベッド二台分ほどの広さがあった。まるでどこかの部屋か、ホールのようだ。

 僕が追いつくのを待っていたかのように、エレベーターの扉が開き、佐々木に続いて僕も飛び込んだ。

 佐々木は僕を一瞥しただけで何も言わなかった。三階のボタンを押し、閉ボタンを押す。

 エレベーターが動き出すと、佐々木が声を発した。

「元彼女なんでしょ?」

 佐々木が僕を見つめていた。

「はい。あんなことがあって、フラれちゃいましたけど」

 ここの看護婦の大半は何があったのかを知っているのだろう。だから、僕が有名人であり、賢吾にファンができているのだろう。

「でも、来るってことは、気になるのね」

「未練がましいですか?」

 佐々木が返事を悩んでいるとエレベーターが停まり、扉が開いた。

 本館三階は独特の雰囲気があって、探検を避けた場所だ。非常灯の照らし出す廊下は、どこか人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。

 佐々木はそんな雰囲気を気にも留めず、駆け出した。

 僕も意を決し、後を追う。

 左、左、右、左と、廊下を曲がっただろうか。行く手の右側にエレベーターの入り口がポツリと存在していた。

 先に到着した佐々木がボタンを押すと、運よくすぐに開き、中に駆け込んだ。

 僕が追いつくと、佐々木は操作パネルの下にある部分に鍵を差し込んで開けているところだった。

 エレベーターの中は正面にも扉があり、右端に操作パネルがあった。そちらは1~5の数字のボタンが並び、開閉ボタンがある。

 横を向くと、こちらも同じような操作パネルがあるのだが、3のボタンの横にもう一つボタンがあり、プラスチックのカバーで押せないようにしてあった。そして開閉ボタンの下、佐々木が鍵で開けた場所にもボタンが一つあった。

 佐々木はその一番下のボタンを押すと、閉ボタンを押して扉を閉めた。続いてふたを閉めて鍵をかけていた。

 エレベーターが動き出し、扉の上の表示板が4、5と変化した。そして最上階のはずの5を超え、Rと表示された。

 箱が停まり、入ってきたのとは別の、正面側の扉が開いた。

 そこは小さな踊り場になっていて、目の前に両開きの扉があった。

 佐々木はすぐに扉を押し開けて外に駆け出した。

 そこは、満月に照らし出され、妙に白く染まった屋上だった。正面に仕切りのフェンスが見え、右手のやや奥に、フェンスの途切れた所が闇に向かって口を開いていた。

 車椅子はその闇の入り口の少し内側にいた。まるで、僕たちの到着を待っていたかのように、そこにいた。僕の悪い予感が当たっているのなら、すでに車椅子は闇の中に吸い込まれていてもおかしくなかった。

 予感は外れ、ただ夜の散歩だったのだろうか。だが、消灯時間が過ぎて、しかも立ち入り禁止になっている屋上へ出るものだろうか。

「遠藤さん!」

 佐々木が呼びかけていた。僕の少し前で立ち止まっている。彼女の腰が、少し引けているようにも見えた。

 月明かりで適度に明るいはずなのに、雰囲気が暗い。どこか異世界の、そう、冥府の闇の中を連想してしまう。冥府など見たこともないのだが。どこか、不吉な雰囲気が漂っていた。不吉な予感と相まって、冥府の中に踏み込んでしまっているようだ。

 足が、闇の触手に抑え込まれる。影の手が背中を押して、フェンスの切れ間にできた冥府の入り口に押し込もうとする。

 フェンスの切れ目までは距離があるのだが、闇の開口部が押し寄せてくるような感覚に襲われた。

 佐々木も同じ思いなのかもしれない。足が止まり、遠藤の名前を連呼するだけだ。

 呼びかけられた看護婦は、聞こえていないのか、ゆっくりと前進していく。

 先ほどから耳元で誰かが危機を叫んでいるように感じられてならない。

 月明かりを浴びて、全身の感覚が鋭敏になって行く。感覚が鋭敏になって行くにつれ、闇に対する恐怖も増す。闇が足元をすくい、フェンスの切れ目まで押し進められ、今にも地上へと落ちていくのではないか。地上ならばまだいい。闇の先はこの世ならざる場所かもしれなかった。

 髪の長い女の人が、遠藤園子の体を操って、麻奈美の乗る車椅子を押している。いや、遠藤園子が女の人に協力しているのかもしれない。闇の開口部を目指して、ゆっくりと、ゆっくりと進む。その時間を楽しむかのような歩みだ。

 ドラマなら、恨みつらみを言いつのってうっぷんを晴らし、相手に屈辱と敗北を味わわせ、行動を持って締めくくるのだろう。

 締めくくりは、フェンスの無くなった部分に車椅子を押し出し、貪欲に口を開いて待つ闇の中へ突き落す。それ以外に考えられない。

『助けなくていいの?』

 女の子の声が聞こえた。僕の隣に、古めかしい継ぎ接ぎだらけの服を着た、十歳くらいの女の子がいた。

 どこか懐かしい顔だ。女の子の顔を見た途端、僕は闇の呪縛から解き放たれていた。

 弾かれたように走り出し、麻奈美のもとへ向かう。松葉杖は持っているものの、右足を突いて、自分の足で走った。

 激痛が走る。だが、それで立ち止まるわけにはいかない。悪い予感を的中させるわけにはいかない。手をこまねいて、麻奈美を不幸にさせるわけにはいかない。目の前にいるのに、見捨てられるはずがないだろう。好きになってしまったのだから。麻奈美を救うことで見直され、付き合いが続くかもしれないではないか。

 動機が不純だろうと、その思いが僕の糧になったのは間違いない。

 足の痛みを感じなくなっていた。

 車椅子がフェンスの脇を超えた。

(待って、あと少し!)

 遠藤園子は僕の存在に全く気付いていないようだ。車椅子に座る麻奈美も項垂れて動かない。

 車椅子の前輪が建物の縁に触れた。

 僕はとっさに松葉杖を突きだして飛び込んだ。

 杖の先が車椅子の大きな車輪に挟まって、急激に曲がって止まった。反対側の車輪が、建物の縁の傍だ。

「麻奈美!」

 僕は上体を起こして車椅子を見た。

 そこに、何事もなかったかのように、麻奈美が項垂れたまま座っていた。

(よかった)

 彼女の返事はないものの、闇に飲み込まれずに済んだ。

「なんてことをするの!北村さんを突き落とそうとするなんて!」

 車椅子の後方に立つ看護婦が、唐突に叫んでいた。今の今まで無反応だった小柄な看護婦が、僕に怒りの目を向けていた。

「え?」

 僕は何を言われたのか理解できず、両手で上体を反らせた不自由な格好のままで、唖然としていた。

 遠藤はたたみかけるように、

「あなた三上君ね!いくら彼女にフラれたからって、やり過ぎよ!これは問題にさせていただきますから、覚悟なさい!」

 とまくしたて、車椅子を押して戻って行った。

 僕はただ茫然と見送るしかなかった。

 腕の力が抜け、むき出しのコンクリートの上に寝転がった。

 同時に、全身に痛みが走った。コンクリートの上でスライディングよろしく飛び込んだので、打ち身や擦り傷があちこちにできているだろう。足首も思い出したように痛んだ。

 僕はゆっくりと体の向きを変え、仰向けになった。大きな月が、僕を見下ろしている。月は僕を慰めも非難もしない。ただ見下ろしている。

 佐々木が僕の顔を覗き込んだ。

「大丈夫?」

「あ、はい、たぶん」

「遠藤さん、どういうつもりかな。あんなこと言うなんて」

 佐々木が呟くように言った。

『あの人、あなたの事なんて見てもなかったわよ』

 女の子も近くにやって来ていて、佐々木に向かって言った。

「ともかく、ほら」

 佐々木は女の子に気づいていないのか、無視をしているのか分からないが、女の子には答えなかった。僕を真直ぐに見て、手を差し出した。

 僕は佐々木の手を掴むと、彼女が引き起こしてくれる力を利用して、立ち上がった。

 動くとあちこちでヒリヒリと痛んだ。

 女の子が僕の右側に立ち、体を支えてくれている間に、佐々木が松葉杖を拾って手渡してくれた。

「ともかく中に戻りましょ」

 佐々木が先に立ってエレベーターへ向かった。

「ありがとう」

 僕は女の子に礼を述べると、松葉杖を突いて後を追った。

 女の子が妙に嬉しそうな顔をしていた。

 肩越しに振り向くと、満面の笑みで付いてきている。

 エレベーターが来る間に、佐々木が僕の体をじっくりと見つめ、ジャージの前を開けて中を覗いたり、袖を引っ張り上げて腕を確認したりと、怪我の状態を確認してくれた。

 膝や胸の数か所、腕に擦り傷があって血がにじんでいた。腕や胸には青あざもでき始めていた。

 ジャージのズボンは穴が開いていた。上着も擦り切れてボロボロだった。

「お姫様の騎士は傷だらけね」

 佐々木はそう言って笑った。

「僕は余計なことをしたのかな」

「そんなことは無いわ。あたし、あの時動けなかったもの。君、勇気あるのね」

 佐々木が少し屈んで、僕の顔を下から見上げていた。

 女の人に見上げられると、ドキリとする。妙な気恥ずかしさと嬉しさが混在していた。

『こら!見つめ合うな!はなれなさい!』

 女の子が僕の体を押すものだから、後ろによろめいた。

 佐々木は、僕が照れて動揺したとでも思ったのか、クスクスと笑っていた。

 エレベーターで五階に降りると佐々木は、ここにいるようにと言い置いて、ナースステーションに飛び込んだ。

 すぐに金属の台を押して、高坂と一緒に出てきた。

「あらあら、何をやったらそんなボロボロになるの」

 令子が僕を見るなり、呆れたように言った。

「これでも英雄なのよ」

 佐々木はそう言って笑った。

 二人して僕の服をはぎ取ると、擦り傷の消毒を始めた。

 僕が痛がるのもお構いなしでどんどん治療していく。その間に事の顛末を、佐々木が説明していた。

「ふーん、騎士様かぁ」

 令子がにやにやと僕の顔を見つめていた。

「やめてくださいよ、騎士なんて」

 僕の抗議も素知らぬ顔だ。どうやってからかってやろうかとでも考えているのだろう。

「見かけによらず、やるじゃない」

 予想に反していた。これは、褒められたのかもしれない。

(もしかして、令子さんの好感度アップ?)

 僕は内心、ほくそ笑んでいた。

『ばっかじゃない』

 僕の隣に座って所在なさげに足を揺らしていた女の子が、にべもなく言い放っていた。

 不思議なことに、令子も佐々木も女の子には無反応だった。



  17


 治療が終わると、部屋に戻って休めと追い払われた。

 大人しく従って部屋に戻ると、女の子もついて来ていた。子供は三階のはずだし、何より僕の病室は個室だ。本来ならあり得ない。なのに、僕はなぜか、女の子がここにいることが当たり前のように思えた。

 僕がベッドに寝転がると、女の子は足元に座った。

 初めて会ったはずの女の子。だが、どこかで会ったような気もする。

(どこでだろう?それとも勘違い?)

 僕は枕をクッション代わりに上体を起こして、女の子を見つめた。

『何よ、女の子をじろじろ見るものじゃないわ』

 女の子が頬を膨らませた。そう言いながらも、僕の視線から逃げようとはぜず、逆に見つめられて喜んでいるのか、目と眉がひくひくと動いていた。まるで噴き出すのを懸命に我慢しているようだ。

 おかっぱ頭で、学校の授業で見た、戦時中の女の子のような印象だ。着ているのは色々な柄の布を使った継ぎ接ぎだらけの服だった。

 記憶をたどっても、一向に思い当たらないので、思い切って聞いてみた。

「君、誰なの?どこかで会った?」

 すると女の子はため息を漏らした。

『まだ思い出してないのね』

「やっぱりどこかで会ったんだ?何時?」

『ずーとむかしを思いだして』

「昔…」

 僕はもう一度、記憶をたどった。

(この前、僕が昔を思いだして落ち込んでいた時、誰かが背中を擦ってくれたような…)

『あれはあたしよ。やっと気づいた?』

(さっき、本館で屋上に麻奈美たちを見つけた時、誰かに指示されたような…)

『あたしがおしえないと何もできないんだから』

(僕が事故に遭った時、逃げ道を教えてくれた声も、女の子っぽかったなぁ)

『あの時はあたしの声が聞こえて本当によかったわ』

「ってちょっと待って、僕の考えが分かるの?」

『そんな大きな声で考えていたら、聞こえないわけがないじゃない』

「え」

(どういうことだろう?読唇術?じゃないよな。口は動かしてないんだし。心を読む?そんなこと、実際にできるの?)

『うーん、やろうと思えばできるかも』

(頭で呟いたことと、会話が成立してる…)

 僕は驚き、女の子をまじまじと見つめていた。

(便利なような、弊害が出そうな…。あ、でも、もっと大人の女の人に心を読まれたら、好きな子に読まれたら、告白の必要が無いな。便利かも)

『はぁ。おきらくね。で、あたしのこと思い出せたの?』

 その一言で、再び記憶を手繰った。

 心を読まれるということに対する恐怖心はなかった。いや、もしかすると、すでに長年にわたって経験し、慣れていたのかもしれない。かなり昔から、僕の傍にいたのではないか。

 ふとそんな思いがよぎったこともあり、最近の出来事を飛ばした。

 昔と言えば、子供の頃は人に見えないものを見て、気味悪がられていた。その頃だろうか。

 子供の僕。一番に思い当たるのは、やはり両親の亡くなった事故だ。事故の次の日、僕は何を思ったか、早起きをして、自転車で事故現場へ向かった。

 事故現場と言っても、車の落ちた池ではない。車の底部を何かにぶつけた場所だ。そこに人知の及ばないものがあると、なぜか思ったのだ。

 実際、底部をぶつけたからと言ってブレーキが利かなくなるなど、構造上ありえないはずだ。なのに、僕はあの時の音が気になって仕方なかった。あの時にぶつかったものが原因だと信じて疑わなかった。

 その原因が峠道に放置されたままだと、次に通る車も被害を受けるだろう。

 九歳の僕がそこまで考え及んだとは思わないが、原因を見つけに行ったのは、間違いない。

(もしかして、この時も、この女の子に指示された?)

『どうだったかしら?』

 女の子も小首をかしげていた。

 自転車で数時間かけ、やっとの思いで現場にたどり着くと、道の真ん中に、両手で抱えるほどの大きな石があるのを見つけた。

 今思い出しながらも、物理法則がおかしいとしか思えないのだが、それほど大きな石を、九歳の僕は抱え上げることができたのだ。

 軽いものであれば、車がぶつかったところで何ともない。石の方が吹き飛ばされて終わりだ。

 しかし、石の上部にはしっかりと衝突した傷跡があり、地面に少しだけめり込んでいた。

 なのに、九歳の僕の腕力で、難なく持ち上がっている記憶だ。

(僕って実は力持ち?)

『バカ言ってないで』

 女の子が呆れてため息交じりに言った。

(まあなんにせよ、その石が今ないのだから、確認しようもない。えっと、その時かな?)

 思いをはせながら、女の子を見つめた。

 石を見つけた時、今目の前にいる女の子が、同じ格好で立っていたように思う。いや、間違いなく立っていた。

(そうだ!)

 僕に、危ないからこの石をどっかにやってと頼んできた女の子だ。石を持ち上げて、どうしようかと悩んでいたら、賢吾がやってきたので、石ごと車に乗せてもらったのだ。

 その時、女の子も確かについてきた。

 賢吾のおかげで、両親の通夜が始まる前に何とか戻ったのだ。

(僕はあの石、どこへやったのかな?まあ、思い出せないし、いいか)

 あの晩、賢吾は一度自宅に戻り、僕は一人寂しく、親戚の大人たちに囲まれていた。僕は居場所が無くて、縁側に離れていると、大人たちの会話が聞くともなしに聞こえた。

「誰があの子の面倒を見るの?うちは子供二人いて手一杯よ」

「兄さんの所では?」

「おいおい、子供の面倒見る余裕なんてないぞ」

「そうよ、あんな気味の悪い子」

「誰もいない影に向かって話しかけていたそうよ」

「気味悪いわ…」

「今日も、両親が亡くなったというのに一人遊びに出て行方知れずになるし、面倒見切れるわけがない」

「でも、この家、敷地も広いし、大きいわね」

「ああ。株で儲けていたみたいだからな」

「株も残っているの?」

「そうらしい」

「じゃあ、あの子を引き取れば、この家と株が付いてくるわけね」

「お宅でどう?」

「おまけだけならいいわ」

「ねぇ。株を上げるから、あんたの所で引き取りなさいな」

「何都合のいいこと言ってんだ」

「株とこの家、どのくらい資産あるのかしら」

「土地はまあ、この辺のことだからそれほどでもないだろう。株はそこそこあるらしい」

「億超えるって聞いたぞ」

「それは…それだけもらって、あの子はどこかの施設にでも入れるか?」

 大人たちの不毛な会話を打ち切ったのは賢吾だった。子供の心配ではなく、資産のことを話し合っている親戚たちに、賢吾は語気も強く割り込み、自分が僕の後見人になって資産を管理し、ゆくゆくは僕に継がせると、宣言したのだ。

 その時の賢吾にはとても感謝している。僕の味方であってくれたのだ。しかし、あの当時を思い出すとどうしても先に立つ感情がある。

(ぼくはいらない子なんだ)

 九歳の自分と、今の自分が重なる。あの時分だろうか。胸の奥にハリネズミが住み着いたのは。今も思い出したように、胸の奥で針を立てて丸まっていた。

 思い出しただけでも、余りに惨めで、九歳の子供には到底太刀打ちできない感情があふれ出た。負の感情に押しつぶされることなく、今まで生きてこられたのは、ひとえに賢吾のおかげだ。とはいえ、よくも精神的に屈折せずに済んだものだと、自分でも感心する。

『いらない子なんていないよ』

 女の子の声だ。記憶の声と、今正面で聞こえる声が、重なった。

『あんなのかってに言わせておけばいいじゃない。そこにヒロくんの味方が一人いるだけで、十分でしょ』

 これは記憶の中の声だ。

「でも、ぼく…」

 子供の僕は、言葉も出ず、ただただ、卑屈に、相手を見上げるだけだった。

『じゃあ、あたしがずっとそばにいてあげる。そうしたら、さみしくないでしょ?』

「ほんとうに?」

『うん』

「ずーっとだよ?」

『ずーっとずーっとね』

「ずーっとずーっとずーっと?」

『ずーーーーーーーーーーーーーーっとよ』

 女の子は息の続く限り吐き出した。

 他愛のない会話だ。でも、僕がどれだけ救われたことか。胸の奥で、ハリネズミの針が何本か抜け落ちて消えた。

「やくそくだよ?ゆみちゃん」

 子供の僕の声が、涙で震えていた。

『うん!あたし、ユウレイだからうそつかないもん!』

 屈託なく笑う女の子の幽霊に、僕は救われたのだ。そうだ。僕はしっかりと思い出した。生活面では賢吾に救われ、育ててもらった。精神的にはこの女の子に癒され続けていたのだ。

 賢吾夫婦に学校へ通わせてもらい、食事をさせてもらい、暖かなベッドと安らぐ部屋をあてがってもらったのだ。当たり前になりすぎて忘れていた。

 そのことを再確認すると、今、一人暮らしを始め、一人で生きて行けるように努力していることがおこがましく思えた。

 僕は色々なことを忘れ去り、平穏に生きようとしていたのだ。幽霊のゆみが僕のために、誠心誠意そばに居続けてくれたのに、周りから浮きたくない一心で、忘却の彼方に押しやっていた。彼女が唯一、僕のハリネズミの針を抜くことができる存在だったというのに。

 幽霊のゆみは、今、目の前で、記憶の中と同じ笑顔で、僕を見つめていた。胸の中に温かい何かが満たされていくのを感じた。胸の奥のハリネズミが、小さくなっていく。

(ああ、僕はなんて大切なことを忘れていたんだ)

 同時に、自分の愚かしさに呆れた。

『生きているんだもの。しかたないわ』

 幽霊のゆみは、落ち着いて言った。

『それに、あたしとばっかりあそんでいて、まわりの子にきみわるがられていたもの』

「そう、か」

 知らず知らず、僕は涙を流していた。手でそれを拭うと、少し落ち着いてきた。

「ああ、そうだね。僕が女の子と付き合うと変なこと起こったのも、ゆみちゃんの仕業だね」

 色々な記憶が、パズルのピースがはまるように合致していく。

『あたしというものがありながら、他の女にちょっかい出すんじゃないわよ!』

 頬を膨らませ、先ほどと真逆の事を言う。両手を腰に当てるゆみを見ていると、可笑しくなって、僕は噴き出していた。

 本当に久しぶりに、心から笑ったような気がする。

(ゆみちゃんは約束通り、ずっと僕の傍にいて、守ってくれていたんだなぁ)

 僕は安心しきったのだろう。頂点に差し掛かった月明かりを浴びて、そのまま眠りに落ちていた。



  18


 次の日、外が騒がしくて目が覚めた。まだ眠り足りない思いを引きずりながら、目をこすっていると、部屋の扉が開いた。

「とにかく、どういう理由だろうと、ここは病院です。病院である限り、患者の治療は行わせていただきます」

 廊下にいる誰かに向かって言い放つと、主治医が現れた。

「おはようございます」

 自分の声が安定していない。呂律が回っていないのが分かった。

 主治医はじっと僕を睨みつけた後、ため息を一つ吐いた。

「君と言う子は、本当に」

 呆れたと言わんばかりだ。

「どうかしたんですか?」

「昨晩の件、もう広まっているぞ。人を殺そうとするなんて。そういう風には見えないのにな」

「え、ちょっと待ってください。殺す?なんですかそれ」

「昨晩の屋上での件だ。君は元彼女にフラれた腹いせで、屋上から突き落とそうとしたのだろう?」

 僕は思っていなかった展開に、狼狽した。何かを言い返さなければと思いつつも、言葉が出ない。

『あの看護婦が言ったのね』

 幽霊のゆみが隣で言った。おかげで僕は呪縛から逃れ、言葉を発した。

「違いますよ!僕は危ないから止めにいったんです!それに、えっと、確か、佐々木という看護婦さんも一緒だったから、その人に聞いてみてください」

「佐々木?」

「向うの五階にいました」

「ああ、内科病棟の看護婦か。分かった。後で聞いてみましょう」

 主治医は僕に近づくと、まず、右足のサポーターを外して触診した。

「まずは体の確認だ。まったく、病院で傷を増やすのは君くらいのものだ」

 いくつか小言を繰り返しながら、診察していった。

「本当はX線写真も撮って確認したいところだがな…」

 足首を離すと、ボロボロの服を脱ぐように指示してきた。

 僕は昨晩の、傷だらけになったジャージ姿のままで眠っていたのだ。言われるままに脱ぎ、パンツ一枚のみの姿をさらした。

 幽霊のゆみが真剣に僕の体を見ている。

「ちょ…」

「ん?」

 危なく、止めろと声に出すところだった。主治医に怪しまれないよう、苦笑いでごまかすと、

(そんなに見つめないでもらえる?)

 と、心の中で抗議した。

『別にいいじゃない。へるものでもなし』

(ほー。じゃあ、後で、ゆみちゃんの体も見させてもらおうかな)

『え、うわ。なんかごめんなさい。あたし、そんなヘンタイといっしょだったなんて』

 そう言ってそっぽを向いた。

 要らぬ誤解を生じた気もするが、裸を見られ続ける恥ずかしさよりはいいだろうと、聞き流すことにした。

 主治医は一通り触診をすると、

「まあ、さしあたっては、大丈夫でしょう。どこか痛いところはある?」

 と聞いてきた。

「擦り傷と打ち身が痛い程度で、他は大丈夫だと思います」

「右足首は?」

「動かさなければ何とも」

「そうか。あー一応言っておくと、三上君」

 主治医が改まるので、僕は体がこわばった。

「は、はい」

「病室から出ないように」

「え」

「そこに警官が立っているので、出ようとしても出られないだろうけれどもね」

「ええ?」

「君は殺人未遂犯ということになっている」

 僕は思わず、言葉にならない声で叫んでいた。

「そちらの事は専門外だから、見てあげられない。お大事にね」

 主治医は涼しい顔で出て行った。

「なんで!なんでなんだぁ!」

 叫んでみても、誰も応えない。

(僕はこのまま、警察へ連行されるの?無実の罪で?)

『あの女、やってくれたわね…』

 幽霊のゆみも一緒になって、憤っていた。

 叫びに代わって、僕のお腹が鳴り響いた。

 普段なら、朝食を運んでくるはずの女性もやってこないので、食事すらない。非常食用に買いこんだお菓子や菓子パンはまだあるので、飢えは凌げるものの、このやりきれない状態の打開策はまるでなかった。

「食事をとる権利くらいあるでしょうが!」

 廊下で女性の怒鳴り声が聞こえたかと思うと、力任せに扉が開かれ、勢い余った扉が大きな音を立てた。

 手にお膳を持ち、仁王立ちする令子だ。北側に立つというのに、なぜか光を背に浴びて立つようだ。

(女神だ!女神さまが来た!後光だ!後光が射してる!)

 たかが食事を運んできてくれただけなのに、僕は大げさなことを考えていた。

『アクマだわ!ヒロくんをゆうわくするマジョが来たわ!』

 幽霊のゆみは、こちらも大げさなことを口走っていた。内容は真逆ではあるが。

 僕との間に幽霊のゆみが立ちはだかるものの、令子は気づきもせず、ゆみの上を通過するだけだった。

「は~い、おはよう」

 令子はいつものようにタンクトップの上に、ジャケットの袖を通さずに肩に羽織り、紺の綿パンを履いていた。

「おはようございます」

 令子が無造作に突き出すお盆を受け取ると、横の机の上に置いた。

「もう帰りなんですね」

「あー、ん、まね」

 令子は少し歯切れの悪い返事をすると、椅子を持ち出して窓際に腰かけた。

「まだ時間も余り経ってないのに、なんかすごいことになっているようで」

 僕自身はあまり実感がないものの、先ほどの主治医曰く、警察が来ていて、僕は軟禁状態らしい。僕も警官の姿を見れば実感するのだろうか。

 それに昨晩、僕は麻奈美を助けたつもりだったし、少なくとも側にいた佐々木という看護婦も同じ思いだったはずだ。なのに、麻奈美を殺そうとした殺人未遂犯になっているという。この食い違いが、僕に実感させない要因だった。

 今までと違い、幽霊のゆみの存在を思い出していることが心強くあった。ゆみが傍にいてくれるだけで、僕の心は平常心を維持してくれる。

「ごめんね。遠藤が婦長に訴えたものだから、こんな事態になっちゃったの。うちの婦長、遠藤にはやたらと甘いし、遠藤の言うことは全部信じるし、遠藤が有利になるように取り計るのよ」

 珍しく、令子が愚痴交じりのことを呟いていた。

 令子は苦笑すると、

「せっかくだし、ほら、食事して」

 と、話を終えた。

「あ、はい、いただきます」

 僕はおとなしく従い、パンと牛乳とヨーグルトとサラダという質素な朝食に取りかかった。

 食事をする間、令子は窓の外を眺めていた。普段なら、適当なところで帰るはずが、今日は立ち上がろうともしなかった。

 何か様子の違うものを感じながらも、僕は黙って食事をした。簡単な食事なので、比較的早く平らげることができた。

 それでも令子は帰ろうとはせず、沈黙の時間が過ぎた。

 その静寂を破ったのは、三度目の怒声だった。

「面会謝絶にする権利があるのか!なんだね?彼は逮捕されたのか?だったら彼には弁護士を呼ぶ権利がある!幸い私は弁護士だ!何?逮捕はしていない?だったらなおさら、あんたらに私の入室を拒む権利は存在しない!」

 賢吾の声だった。この病室に入るには語気を強める決まりでもあるのだろうか。

 扉が力強く開いた。扉は二度目の被害に遭って、大きな音を立てていた。

 スーツ姿の賢吾が鼻息も荒く乗り込んでくると、そのままの勢いで僕を睨みつけた。

「おはよう」

 僕は何気なく挨拶をしたが、睨むのは止めてもらえなかった。

「まったく、お前という奴は」

 挨拶の代わりにぼやくと、短い髪の頭を掻きむしった。

 賢吾は令子に向き直り、姿勢を正すと、

「連絡いただき、ありがとう」

 と頭を下げた。

「いえいえ。夜分遅くにすみませんでした」

 令子はそう応じて、こちらも軽く頭を下げた。

 賢吾は、令子に向けた優しげな顔を一変させ、僕に一歩詰め寄ると、威嚇するように見下ろした。

「どういうことか説明してもらうぞ!」

 後見人の賢吾には、当然聞く権利がある。そして何より、彼は弁護士だ。おそらくこういった事態では頼りになる。必要なことはすべて話す必要があった。

 僕は昨晩の話を、本館五階で看護婦と一緒に見ていたところから語った。

 聞き終えた賢吾は顎に手を当てて考え込んだ。

「止め方は乱暴だが、目撃者がいるなら問題ないな」

 賢吾はそう呟くと、令子に向かって聞いた。

「その佐々木という看護婦をご存じで?」

「ええ、佐々木さんは内科病棟の看護婦なので、あまり接点はないけど」

「素行に問題のある人ですか?」

「う~ん、悪いうわさは聞かないな。なにかあるの?」

「もしも裁判になった時、証人の素行が悪いと、そこを突かれて印象が悪くなることがあるので、一応ね」

 賢吾は簡単に説明すると、令子に礼を言って頭を下げた。

「もう一人の、田頭の方は?」

「内科病棟の主任看護婦ね。良い人よ。少々規則にうるさい人だけども」

「おい兵隊ども!こんなところで突っ立ってないで、捕まえるべきヤカラの所へ行けよ!」

 四度目の大声が扉の外で聞こえた。今度は扉がゆっくりと開き、扉自身は無傷で終わった。

 上下を黒い革製の服に身を包んだ皆川だった。

「よー!お揃いで」

 みんなの顔を見渡すと、陽気に言った。

「お前、警官に喧嘩売ってないだろうな?」

 賢吾が呆れ顔で問う。

「俺だって場所をわきまえるさ。ま、そのつもりはなくても、十分喧嘩売れるネタはあるけども、な」

 皆川は、一人陽気だ。

「どこまでわかった?時間もなかったのに」

 賢吾が訝った。

「ん。まだ完全じゃないんでね。幾つか少年に聞きたい。予想の範囲でなら、全部分かると思うぜ」

「全部?」

「たぶんね。あくまで予想の範囲で、な」

 皆川は相変わらず笑顔を浮かべ、椅子を一つ取って僕の傍に座った。

「まずは、直近の殺人未遂の事だ。俺にも聞かせてくれ」

 皆川が言うので、僕は賢吾に言った通りを説明した。幽霊のゆみが僕の忘れている事柄を補足してくれるので、ほぼ漏らしなく伝えられただろう。

「ふむ。遠藤園子か。やや弱いが、彼女には動機もある。が、何かが足りないな」

 聞き終えた皆川はそう呟いた。

「なに?」

 賢吾が短く問う。

「遠藤は北村麻奈美の兄と付き合っているはずよ?殺そうとする?」

 今まで黙っていた令子も、動機と聞いて不思議がった。

「ん?ああ、そっちは、共依存さ」

 皆川はそれで全てが説明できると言いたげだった。

「共依存?なんだそりゃ」

「共依存て、例えば、アルコール依存症の患者とその家族の関係みたいなものでしょ。アルコールに依存している患者が、介抱してくれる家族にも依存して。もう一方は介抱することで、自分がいなきゃあの人はダメになる、みたいに感じて心の拠り所にしていくの」

 令子が自分の知る範囲で説明した。

「そう、それだ。遠藤園子の場合、依存したい相手は北村信也で、彼やその両親に取り入る手段として、北村麻奈美に対する甲斐甲斐しい看護だ、ということさ」

「打算的過ぎて、当てはまるのかしら?」

「さあ?俺も精神科医ではないんでね。が、一番当てはまるだろ」

「う~ん、そうかしら。対象者を自発的に死に追いやることは無いわ。対象者の意に添うようにすることで、結果的に死期を早めることはあっても」

「対象者は兄だ。妹への献身は、あくまで手段にすぎない。そもそも、あまり手段は選ばなかったようだぜ。北村麻奈美に抵抗されたり口うるさく言われたりしたくなかったのだろう。だから、意識混濁状態に陥らせた」

「なんですって?」

「手段が分かってしまえば、何のこともないさ」

 令子は何か言い返そうとするも、言葉が出なかった。

「点滴に筋弛緩剤を混ぜていた。その証拠も入手済みだ」

 皆川は声のトーンを落として答えを教えた。

「そんな…。確かにそれなら意識混濁は引き起こせるけど…。でも、そんな…。看護婦が患者に、そんなこと…」

「だが、どの程度混ぜればいいのかも、知っている。違うか?」

「知っている可能性は、あるわね。でも、あの子も看護婦なのよ?」

「看護婦だからできた、と言うべきだな。遠藤園子にとって、北村麻奈美の意識混濁は一石二鳥なんだ。兄との関係を猛反対する北村麻奈美と面と向かえば、罵詈雑言浴びさせられる。だから黙らせたい。そして、意識混濁していれば、誰かしらの看護が必要で、甲斐甲斐しく看護することで北村夫妻や兄の信也にアピールもできる」

「でも、そこまでする?」

「やっちまったな」

 令子はそれ以上追及できなかった。令子が思い描く遠藤園子像に合致する部分があったのかもしれない。事実、北村麻奈美は原因不明で意識混濁を起こしており、遠藤園子がその看護に専念していたのだ。

「待てよ。共依存とやらは何となく分かったが、だからと言って北村麻奈美を殺そうとする理由はない。取り入りたい相手の大事な家族を殺してしまっては、元も子もないだろう」

 賢吾が根本的な指摘をした。

「ええ、殺すことは無いわね。例えば傷つけて看護の必要な状態を引き延ばすのなら、分かるけども」

 一度引き下がった令子も賢吾に同意した。

「遠藤園子と北村信也は恋愛関係にある。だから信也の大事な妹は殺さない?まあ、普通なら道理だな。ところが、遠藤園子と北村信也の付き合いには、やや問題があるのさ。殺そうとする動機について、無理やり結びつけることは可能なのさ。が、やはりあんたらが言う通り、殺したり、殺そうとしたりするのは破滅しか生まない。ここが何かが足りないポイントだ」

「いやいやいや。その前にだ。その無理やり導ける動機ってなんだ?」

「あー、まずは、遠藤園子にとって、北村信也が研修医として来ているこの病院で、彼の妹の看護をすることは、アピールにもってこいだった。これはいいな?よし。遠藤園子と北村信也はこの病院内でもこっそり逢瀬を重ねていた。北村麻奈美の専属看護婦の座を勝ち得て、恋人との逢瀬も重ねられて、順風満帆だ。

 ところが北村信也にとってはそうでもなかった。最後の一線を越えられない理由として、まず、両親の反対に遭っていると持ち出した。続いて駆け落ち同然に暮らそう、そのために金銭的援助をしてくれと持ち掛けた。金を持ってくるようになると今度は、妹に猛反対されていると言い出す。そして、妹がいなくなればいいのにと、漏らした。北村信也はおそらく、遠藤園子とそれ以上の関係になる気はなかったのだろう。良いようにもてあそんで、最後は、父親の言う相手と結婚しなければならないので別れてくれ、と言う。あるいは愛人関係で囲い続ける程度だろう。

 ところが遠藤園子は北村信也の言葉を言葉通りに受け取り、北村麻奈美がいなくなれば自分たちの関係も進展すると考えた。だから、北村麻奈美を排除することにした、というあたりだな」

「まるで見てきたみたいだね」

 僕は思わず呟いていた。

「実際、目撃もしたさ。誰かさんも壁の陰で見ていただろう?」

「え?あの時いたの?」

 皆川が片目を瞑って見せた。

「少年が目撃した場面以外でも同じような状態だったさ。あれだけ妹が反対していると強調されば、障害を排除したくもなるだろう。とは思うが、自分に追求の目が及ばない方法で殺そうとするのならともかく、現状では、やや弱いな。まあ、切羽詰まった女ってのは、後先考えないことがあるからな。その可能性もある」

「それが動機と…」

 賢吾が唸った。

「殺してしまっては、元も子もないだろう。自分が犯人にはならない自信があったのなら別だが」

「そこがまだ分からんな。後先考えなかったのか、それとも何とかなる方法があったのか」

 皆川も肩をすくめていた。

「遠藤さんに憑りついた女の人の幽霊が後押ししたんだと思う」

 僕が何気なく言うと、全員が言葉に窮していた。

「あれ?僕、変なこと言った?」

『いったわね』

 幽霊のゆみが即座に突っ込んだ。

 最初に言葉を発することができたのは、賢吾だった。

「幽霊と言ったか?」

「うん」

「見えるようになったのか?また」

「ちょ、さらっと幽霊とか、何?」

 令子もやっと口を開いた。

「まいったな。幽霊とはまた蓋然性のない方向に飛ぶな」

 皆川も、どうしていいのか分からないといった面持ちだ。

「ん?また?」

 皆川が怪訝な顔をして、賢吾を見上げた。

「ああ。弘樹は以前、幽霊が見えていたようなんだ。誰もいないところで誰かと会話しているふうだったり、相手の後ろを見て会話したり、といったことがあってね」

「霊感少年だったの?」

 令子の目が輝いていた。

(女の人ってなんでこう、霊の話が好きなんだろう?怖がるくせに)

 思いながらも、令子に熱のこもった目で見つめられるとまんざらでもなかった。

「おい弘樹。お前の傍にいるのか?」

 賢吾が困惑した顔で、尋ねた。

「うん」

「え?遠藤園子を操った霊とやらが?」

 皆川があまり信じてなさそうに言った。

「違うよ。ここにいるのはゆみちゃん」

『はあ~い』

 幽霊のゆみが皆に向かって手を振った。もちろん僕以外には誰も気づいていなかったが。

「ゆみちゃん!」

 賢吾が天井を見上げ、絶句した。

「あらぁ?女の子をはべらせているの?」

 令子はにやにやと意味ありげに笑った。

「どの辺りにいるの?そのゆみちゃんて子」

 令子は興味津々なようで、窓辺から立ち上がって辺りの空間を触りながら、僕に近づいてきた。

 幽霊のゆみは僕の膝の上あたりの空間に座っている。僕はその辺りを指さした。

 偶然にも令子の手が幽霊のゆみに触れる。が、気付かず、そのまま通り過ぎた。

「どこよ」

「膝の上くらいに浮いてます」

 僕が答えると、令子は迷わずベッドに上がり、僕の足元からゆっくりと近づいてくる。

 前かがみになって、両手をベッドについて歩くものだから、タンクトップの胸元が目の前に広がっていた。質感のある膨らみが、僕の目をくぎ付けにさせた。動くたびに左右に揺れる。だが、全体は見ることができない。それがもどかしくもあり、艶めかしくもあった。

『どこ見てるのよ!』

 幽霊のゆみが抗議している。でも僕は、近づいてくる柔らかそうな双丘から、目が離せなかった。

 令子がそのまま前進し、僕の目の前まで顔を近づけ、正面から見つめる。

「おいおい。ここは病院だぞ。エロ女」

 皆川の声に、令子が唸りのような声を上げて振り向いた。しかし何も言わず、僕の隣に移動した。

(ああ、いい眺めだったのに)

『もう!ヒロくんのエッチ!なんでそんなじゃまなものがいいのかしら!』

 幽霊のゆみが僕の心の声を聴き、頬を膨らませた。幸いなことに、周りの皆には聞こえていない。

(もしも令子さんにでも聞かれたら大変だ)

 僕はできるだけ令子から視線をそらした。

「もーどこにいるのよ!」

 令子が嘆きながら、僕の肩に手を置いた。途端に令子が、文字通り飛び上がった。

 そして再び、僕の肩に手を置く。手を離す。手を置く。

「何をやってらっしゃるので?」

 僕は怪訝に思い、横を見ると、令子が幽霊のゆみに向いて、目を見開いていた。

『あたしが見えてる?』

 幽霊のゆみの声に、令子が声もなく頷いた。

『あ、聞こえてる!うそ!』

「え、どういうこと?」

 僕には何が起こっているのか、理解できなかった。賢吾や皆川にしても同じで、怪訝そうに見つめていた。

 令子は何も言わず、僕の肩に手を置いたり離したりを繰り返した。そしておもむろに、僕の肩に手を回して寄りかかってきた。

『ちょっ!何やってるのよ!はなれなさい!』

「いや。だって離れたら見えなくなるもの!すっごーい!これが幽霊なのね!」

 令子はゆみの抗議を一蹴すると、一人感激していた。

 皆川も何を思ったのか、手を伸ばして僕に触れた。

「マジかよ…」

 皆川も驚いている。視線はしっかりと幽霊のゆみに向いていた。

「オカルトにはまるで興味がなかったんだがな…。こりゃ説明のしようがない。どういうトリックだ?」

「おい、お前ら。俺を担ぐ気か?なんの冗談だ」

 賢吾は周りの状況に付いて行けず、困惑の極致だった。ドッキリ番組を仕掛けられた相手のように戸惑っていた。

「いいから黙って、この子に触って見なさいな」

「この女に同意するのは癪だが、触れてみれば、分かる」

 令子と皆川が、賢吾に行動を促す。

 賢吾は恐る恐る、ベッドに乗りあがって、僕の足に触れた。そして皆が見つめる空中を凝視して固まった。

『おひさしぶり~』

 幽霊のゆみは愛想よく手を振って挨拶した。

「お久しぶりって、賢吾兄さんには見えてなかったんだから…」

『あら、そうだったっけ?』

「マジか…。俺も声が聞こえる…」

「でしょでしょ!」

「どういう原理だ?これ?」

『あたしにもわかんない。ヒロくんのせいなのかな?』

「僕の?」

『うん。ふつうの人って、あたしたちを見ることもさわることもできないの。ときどき見える人はいるみたいだけど。さわるのはほとんどいないみたい。でもヒロくんはりょうほうできるもの。何かとくべつな力があるのかも』

「へー」

 我ながら、実感の乏しい事だった。

 皆川が空いた手を伸ばしてみたものの、何も触れず、幽霊のゆみの体を素通りした。

「そうらしいな。色々研究できそうだぞ」

「よしてくださいよ」

「オカルトに憧れても自分が体験できることなんてないもの。これはいいわ!」

 令子ははしゃいでいた。

「えっと、これは、どう…」

 賢吾がやっとのことで言葉を絞り出したものの、意味不明だった。

「ま、怪奇現象ということで」

 皆川が務めて明るく、一言で解決を図った。

「ねね、ゆみちゃん。三上君とずっと一緒にいたの?」

 令子は興味津々に尋ねた。

『うん、いたよ』

「お風呂とかも?」

「ちょ!何聞いてるんですか!」

 聞かれた当の幽霊のゆみは、頬を赤らめて横を向いただけだった。

「あらあら」

 令子は面白そうに、口元に手を当てて笑った。

「あー、まあ、横道にそれ過ぎだな」

 皆川が、片手で僕に触れたまま、空いた手で頭を掻いた。

「ああ、そうだ。話を戻してくれ。どこまで進んでいたかな?」

 賢吾も僕に触れた手を維持したまま、答えた。

「あー、どこだっけか?」

 皆川も調子が狂ったようだ。

「でも、幽霊が人を操って、人を殺そうとするの?」

 冷静だったのは、令子だ。

「あの女の人は、ずっと麻奈美を殺そうとしていたんだ。事故の時にも見たよ」

『ゆうれいもよっぽど力が強くないかぎり、人にはさわれないの。だから、きょうかんする人にとりついてこうどうしてもらうの』

「つまり、できるということか。ん?共感?なるほど。遠藤園子は北村麻奈美が邪魔だった。その幽霊は北村麻奈美を殺害したかった。利害の一致か。利害が一致したがために霊に操られ、後先考えずに、と言うことか」

 皆川が調子を取り戻していった。

『そうだと思う』

「でも、幽霊の方にも殺そうとする理由があるはずだよね」

 僕は疑問を口に出した。幽霊のゆみ以外に伝えるには、口に出さねばならない。いつものように頭の中で呟いたら、聞こえないだろう。

「ほう。幽霊にも動機が必要なのか」

 皆川が呟いた。

『じばくれいならともかく、たいていりゆうがあると思う』

「何か心当たりは?」

「今のところ分かりません」

「そうか。とすると、残っている謎は、その幽霊の動機…。まあ、現実レベルではあまり必要ないが…。それと、遠藤園子が後先を考慮していた場合も排除できない。さらに、遠藤園子がなぜ北村麻奈美の専属看護婦たりえたのか、と言ったあたりか」

「そんな疑問、必要なさそうだが…」

 賢吾が考え込みながら呟いた。

「遠藤園子は車椅子を止められた直後に、弘樹に向かって、殺そうとするなんて、と言ったのだったな?」

「え、あ、うん」

「それはつまり、初めから人に罪を着せる気だったと…」

「いや、それはおそらく、突発的に、閃いて言ったのだと思うぜ」

「どうしてだ?」

「そもそも、現場は鍵がないと入れない。エレベーターもしかり。仕切りのフェンスにも南京錠。鍵を管理する看護婦や病院関係者以外入れない場所だ。誰かを連れて行ったのならば初めから考えがあったのだろうが、どちらかと言えば、誰にも見られずに犯行におよぼうとした状況と考えるべきだ」

「後先考えなかったのに、状況は考えるのか?」

「ああ。現場の状況は偶然かもしれんな。たまたま鍵で出入りが制限された場所で、その日たまたまフェンスが落ちて。偶然のたまもので、突き落とすのにちょうどいい場所ができた」

「フェンスが落ちたことは、本当に偶然だろう?」

「強風と言う偶然だな」

「幽霊が時間をかけて留め具を外したのかも」

 僕が賢吾と皆川の会話の間に割って入り、疑問を口にした。

「偶然ではないと?」

「フェンスが落ちた後、女の人の幽霊が上にいたんだ。そのフェンスの切れ間の所に」

 僕の言葉に、皆が意見を求め、幽霊のゆみを見つめた。

『うーん、ネジをゆるめるくらいならできないことはないと思う。時間はあったんだし』

 皆が押し黙る。最初に口を開いたのは、賢吾だった。

「幽霊が介入したかどうかはともかく、フェンスの落下はどの道自然災害と言う偶然だろう」

「ああ、そうだな。遠藤園子はその偶然を利用したに過ぎない。幽霊に導かれたとしても。状況的には後先考えていなかった可能性が高い。ただ、彼女には、後付けでも何とかできる方法があったのかもしれない」

「あったかもしれないわね。外科病棟の婦長が、遠藤に甘いし優遇するの。彼女が北村麻奈美の専属看護婦になったの件も、婦長の指示よ」

「ほう?その婦長に遠藤園子を優遇する理由があるのか?」

「田中婦長の姪だって噂ね。彼女は。普通にシフトには入っているのに、仕事は北村麻奈美の看護だけだったの。北村さんの父親って、地元での有力者みたいで、媚でも売りたかったのかな?」

 令子の言葉に、皆川が膝を打って喜んだ。

「いいね!良いヒントだ!」

「は?」

「ああ、それで繋がる!繋がるぞ!あの件も合わせれば…ああ!いいね!これであの思惑と合致する!」

 皆川一人が興奮していた。

「ちょっと、一人で納得してないで、説明しなさいな」

 令子が不満そうに訴えた。

「え?ああ。その前に、専属看護婦の件、それに姪、叔母の関係、同僚に聞いて回っても同じ答えか?」

「ええ、同じだと思うわ。姪、叔母の関係は、事務局で分かるかも」

「ますますいいねぇ」

「だからなにがいいの!」

「そう急かすな。そうだな。まずは遠回りしよう。その方が理解しやすい」

 皆川はそう言い置くと、説明を始めた。

「この病院ではだいぶ前から財布を盗まれる事件が多発している。被害者は看護婦で、中身が抜かれてゴミ箱から見つかった。そうだな?」

「え?ええ、そう。なんで急に?と言うか何で知っているのよ」

「いいから。まったく、こっちも出退勤表見れば一目瞭然なものを。盗まれた日と看護婦の出退勤を照らし合わせると、容疑者は二人だった。一人はあんた。まあ、当然だな。あんたは半年間休み無しで、夜勤を続けていたのだから。ちゃっかりと、犯行の無い日に休み扱いも存在していたがな。そしてもう一人は、遠藤園子だ」

「半年間休みなしだと!」

 賢吾が反応していた。

「やっぱり」

 令子は令子で、ため息交じりに呟いていた。

「気づいていたわけか」

 皆川は賢吾を無視して話を進めようとしたものの、賢吾に詰め寄られたので、手で制した。

「話がめちゃくちゃになるんだがな。まあいい。先に言うと、田中婦長は高坂令子を嫌っていた。嫌がらせに、半年前から休みなしで、しかも夜勤のみのシフトにしていたのさ。しかし事務局へは、彼女が法定休も有給休暇も消化してたっぷり休んでいることにしてある。財布盗難の犯人にできるようにうまい具合に調整されていた。出退勤表は修正されていたが、入院患者や他の看護婦からの聞き取りで、実際は休んでいないことは確認済みだ。夜勤のみと言うのは、事務局に対して、彼女の一身上の都合として伝えられていた」

「不当労働もいい所だな。で、手当の方は?」

「ん?ああ、休みと届けられている日の全てで、給料は未払いだ。当然だろう。事務局は把握していないのだからな。後で資料を提出するよ」

「ああ、是非そうしてくれ」

 賢吾の目が怒りに燃えていた。賢吾が主にどういう仕事を受けているのかは知らない。しかし、ニュースなので不当な扱いを受ける人たちが話題になると、憤るのだった。

「で、えっと、なんだっけ?ああ、遠藤園子は金が必要だった。愛する北村信也と駆け落ちするためには資金が必要でね。そして元々、遠藤園子はそういう癖があった。以前勤めていた病院で発覚し、解雇されていたのさ。こういう事実からも、後先考えずに行動するタイプと想像がつく」

「でもそれが何で専属看護婦とつながるの?」

「まあ焦るな。ここで大いに助かったのは、あんたが教えてくれた、姪、叔母の関係だ。もちろん裏付け調査が必要だが、おそらく、田中婦長は兄弟姉妹の誰かから頼まれて、遠藤園子をこの病院へ招き入れた。何せ、解雇された人物を無条件で雇い入れる所はなかなか無いからな。そして、田中婦長も遠藤園子の手癖を知っていた。前の病院を解雇された事実と理由を。

 困ったことに、遠藤園子は親族の心配も他所に、ここでも犯行を繰り返した。そこで困った田中婦長は、他人に罪を擦り付けることにした。ちょうど、忌み嫌っていた部下が一人いた。高坂令子。あんただ。罪を擦り付け、病院から追い出せれば、自分の気持ちも晴れるし姪も守れる。

 田中婦長としては、遠藤園子が日中に盗みを働かなかったことが救いだった。出退勤の食い違いが無くて済むからな。証拠を隠滅し、高坂令子の犯行であると言わんばかりの批判を周りに漏らす。なかなか思い通りに言っていたようだ。

 そして田中婦長の希望通り、高坂令子が辞表を提出した。嫌った相手を追い出せるのだから、万々歳だ。ところがだ。ここで問題が生じる。高坂令子が辞めた後も財布が盗まれたら、どう説明するか。

 困った田中婦長は、またまた幸運にも利用できる情報を得た。遠藤園子と北村信也の関係だ。関係を促進させ、遠藤園子が寿退社してしまえば、お荷物まで去ってくれる。全てが丸く収まる。

 田中婦長は、高坂令子に対するシフトの変更など、通常あり得ないレベルで人事に自我を通していた。同じことを、遠藤園子にも適用した。それが北村麻奈美の専属看護婦だ。万人に合い対さなければならない病院で、専属などありえんだろ。私設看護婦じゃないぞ。

 だが、田中婦長は敢行した。北村麻奈美の看護で、姪の結婚に反対する相手方の両親を懐柔するために。

 そう、この専属看護婦の件を取って、田中婦長の思惑が読めるから、ありがたい証言なのさ。そして皆が同じ証言をするなら、田中婦長の強権政治が証明できる。ひいては高坂令子。あんたの身も守れる確率が上がる。

 そして何より、遠藤園子がたとえ殺人を犯そうとも、尻拭いする人物がいる、あるいは遠藤園子にそう信じさせる人物がいる、と言うことだ」

 皆川の説明に、皆息を飲んでいた。飛躍したストーリーのようにも思えたが、いくつかの事件が合わさり、真実味を増している。

 病院で起こっている窃盗事件。令子が犯人として噂されていた。でも思った通り、彼女ではなかった。

 令子とは全く関係ないはずの、遠藤園子と北村麻奈美の関係。遠藤園子と北村信也の恋仲。遠藤園子の手癖。そしてそれら全てを、田中婦長の思惑で包み込んだ。

 真実だとしたら、複雑に入り組んだ迷路だ。そもそも、どうして専属看護婦からここまで導き出せるものか。

(僕ではこんなの、推理できないや。皆川さん…探偵…)

 僕は探偵と言う存在に、羨望の眼差しを向けていた。同時に、胸の奥でもやもやとしたものがあった。

「そんなこと…そこまでやる?」

 やっと口を開いたのは、令子だった。

「まるで小説の世界だな」

 賢吾も頷いた。

 僕は、何もできない。以前、階段で出会った皆川が自分に任せておけと言った。事実、解決したのだ。ホッとすると同時に、胸の奥がもやもやとした。

(僕が令子さんの手助けをしたかったのに…何もできなかった)

 賢吾も加われば、令子はもう安心だろう。病院に復帰することもできるのではないか。待遇も改善されるはずだ。

(僕では助けることができなかった…)

「そこまでどころか、どこまでもやるぞ」

 皆川が不穏なことを言う。

「事実、北村麻奈美の殺人未遂犯に、少年をあてがった。これも間違いなく田中婦長だろう」

「そうね、十分にあり得るわ」

「遠藤園子は衝動的に殺人を犯そうとした。実際に起きていたとしたら、田中婦長が奮闘して、自殺、あるいは誤って落ちた事故としただろう。遠藤園子の起こす事柄は、田中婦長にとって事後処理をさせられる厄介なものだったが、逃げるわけにもいかない。すでに窃盗事件の罪を他人に着せているのだからな。少年が止めに入ったばかりに、また利用できる逃げ道を用意してしまった」

「僕は止めに入らない方がよかったのかな?」

「いや、少年は人の命を救った。自信を持て。誰にでもできることではない。よくやった」

 皆川は、僕の足に乗せている手に力を込めて握った。

(僕が皆川さんに認められた…)

 そう思うと、胸の奥のもやもやが晴れた気がする。



  19


「さて、やっと本題だな。実のところ、もっと大きな問題もある」

 皆川が一息ついた。

「大きな問題?」

 僕がオウム返しに聞いた。

「目撃者がいたと言ったな。佐々木と田頭、か。この看護婦、今どこにいる?」

「夜勤なら…。佐々木さんなら、看護婦寮に戻っていると思うわ。田頭さんの方は、そろそろ引き継ぎ終わって帰るころじゃないかしら?」

「なら、できるだけ早くに身柄を確保しないとな。危険だぜ」

「なぜ?」

「これも回りくどい説明にはなるが、別件と言うか、こっちが元々は本題だったんだが、賢吾に頼まれて北村宗信のことを調べていた」

「北村…そうしん?」

 聞きなれない名前に、僕は首をかしげた。頬に令子の頭部が触れ、思わずドキリとした。同時に、彼女の頭髪から漂う匂いが、僕の思考を支配した。彼女の匂いが、どういうわけか心地いい。

 幽霊のゆみが、じっと僕を睨みつけていた。

「北村麻奈美の父であり、北村信也の父であり、北村産婦人科医院の院長だ。少年が胸を突かれて以降、あの手この手でいちゃもん着けてくるのでね。やつを調べる一環でここにも来ていたら、とある婦長の横暴シフトやら窃盗事件やら聞こえて、こっちの方が面白くなってたんだがな」

「おいおい。俺の依頼だろうが。疎かにするなよ」

「ちゃんと調べてあるよ。で、北村宗信の影の手である山神組と言うヤクザ組織の構成員に遠藤武がいる。こいつが運転するベンツで遠藤園子が出勤するのを目撃されていてね。どういう繋がりかと思っていた。姓が同じで、年齢も近いことから、兄妹かとは思うが。事実だとしたら、田中婦長辺りが手を回してこの遠藤武に、目撃者封じを依頼するかもしれない」

「また物騒な方向に飛躍するな…」

 賢吾が唸った。

「兄だと思うわ。一度問題になったのだけど、事務局も強く追及できなかったって」

「ま、これも、さっきの推理も、裏付け調査が必要だな。そんな余裕があれば、だが」

「目撃者封じ…具体的には?」

「さあ?色々ありすぎて絞れない。脅しか、金で解決か、誘拐か、二度としゃべれないようにするか…」

「口封じは物騒すぎるだろ。が、何らかの手段で脅し、金で封じるのはありそうだな」

「なんにせよ、一人は看護婦寮にいるのなら、早めに接触しておくべきだ。もう一人は?」

「看護婦寮へ行くなら、私が案内するわよ。田頭さんの方は、自宅で、どこか知らないの」

「案内をお願いします。証言を取っておきたいからな。が、その前に、北村宗信の事で分かったことは?」

「昔気質の親父だね。代議士に伝手があったり、ヤクザとの繋がりがあったりと、なかなかの交友関係をお持ちだ。何より、北村産婦人科医院に、黒い噂と、どす黒い真実がある」

 皆川が不敵に言い放った。

 北村産婦人科医院と聞いて、僕の頭に何かが引っ掛かる。引っかかるが、何なのかがまるで分らなかった。

「黒い噂?」

「看護婦の間で有名な噂ならあるけど」

「同じだろうな」

「赤子の間引き」

 令子が苦しげに漏らした。顔が引きつっており、言葉にするにも虫唾が走るようだ。言葉通りなら恐ろしいことだ。草花の間引きではない。生まれたての人の子の命だ。

「中絶が間に合わなかった人の子を、間引いたって」

「まさか…。噂だろう?」

「ああ、噂だな。こんな話がある。昔、双子が生まれると凶兆とみて忌み、片割れを殺したり神に捧げたりしたという風説だ。もちろん諸説あって、養子に出した、と言うのもある。小さな集落ほど、この忌み子の風習があったようだ。殺す場合、これも諸説あって、先に生まれた方とする場合と後に生まれた方とする場合とある。この際どちらでもいいのでここは置いておく」

「双子が忌み子で、間引きすると?」

「まあ、そう言うこと。理由としてはいくつか考えられる。昔は出産時の負担が大きく、母子ともに死亡することが多かった。双子ともなればなおのこと、母体の死亡率が上がったのだろう」

「後継者問題になるからとか?」

「それも理由のうちの一つだが、後継者問題云々は比較的新しくて、江戸時代からだな。他には、貧しい家で双子が生まれても、食べ物が足りない。人手は欲しくても二人は養えない。何かしら理由を付けて間引く、と言うこと。信仰や風習とは、こういう時便利だ。自分たちの心を守るのに役に立つ。で、もう一つは、そっくりの顔の子供が並ぶと、単純に気味悪がられた、と言ったところだな。

 ああもう一つあった。これも江戸時代で、特に男女の双子の事を心中した人の生まれ変わりと信じられた。当時、心中は大罪だったというのも作用しているな」

「ご高説どうも。しかし、それがどうした。現代には関係のない話だろう?」

「ところがどっこい。北村産婦人科医院では、間引いていた」

「は?」

「噂だと言っただろう?」

「ああ、そして、どす黒い真実もあると言った。双子の間引きは真実だ。ここから中絶云々の話が出たってところだろうな」

 その場にいた全員が、唖然とした。皆川の説明通りなら、この現代の社会で、風説めいた信仰のために、生まれてきたばかりの子供を殺していたということだ。明らかに殺人だ。常識的にあり得ない。

「表向き、死産とされている。それも、母やその家族に確認無く、勝手にやっていた節がある。何せ、そのショックで亡くなった母もあったようだ」

「おいおいおいおい」

 賢吾は言葉が見つからず、唸り続けた。

 令子は、僕の背中に顔をうずめ、しがみついていた。

 僕は僕で、鳥肌が立つと同時に、なぜか、すんなりと受け入れている自分がいた。まるで分っていたことを聞いたような感覚だ。

(北村産婦人科医院…)

 頭の中で名前を唱えた途端、目の前にいくつもの映像が走った。

(僕はこの名前を見ている!)

『ごめいとう』

 幽霊のゆみが、頷いた。

 僕の中で、色々なものが合わさって、一本の道を示した。皆川の推理も、同じような感じなのだろうか。僕は気付いた事柄に驚き、そして喜々として、叫び声を上げていた。

「な、なに?」

 皆が僕を注目していた。

「あ、うん、皆川さんの話を聞いていて思い出した事があったんだ」

「おう」

「女の人の幽霊が関わってるって言ったよね?」

「言っていたな」

「その女の人、病衣を着ていたんだ。胸の所に、北村産婦人科医院て書かれた」

「ほう…。つまり、その幽霊の動機は、殺された赤子の恨みを晴らそうとしていると」

 皆川が即座に推理した。

「何かが足りない気もするがな」

 そう付け足して、顔を伏せた。

「えっと、つまり、母子とも亡くなっていて、母親の方が幽霊になって憑りついていると?」

 賢吾が混乱する頭の中を整理するように言った。

「そうらしい」

「なんか、ホラー映画じみてきたわね…」

 令子は僕の腕にしがみついていた。腕に何か柔らかい物が触れていた。僕の意識の全てが、腕に集中した。

「しかし、そうならなぜ娘を殺そうとするのか。という疑問がある。手を下したのは北村宗信だ。やつを呪えばいい」

「子供を殺されたから、仕返しに子供を呪い殺す?」

「さあな。その辺りが、情報の足りない部分だ」

「まあ、幽霊はともかくだ」

 賢吾が咳払いした。

「その新生児殺害は、戦うにはいいネタとして、北村宗信と代議士や山神組との繋がりは?」

「代議士に頼まれて間引いたこともあった」

 皆川が即答で、こともなげに言う。

「山神組の方は、北村宗信が間引きを行い、患者とのトラブルに発展した時の処理に手を貸していた。山神組へは医薬品の横流しや、構成員の治療と言う見返りだ」

「公の病院へ駈け込めない怪我の治療か」

「そういうこと」

「やれやれ。とんだ人物だな」

「資料はもう少し待ってくれ。まとめる時間がなかった」

「ああ」

「しかし、今回の騒動で、北村宗信が絡んでくるかもしれないぞ」

「なぜ?」

「賢吾が言い負かしたりするからな。今回は仕返しに打ってつけだろう?三上弘樹と賢吾がつながっているのは向こうも先刻承知。その三上弘樹が墓穴を掘った。盛大に突いてくると思うね」

「僕が墓穴…。やっぱり助けない方がよかったんだね…」

「いや、言い方が悪かった。すまん。が、相手から見れば、そういうことさ」

 皆川は頭をかきながら、苦笑いした。



  20


 扉が突然開いた。年配の、くたびれたスーツ姿の男性が入ってくると、病室内の異常な風景と雰囲気に、顔をこわばらせて立ち止まった。

 ベッドの上で僕が足を伸ばして座り、その横で令子が腕にしがみついている。ベッドの端から上体を乗せた賢吾が、僕の足に手を置いている。ベッドの反対側では皆川が手を伸ばして僕の足に手を置いている。

 確かに傍から見れば、異常な光景だ。

「えっと、三上君を励ましていたのよ」

 令子が照れ笑いを漏らしながら、ぎこちない言い訳をした。

「あ、ああ。気をしっかり持てよ」

 賢吾の声が上ずっていた。僕から手を離し、立ち上がると、皺を伸ばすようにズボンを叩いた。

 皆川は、あえて、僕の足に手を置いたままを続けるようだ。

「あー、よろしいかな?」

 年配の男性は一つ咳払いをすると、ベッドの足元まで近づいた。懐から黒い手帳を取り出して皆に見せた。

「尾永警察署の高橋大輔といいます。昨晩の件でお話を伺いたいのですが。まずは皆さんの氏名とご職業を教えていただけますか?」

 高橋と名乗った老刑事は、物腰も低く、丁寧な口調で言った。

「木村賢吾。弁護士をやっています。三上弘樹君の後見人でもあります」

 最初に答えたのは、賢吾で、すぐに名刺を差し出していた。

「高坂令子。ここの看護婦でした」

「皆川龍也。調査員」

 皆川は端的に説明した。探偵と言う言葉はあえて使わないようにしたようだ。よくドラマなどでは、刑事と探偵が犬猿の仲として描かれている。現実でもそうなのだろうか。

 僕が黙っていると、皆の視線が集まっていた。

「一応、ご自身で名乗っていただけますか?」

 高橋刑事が柔らかい口調で促した。

「あ、すみません。僕は三上弘樹です。学生です」

『あたしはゆみ!ゆうれいやってます』

 幽霊のゆみも元気よく答えた。この言葉を聞けたのは、まだ僕に触れている令子と皆川だけだった。

 令子は幽霊のゆみの言動が可笑しかったようで、声を必死に抑えながら肩を震わせていた。皆川は無表情だ。

「ありがとうございます」

 高橋刑事は手帳に皆の名前を書き込みながら、礼を述べた。

「では、昨晩の出来事を説明していただけますか?」

 刑事の言葉に、賢吾が僕に向かって頷くので、三度目の説明を行った。

 高橋刑事は僕の説明を聞きながら、手帳に何かを書き込んでいた。終わると前のページをめくって確認していた。

「それで、遠藤園子は何と告発しているのですか?」

 賢吾が尋ねた。

 高橋刑事は手帳をめくると、読み上げた。

「えーと、あったあった。北村麻奈美が寝付けずにいたので気分転換に屋上へ連れて行った。ちょうどフェンスが落ちたところに差し掛かった時、後ろから突然、三上弘樹に押され、危なく北村麻奈美が転落死するところだった、と。田中婦長も同じ趣旨の証言をされていますね」

「そこに佐々木と言う看護婦がいたはずですが?」

 賢吾が疑問を呈した。

「二人とも、佐々木なる人物は目撃しておりませんね」

 高橋刑事の答えに、賢吾が反応するよりも早く、皆川が唸った。

「俺の推理が根底から覆るじゃないか。田中婦長は佐々木が目撃したことを知らないだって?」

「それがどうした?」

 賢吾が話を中断させられ、不機嫌そうに言った。

「知らなきゃ、口封じも何もない」

「なら、取り越し苦労で済んでよかったじゃないか」

「あー」

 令子が妙な声を上げた。

「なんだ?」

 皆川が鋭く睨む。令子は僕のすぐ傍にいるので、僕が睨まれたように感じ、緊張した。

「早朝出勤してきた婦長が事態を知って、三上君を警察に突き出すと言うので、佐々木さんが目撃している。彼は悪くないと言って抗議したの」

「つまり、婦長は知っている?」

「ええ」

「知っていて、いなかったことにしたんだな!」

 皆川は嬉しそうに言った。

「墓穴を掘ったと言うことか」

 賢吾は呟くと、今度は僕に尋ねた。

「確認だが、田中婦長は屋上にいたのか?」

「いなかったよ。いたのは、麻奈美と、遠藤って看護婦と、僕と、佐々木と言う看護婦です」

 賢吾は頷くと、刑事に向かって追求した。

「目撃者は?」

「当事者の遠藤園子さん、田中婦長、内科病棟の田頭真由美さんからは証言を得ています。ただ、田頭真由美さんの証言は前の二人とやや違っておりまして。隣の棟から窓越しに見ていただけのようでして。同僚の佐々木宏美が同行したので、彼女に聞いてくれと」

「その田頭真由美さんの証言はどのような?」

「容疑者が寸でのところで転落を阻止したと」

「ふむ。ではやはり、田中婦長の証言がおかしいようですな。そもそも現場は昨日の強風によってフェンスが一枚落下するという事故がありました。以降、立ち入り禁止になっています。ですよね?高坂さん」

「ええ、そうです。東階段も施錠されましたし、エレベーターで屋上に出るには特殊な操作が必要なので、一般の患者は元々利用できません。その操作のためには鍵が必要だし、鍵は各ナースステーションと事務局で管理されています」

「ただの入院患者である三上弘樹が単独で屋上に出ることは不可能。後ろから突然、突き落とされかけたということは、三上弘樹の存在を知らなかった」

「知っていて、背後から押されるとは思っていなかった場合もあるのでは?」

 高橋刑事もどういうわけか、賢吾の話を止めもせず、どちらかというと参加するように疑問点を述べた。

「遠藤園子と三上弘樹の接点がまずありません。そして、遠藤園子は外科病棟四階のスタッフで、三上弘樹は五階に入院しています。消灯を向かえた後に、一緒に屋上へ出る理由がありません」

「一理ありますな」

「ならば、遠藤園子と北村麻奈美、三上弘樹は別々に屋上に出たと考えるのが順当でしょう。ではどうやって三上弘樹が屋上に上がったのか。それは佐々木と言う看護婦が同行したからにほかなりません。そして遠藤園子は佐々木の存在に気づかなかった。田中婦長はそもそも目撃していないので、遠藤園子の証言に合わせて、事実を捻じ曲げるつもりなのでしょう」

「ふむ。田中婦長の証言は、遠藤園子の伝聞に過ぎないと思われるわけですね?」

「私はそう思いますね。ぜひ、佐々木と言う看護婦を探し出して証言を聞くべきです」

「ふむ」

 高橋刑事は令子の説明や賢吾の推論を聞きながら、メモを取った。

「確認しておきますが、屋上への出口は東階段とエレベーターだけで間違いないですね?他にはないですか?」

「ありません」

 高橋刑事の質問に、令子が答えた。

「非常用の、例えば梯子で上がることができる、などということは?」

「本館の方でしたら、北側にある非常階段で屋上に出ることができますが、別館はありません」

「本館の屋上から別館の屋上へ渡ることはできませんか?」

「一番接近した場所にエレベーター塔があって、足場もないので、無理だと思います。そもそも非常階段にも柵があって、南京錠で閉じられているので、屋上へはいけません」

「なるほど。三上弘樹君が東階段から屋上に出て、仕切りフェンスを乗り越えていった、などということは?」

「東階段も屋上へ通じる扉が施錠されています」

「なるほど。つまり階段では屋上に出ることができない。エレベーターは鍵が無ければ屋上へは移動不可能、と。そして隣の建物から乗り移るのも、難しい」

 高橋刑事はメモを見つめながら考え込んだ。

「つまりは、鍵を持った看護婦の助けを借りなければ屋上に出られず、遠藤園子と共に屋上へ出たのでなければ、もう一人看護婦がいて、目撃している。その事実を隠す、田中婦長の証言は疑問の余地がある、と。証言の一致する田頭真由美さんと三上弘樹君が正しいと、仰るわけですね」

「ええ。十分証明できるかと。佐々木宏美さんの証言を得られれば、こちらの証言の信憑性は増します」

 賢吾が答えた。

「エレベーターの鍵を勝手に持ち出すことは可能ですか?」

「たぶん無理だと思います。そもそもどこに鍵があるか分からないでしょうし」

 令子が考え考え答えた。

「なるほど。ではますます、佐々木宏美さんですな。彼女の証言を取る必要がありそうですな」

「目撃者もいることですし、三上弘樹君への嫌疑は晴れますね?」

 賢吾が確認した。

「佐々木宏美さんの証言次第でしょうな。この場で嫌疑なし、とはできませんので。実は目下のところ、佐々木宏美さんを探しておるところです」

(刑事って、こんなこと、仮にも容疑者の僕に話していいのかな?)

 疑問に思いながらも、実際に口に出すことは控えた。

「看護婦寮へは?」

 賢吾が尋ねた。

「いませんでした」

 その返事に、皆川が舌打ちしていた。

「まずいな…」

 皆川は呻きながらも、色々考えを巡らせているようだ。

「それにしても刑事さん、仮にも容疑者の前で、こんな話、普通はしませんよね」

 皆川は話題を変え、含みのある言い方をした。高橋刑事は照れ笑いを浮かべただけで、答えなかった。代わりに別の質問を返した。

「ところで、遠藤園子さんには兄がいましてね。遠藤武と言います。ご存知ですか?」

 皆川の推理を聞いた後だったのですんなりと聞けた刑事の言葉も、知らなければ、突拍子もないことを言っているとしか思わなかっただろう。

 しかし、なぜ、遠藤武なのか。この名前をなぜ、今言わなければならないのだろう。僕には見当もつかなかった。

「刑事さん、食えない人だ」

 皆川がそう言って笑った。

「ええ、知っていますよ。山神組の構成員ということも」

「さすが探偵ですね。よくご存じで」

「何、たまたまですよ」

 高橋刑事と皆川が互いに笑い合った。

「遠藤武がその佐々木なる人物をさらった可能性があります」

 皆川は笑いを収めると、さらっと言ってのけた。

「田中婦長の依頼で、目撃者の供述を封じる目的と思われます」

「おやおや、物騒な告発ですな。何か証拠でも?」

 高橋刑事の物言いからすると、証拠がなければ、警察は動けないし、信じないのだろうか。しかし、僕に対しては動いている。

「残念ながら証拠はありませんね」

 皆川は素直に認めた。

「他に憂慮すべき事柄はありますか?例えば、当事件に関わった人物に対する評価など。なんでもいいですよ」

「田頭主任は嘘を吐くような人ではありません。人を貶めるようなこともしません。今回の事についても、彼女が嘘を吐く必要がないもの」

 令子が、同僚の肩を持った。

「ふむ。その件に関しては、複数人の証言を集めて検証します。決して都合に合わせて排除などしませんよ」

 高橋刑事は請け負った。

「対して、遠藤園子と田中婦長は人間性に問題ありだと思いますよ」

 皆川が口火を切った。

「遠藤園子はこの病院内で窃盗を繰り返していた。残念ならが証拠はないが、状況証拠は揃っている。また、患者の北村麻奈美に対して、筋弛緩剤を混ぜた点滴を投与していた。これは証拠があります」

 賢吾が皆川の後を引き取って、全て打ち明けていた。皆川が怪訝そうに賢吾を見つめると、賢吾は一つ頷いて答えた。

「これはまた、とんでもない情報が出てきますね。証拠は提出していただけますね?」

「ええ、もちろん」

 賢吾が請け負った。

「ついでに、その窃盗事件の証拠隠滅には田中婦長が関わった」

 皆川もため息交じりに、付け加えた。

「出退勤表を細工してまで、罪を他人に着せ、事なきを図ろうとしている」

「ほほう」

「窃盗の方は、被害者のロッカーの中を調べれば、あるいは証拠が見つかるかもしれないな。遠藤園子辺りの指紋が」

「窃盗について、被害届は出されていますか?私の方では把握できておりませんで」

「いえ、出してないと思います。婦長が、犯人が見つかるまではと、皆を押さえていましたので」

 令子が答えた。

「なるほど。ともかく、そのことが事実であれば、二人の証言の正否も疑わなければならないと」

「そういうことです」

「ここにいる高坂令子が犯人扱いされ、退職に追いやられています。彼女の汚名を返上するためにも、窃盗の方の捜査もお願いします」

 賢吾が刑事に頭を下げた。

「分かりました。手配しましょう。高坂さんには申し訳ありませんが、この後、署の方で調書を取らせていただいても?」

 令子が不安そうにしていると、賢吾が頷いた。

「私が同行します」

「それなら、はい、分かりました」

 令子も小さく頷いた。

「結構。ですが…」

「遠藤武と佐々木なにがしの方だな」

 高橋刑事が言いよどんだ先を、皆川が補った。

「どうせ、マルボウで遠藤武をマークしていたんだろう?」

「ええ、まあ」

「そっち方面で、とも言いたいところだが、じゃあこうしよう」

 皆川はそう言って一呼吸置き、表情を改めた。

「看護婦の佐々木…」

「宏美」

 言いよどんな皆川に、令子が助け舟を出した。

「そうそう、佐々木宏美さんが、遠藤武に誘拐されました。大至急捜索をお願いします」

 今度は可能性ではなく、断定して言い放った。

「それは、一市民としての、通報ですか?」

「もちろん」

 高橋刑事の目が光ったように見えた。姿勢を正し、額の前で敬礼してみせた。

「大至急、対処いたします」

 高橋刑事は大仰に踵を返すと、退室していった。先ほどは、証拠は、などと言って動こうともしなかった刑事が、なぜかあっさりと、そしてどういうわけか、生き生きとして去っていったように見えた。



  21


「えっと、何この状況?」

 僕は状況がまるで呑み込めていなかった。

「あたしもよく分からないのだけど」

『あたしも~』

「いやはや、何とも。茶番劇につき合わされちまった」

 皆川は笑っていた。

「どうやら、あの刑事、何かを知っていたな」

 賢吾が唸った。

「ああ。そして動く口実を欲しがっていた」

「どういうこと?」

「まず、ここへは上からの指示で捜査に来た、といったところだろう。この辺りは推測だが、間違ってないと思う。おそらく、北村宗信が代議士を通じて警視庁辺りに依頼し、所轄に依頼が回り、刑事が来た、ということ」

 皆川がまた説明を始めた。自分でも考えながら話しているようだった。

「前回賢吾にやり込められた腹いせに、せこい手を、早々に打ってきたってことさ」

「どうやらそうらしいな。頭が痛い」

 賢吾が同意して眉間を擦った。

「あの刑事自身、上からの指示というのが気に入らなかったのだろう。調査に来てみれば、遠藤武の縁者がいて、事件に関わっている。もしかしたら遠藤武をしょっ引く口実が見つかるかも、と考えていたのかもな」

「だから、あえて遠藤武の名を持ち出した」

「ああ。俺たちの会話から察したのと、たぶん、廊下で俺の推理を聞いていやがったな…」

「それで、刑事は一般市民の善意の通報が欲しかった。だな?」

 賢吾が確認した。

「ま、そういうこと」

「通報があれば、動けるの?」

「動かなきゃならんな。警察は。そこに誘拐犯がいます、と言われて、証拠は?などと言っている場合ではないからな」

「でも、最初は疑ってかかってたような」

「俺が可能性って言っちまったからなぁ。あそこで断定していたら、もっと手っ取り早かったはずだ」

「ふ~ん。でも何で、ここで遠藤武って名前を出さなきゃいけなかったの?」

 僕は納得できなかったので、一番脈絡がなかったと感じたものを尋ねた。

「遠藤武を何かの事件でマークしていた。だから、誰が親で、兄弟は誰でどこに勤めているか、交友関係は…。そう言った身辺調査は済んでいたから、遠藤園子と田中婦長が関わった今回の事件で、いい口実はないかと当たりを付けたのだろう」

「お前が探偵なのも見抜いていたしな」

「あのおっさんとどこかで会ってでもいたかな?」

 皆川が首をかしげていた。

「龍也と刑事がともに含みのある言い方をしたものだから、互いに、自分の益になる方向を模索したと予想が付いた」

「そういうことだな」

 どうやら賢吾も理解しているらしい。でも僕はまだ理解できていなかった。令子もしかめっ面のままだった。幽霊のゆみは、特に気にしていない様子だった。

「龍也の言う通り、お前の推理を廊下で立ち聞きしていたのかもしれないな」

「だとしたら、確かに筋は通る…。あのおっさん、見かけに似合わず、食えんな…」

 皆川が唸るように嘆いた。

「俺が茶番劇に付き合わされるとは…」

「しかし、早々と横やりが入ったな。よっぽど北村宗信に疎ましく思われているようだ」

「ああ、嗅ぎまわる俺が鬱陶しいのか、ぎゃふんと言わされたあんたを恨んでいるのか、それとも娘を傷物にした少年が憎いのか」

「何それ?僕が麻奈美に変なことしたみたいな言い方」

「弘樹が一番恨まれていると思うがな」

「そんなぁ」

『もうさっさとあんな女のことはわすれなさい』

「ゆみちゃんまで…」

 僕の嘆きで、賢吾が再び、僕の足に手を置いた。ただ、それ以上は何もせず、何も言わなかった。

「ともかくだ。おそらく北村宗信は今回の件を利用して、少年を社会的に抹殺するつもりだろう。殺人未遂でも起訴してしまえば前科一犯だからな。代議士でも通じて警視庁辺りから圧力かけて、早急に少年を逮捕起訴させようとした。あの刑事は少年をすぐに本署へ連行して自供を取れとでも言われていたってところじゃないか?」

「でも、あの刑事は指示に従わなかった」

「だな。まだ調査も何もしていない段階で、犯人を名指しで告げられ、逮捕を要求されたに違いない」

「通常は聞き取り調査のうえ、裁判所に逮捕状を請求してから逮捕だ。現行犯や逃亡の恐れがある場合は別として」

「そして検察がさらに調べて、起訴、不起訴を決める」

「だな。そして刑事事件は起訴されれば、ほぼ負けが確定だ。そうなれば、晴れて前科持ちだ」

「いやだ~そんなの~」

「で、立ち聞きが案外正解か。遠藤武から芋づる式に色々捕まえたかったのだろう。だから、そのきっかけを欲した」

「誘拐と断定したが、大丈夫か?」

「さあな。違っていたら違っていたで、無事証人が確保できていいじゃないか。それにあちらさんもきっかけがもらえて文句はないはずだ」

「またそんな行き当たりばったりなことを」

 賢吾が嘆いた。

「やっぱりチャランポランなのね」

 令子がため息交じりに呟いていた。

「うっせ」

「さて、時間が限られる。行動するとしよう」

「だな。俺は佐々木の立ち寄りそうなところを探してみる。内科病棟だったな?あっちで少し聞いてみよう」

「高坂さん、もしよろしければ、これから警察署へ同行しますが?」

「はい、よろしくお願いします」

 それぞれが立ち上がった。

「龍也。後で資料を頼む」

「時間をくれ」

 立ち去ろうとする皆川の背に、賢吾が言い、皆川も短く答えて退室していった。

 賢吾は振り返り、

「弘樹、もう騒ぎは起こすなよ」

 と言い置いて病室を出て行った。

「えー」

 不満の声を背中に投げかけるのが精いっぱいだ。

「いい子にしているのよ、弘樹君」

 令子が僕にウインクしてみせた。

「は、はい」

 皆が退室すると一気に静かになった。部屋が異常に広く感じられ、寂しさが胸を締め付けた。

 幽霊のゆみが、僕の肩を叩いた。

(そうだ、僕にはゆみちゃんが付いてくれている)

 一人ではないことを実感するだけで、胸が軽くなった。

 しかし、皆川も賢吾も、そして高橋刑事も、みんなすごいと思う。

 皆川のあの推理が空想だとしても、よくもまああそこまでストーリー立てて思い描けるものだ。

 賢吾はここぞとばかりに手札を、惜しみなくさらけ出して、自分の望む方向へ導こうとした。ドラマなら、最後の最後まで隠しておくだろう、切り札まで。それが正しい行動だったのかは、今は分からないながらも、皆川同様に気転の働くさまが、僕には眩しかった。

 高橋刑事は、物腰の柔らかい、大人しそうな初老の人物なのに、皆川の言う通りなら、皆川や賢吾を手玉に取って、目的を果たした、のだろう。人は見かけによらないと言う、典型なのかもしれない。

 彼らには、僕ではまるで歯が立たないだろう。彼らと同じ舞台に立つことも、できないだろう。

 余りにも差がありすぎて、ショックを受けることはない。まるで有名人にでも出会ったかのような、興奮冷めやらない心境だった。

 ただ、その余韻だけで過ごすには、時間を持て余していた。

「じっとここにいるとなると、暇だなぁ」

 ぼやいてみせると、幽霊のゆみは呆れ顔で両手を広げて見せた。



  22


 それから外で何が起こっているのか、僕には確認のしようもなかった。

 試しに扉を開けてみると、確かに制服姿の警官が、部屋の前に椅子を置いて座っていた。

 僕は仕方なく、ベッドに戻って、持て余した時間に悶えていた。

 時間が余ったせいか、先ほどまで触れていた令子の感触が思い出され、妄想の世界に浸った。

 首筋には彼女の腕の感触があったし、左腕には何とも言えない、柔らかい感触が、温もりと一緒に残っていた。

(令子さんと恋人同士になれたら、あの感触も堪能し放題だな)

『うわ…。エッチなこと考えてる…。さいてー』

 幽霊のゆみの蔑むような声も聞き流せるほど、強く感触が残っていた。

 彼女の頭髪は、とてもいいい匂いがした。シャンプーなどの匂いではない。彼女の頭皮や汗の匂いだと思うのだが、心地よく感じた。異性の匂い、だからだろうか。強く引き付けられるものがあった。

(彼女の頭を抱きしめて、いっぱい匂いを吸い込みたい…)

『ヘンタイ…』

(そもそも、令子さんだって、ああやってスキンシップしてくるってことは、何かしら気があるはず!僕にもチャンスがあるはず!)

『ないない』

(令子さんと付き合えたら、腕組んで、ショッピングして…)

『つり合いがとれてないわ。せいぜいなかのいいきょうだいね』

(へへん!今回はゆみちゃんに何と言われようとも、自信あるもの!あれだけ接してくれるんだから!)

『どうじないわね…へたれのくせに』

 幽霊のゆみの最後のセリフに、僕は驚いた。

「へたれ…?」

 僕は思わず、声に出して追求した。

 幽霊のゆみは返事をしなかった。

「どこで覚えてくるんだ。そんな言葉」

『どこだっていいじゃない。それに、じじつでしょ。いっつもいっつもかんじんなところでにげごしなんだもの』

「グサッ」

 僕は胸に何かが刺さった風に効果音を口に出し、ベッドに倒れた。

『いじけて見せてもだめよ』

「うー」

 幽霊のゆみは容赦なかった。ここは男として、「へたれ」との汚名を返上せねばならない。

 そこで何をすべきか。

 今回の事件を見事解決してみせる。してみたいとは思うものの、皆川や賢吾、それに先ほどの刑事の足元にも及ばない。自分でもそのことがよく分かっていた。

 ではもっと範囲を狭め、令子を助ける。これも、もうあの刑事や賢吾の領分で、僕の出る幕ではなかった。

 佐々木宏美と言う看護婦。この人を見つけて証言してもらう。が、そもそもこの病室から出られない僕に、何ができると言うのか。

 遠藤園子や田中婦長。僕ではきっと太刀打ちできないし、やはり部屋から出られないので何もできない。

 しかし、遠藤園子と言う人は、どういう頭の構造をしているのだろう。なぜいきなり僕を殺人未遂犯と言い放ったのか。なぜ、そこにいた佐々木の存在に気づきもしなかったのか。

 もともと視野の狭い人だったのだろうか。だから佐々木に気づかなかった。いや、動転していて、僕にしか気が回らなかったのだ。犯行に及ぼうとしていた緊張感や僕の乱入に焦ったために、周りを見る余裕がなかったのだ。

 それほど焦っていた人物が、なぜ咄嗟に僕を犯人に仕立て上げることができたのか。突然閃いたとしか言いようがないものの、その閃きのきっかけは、もしかすると、あの女の人の幽霊かもしれない。幽霊が、何らかの導きをしたのではないか。

 女の人の幽霊。麻奈美に憑りつき、死に追いやろうとしている。その手段として、遠藤園子の、麻奈美を排除したいと思う気持ちに同調して、彼女を利用した。

 たとえ、遠藤園子が逮捕されても、この幽霊は麻奈美の死を願い続けるだろう。そのために、不幸な事故が続くかもしれない。

 幽霊のこととなると、皆川でも賢吾でも、高橋刑事でも対処できない。どこかから霊媒師でも探してくるしかないだろう。

 本当にそうだろうか。僕は幽霊に触ることができ、会話ができる。幽霊の説得は僕でもできるのではないか。触れるのなら、方法さえ分かれば、祓うことも可能なのではないか。

 今、僕の数少ない知り合いの中で、幽霊に対処できるのは、僕と、目の前にいる女の子のみだ。ならば、ここに僕のできること、やるべきことがあるように思う。

 幽霊を祓えれば、麻奈美を助けることができて、彼女との復縁も叶うかもしれない。そうだ、麻奈美もあの幽霊の影響を受けて、僕を追い返したのだ。そうに違いない。

 麻奈美のためにも、僕は行動すべきだ。

 問題は、どうやってその幽霊と相対するか、だ。僕自身はこの部屋から動くことができない。あの女の人の幽霊に、自分からここに来てもらうしかないが、そんな方法があるのだろうか。

 目の前に、同じ幽霊である、女の子がいる。彼女なら、この部屋から出ることもできる。彼女に、あの幽霊を連れてきてもらうことはできないだろうか。

「ねぇゆみちゃん」

『何?』

「あの女の人の幽霊、ここに連れてくることってできない?」

『あのかんごふについてたユウレイ?』

「そうそう」

 幽霊のゆみはしばらく考え込んだ。そしておもむろに呟いた。

『できるかも』

「じゃ、連れてきて」

『なんで?』

「麻奈美を殺そうとするのをやめてもらう」

『そんなの聞くわけがないわ』

「でも試してみたいんだ。それに、幽霊が相手となると、今のところ僕とゆみちゃんしか手が出せないでしょ。僕もみんなの役に立ちたいし、何かしたいんだ」

 ゆみはたっぷりと僕を見つめ、思案していた。

『分かった。やってみる』

 ゆみは意外とあっさり、行動してくれるようだ。ただ、どうやって連れてくるのだろう。僕は疑問を口に出していた。

『あたし、心がよめるでしょ?もっとふかくまでよむと、あやつることもできるの。ちょっとだけだけど』

「へー。すごいね」

 僕が感嘆の声を上げると、幽霊のゆみは嬉しそうに、そして恥ずかしそうに笑った。

『じゃあ、ちょっとまってて』

 幽霊のゆみはそう言うが早いか、窓をすり抜けて外に出ると下へ向かった。

「便利だな…。僕にもできたら、こんなところに軟禁されずに済むのに…」

 羨ましく思いつつ、戻ってくるのを大人しく待った。

 何分経ったのだろう。待ちくたびれて、外を眺めてみようと窓に近づいたら、髪の長い、病衣姿の女の人がゆっくりと上ってきた。その後ろにゆみがいた。

 二人の幽霊が窓をすり抜けて入ってくる。

 陽の指す時間帯に、幽霊と対面するのも、思えばおかしな状況だ。

(陽の光を浴びても何ともないのかな?)

 ふとそんなことを考えていた。そもそも陽の光を浴びるとまずいのは吸血鬼だ。幽霊ではないのだが、同じ闇の住人のように思え、陽の光を嫌いそうに思えた。

『へんなこと考えてないで、早くつかまえて』

 幽霊のゆみが、声を絞り出すように言った。

「え?」

『あやつるの、たいへんなの!もたない!早く!』

「あ、うん、ごめん」

 声の迫力に負け、僕は女の人の手を掴んだ。

 途端に女の人が僕を睨みつけ、暴れ出した。

『ふぅ。しんどかった』

 対してゆみは一息ついてリラックスしていた。

「痛い痛い」

 僕が抗議しても女の人は暴れるのを止めず、僕の手を引き剥がそうと奮闘していた。

「痛い、噛みつかないで!」

 僕は空いた手で女の人の頭を押し戻した。

「ねえ、これ、会話できるの?」

『さあ?』

 僕の説得という選択肢は、早くも窮地に立たされていた。

「ねえ、ちょっと、お姉さん、聞いて」

 女の人は返事の代わりに、僕の手に噛みつこうとしていた。

「えっと、どうしよう?」

 僕は安易に、話ができるつもりでいたようだ。獣のように暴れる女の人に対して、僕は何ができるのか。まるで考えがなかった。

 女の人の形相が変化してきた。徐々に口が広がり、恐ろしげな牙が生えてきた。口は耳元まで裂けている。

「うわ!なにこれ!」

『きもちがかおに出ているのよ』

「へーって怖い怖い!ゆみちゃん代わって!」

 僕は必至で女の人の頭を押して、近づくのを阻止していた。この牙で噛みつかれては、たまったものではない。

 助けを求めて幽霊のゆみを探したが、近くにいなかった。いつの間にか、ゆみは窓の外に避難していた。

「ちょ!ゆみちゃん!」

 薄情な、と思いながらも、追求する余裕はなかった。女の人の腕を掴んだ右手を離せば、相手の両手が空いて襲われそうだ。頭を押さえる手を離せば、すぐに噛みつかれるだろう。

 意外と力は強くないようで、何とか抑え込めていた。とはいえ、このままじっとしている訳にもいかない。

 僕が右手に力を込めると、女の人が苦痛に顔をしかめた。

(あれ?僕って強い?)

 それは思い上がりと言うことは分かっていても、ついつい考えてしまう。

 それにしても、普通の人は幽霊を見ることも触れることもできない。だから、噛みつかれようが叩かれようが、痛くもないはずだ。だが、僕は幽霊に噛みつかれれば痛いし、僕の手を解こうとする、幽霊の手はしっかりと実感があった。

 僕が掴む幽霊の手首も、実際の人と同じように感触があった。ならば、僕は幽霊を殴ることもできるはずだ。

(格闘マンガよろしく、拳で語る?)

 変なことを考えてしまう。

(ないない)

 一瞬で否定した。そもそも腕力で物事を解決できるような運動神経も力も度胸もなかった。他の方法を模索してみる。

「りんぴょうとうしゃかいちんれつざいぜん!」

 何かの漫画で読んだ、祓いの呪文を唱えてみる。

『何言ってるの?』

 ゆみが怪訝な声を発していた。

 そして、何の効果も表れなかった。漫画のように相手が苦しみ、蒸発するように消える、などと都合のいいことは起こらない。印を組まないといけないのだろうか。手が塞がっているので実践できないが。

 それに、僕は宗教家でもその道のプロでもない。もちろん魔法使いでもない。呪文を唱えたところで、効果などあるはずもなかった。

(何かの道具で、叩く?)

 手さえ空けば、これは可能に思えた。ただ、どのくらい殴れば、幽霊は消えるのだろうか。やはり聖なるもので叩き、清めるにしても、そういう道具もない。幽霊を撲殺すると言うのも、現実味がなかった。

 とはいえ、道具が使えるのか、試してみることにした。

 女の人の頭を強く押し、戻ってくるまでの間に枕を拾い上げて、女の人の顔に押し付けた。

 女の人は現実の人のように枕に頭を押し付けている。

(思った通り、僕が使えば、道具も利用できる)

 そうと分かっても、だからどうしたと言われればそれまでだ。

『ユウレイをちっそくでもさせるの?』

 ゆみが不思議そうに眺めていた。いつの間にか、僕の横にいる。

「ねえ、どうしよう、これ」

『ヒロくんがつれて来てって言ったんだよ。あたし何もできな~い』

「うー」

 僕は暴れる幽霊を引き寄せ、枕でベッドに押し付けた。馬乗りになる形で押さえつけた。これで手は使える。が、何をしていいかはまだ思い付けずにいた。

 ふと、昔、幽霊ともみ合ったことを思い出した。当時の僕は九歳で、その幽霊から必死に逃げようとしていた。子供の僕が幽霊の顔を掴むと、幽霊が苦痛にもがき、顔がただれた。

(もしかして、僕に、何かの力がある?でも、あの時、どうやって…)

 考えてみても、分からない。ならば、色々試してみるべきだ。

 僕は幽霊の腕に手を当てると、

「暴れるな!」

 と言ってみた。

 効果はなく、僕の拘束から逃れようと暴れ続けている。

「消えて無くなれっ!」

 虚しく響くだけだ。

(幽霊を消す…。やっぱり浄化だよな。浄化と言えば…。塩!はない。清めの炎…。これもない)

 僕は手元も見ず、ただ考えを巡らせていた。主に漫画から得た知識なので、果たして効果があるかどうかも分からない。そしてその道具もないので、確認のしようもなかった。

『ねえ』

 ゆみが呼びかけているが、僕は上の空だった。

『ねぇってば!』

 今度は僕の耳元で叫んでいた。

「何?ビックリするじゃない!」

『そこ、けむりが出てる』

「え」

 ゆみが指さす先に、幽霊の腕と、そこに乗せた僕の手があった。僕の手の下辺りから、何やら煙が立ち上っていた。

「ええ?」

 思わず手を引っ込める。

 そこには女の人の腕が残り、僕の手が触れていた辺りが焼けたようにただれていた。

 気が付くと、幽霊の暴れ方が激しくなっていた。きっとこのただれが痛いのだろう。

『何をしたの?』

 ゆみも気になるようだ。僕も同じく気になる。僕は一体、何をやったのだろうか。

 自分の掌を見つめつつ、思い返した。

(炎を連想していたから?)

 しかし、僕の掌で炎が躍るようなことはなかった。漫画ならきっと、ここで小さな炎が出て、僕の力を自覚するのだろう。現実はそんな魔術めいたことは起こらないようだ。

 僕はもう一度、女の人の腕に手を添えた。

(清めの塩)

 そして手を除けてみる。何も変化がなかった。同じように、炎を考えてやってみた。

 すると、小さなただれができていた。

「おお!」

『うそ…』

 僕に異能力がある、と言うことだ。漫画の主人公になったようで、気分がいい。が、ただれる程度のダメージでは、何も解決できない。幽霊を撲殺するのと同じレベルだ。

 辺りを見渡して、何か使えるものはないか探した。

 ふと、窓辺のカウンターの上に視線が止まった。黒く輝く銀色の物があった。皆川が持っていたジッポライターだ。いつの間にそこへ置き、忘れて行ったのだろう。

(ライターの炎を使えば、もっと威力が増したりしないかな…)

 変なことを思いつくものだ。ただ、思いついたからには、実行して検証してみなければ、気が収まらない。

 僕は女の人の腕を掴むとベッドから降り、急いでジッポを取った。

 上半身の自由を取り戻した女の人の幽霊は、長い髪を振り乱して、僕に噛みつこうと迫った。

 唐突に、女の人の動きが止まった。

 僕の考えを読んだゆみが、女の人の動きを止めてくれたようだ。

 僕は辛そうに顔を歪めるゆみに頷き、女の人を窓辺へ連れて行くと、皆川のまねをして、ジッポライターの蓋を片手で開いた。

 思わず落としそうになる。何とか小指で支えることができ、落とさずに済んだ。不器用に指を動かして持ち返ると、回転ドラムを親指の腹で回した。

 しかし、勢いが足りないのか、点火しない。

 もう一度親指の腹を押し当て、今度は力いっぱい下した。

 オイルの香りと共に、赤い炎が立ち上る。

 その炎を幽霊に押し当て、

(浄化しろ!)

 と、強く願った。ライターの炎が幽霊を、ロウソクの様に溶かすのではと考えていた。

 するとどうしたことか、炎が生き物のように幽霊の体中に広がった。まるで幽霊の体から可燃性のガスでも出ているかのように、勢いを増して、火だるまになっていく。

 幽霊の女の人は、目に見えて狼狽し、火を消そうと、手足をばたつかせ、くるくると回った。半狂乱にダンスでも踊るかのようだった。ただ、燃え盛る炎は見る者にも恐怖を与えた。半狂乱の踊りは炎が爆ぜるが如く周囲に触手を伸ばしていた。

 僕はあまりのことに唖然とした。想定外過ぎた。同時に、この炎がベッドなどに燃え移らないか、自分たちにも害をおよばさないかと、恐怖した。

 幽霊は炎に導かれて踊り狂い、窓に、ベッドに触れた。幸運なことに、窓やベッドに変化はなかった。ただ、霊体が物質をすり抜けるだけだった。どうやら、この炎も霊的なものに変質しているのだ。

 後先考えていなかった僕にとって、この変化は幸運極まりなかった。もしここで火事でも起こしていた日には、外の警官に手錠をかけられて連行され、社会から隔離されたに違いない。

 幽霊のゆみも、驚きと恐怖を顔に浮かべ、できるだけ離れて成り行きを見守っていた。

 ガスを燃やし尽くすかのように、幽霊が痩せ細り、消えて行った。やがて完全に燃え尽き、炎と共にすべてが消え去っていた。

 何もなかったように、病室はいつもの状態を保っていた。そこの住人である僕や幽霊のゆみがしばらく硬直したままでいることを除いて。

 すべてが消え去った後も、僕とゆみはただただ呆然と、女の人がいた空間を凝視し続けていた。



  23


 僕たちが平常心を取り戻したのは、お昼だった。白衣の男性が食事のお盆を運んできたとき、僕はベッドの上には戻っていたものの、まだ茫然としていた。

 幽霊のゆみは、僕の背中に隠れるようにしていた。

 男性が去った後、食事を目の前にし、体が反応を示したことで、やっと呪縛から解放されたのだった。

 僕は運ばれてきた食事を少しずつつまみながら、考えを巡らせていた。こういう時にゆみと意思疎通を図るのは、非常に便利だ。口は食事で塞がっていても、頭の中で呟けば会話できるのだから。

(すごかったね…)

『あんなことになるなんて…』

 ゆみは僕の背中にいるので、表情は見えない。心なしか、声が震えているように思えた。

(ジッポの炎であんなことになるなんて、僕も思ってもなかった。でも、あの女の人、あれで消えたんだよね?)

『うん。もういないと思う』

(じゃあ、麻奈美は救われたんだね)

 ゆみはこれには答えなかった。

(僕、幽霊退治の才能があったのか…)

『あたしにはあの火を近づけないでよ』

(分かってるよ。ゆみちゃんがいなくなったっら僕が困るもの)

 ジッポライターは今、左手の机の上に鎮座していた。ただのライターなのに、光輝いて見えた。

(これさえあれば、僕は幽霊退治ができる…)

 ヒーロー漫画の主人公にでもなったような気分だ。

『あぶないことはしない方がいいよ。ヒロくんどんくさいし』

(えー。ゆみちゃん時々酷いこと言う…)

『じじつだもん』

(確かに運動神経鈍いけれども)

 食事が進むにつれて、実感がわいてきたのか、手が震えていた。そして、麻奈美を助けたという自負が生まれた。

 今まで人助けなどしたことはなく、この初めての感情にどう対処して良いのかさっぱり分からなかった。

 持て余した感情で、手が震えているのかもしれない。

『でもヒロくん、かっこよかったよ』

 唐突に、ゆみが言った。

 僕はその言葉に、耳まで赤くなるのが分かった。ゆみに認められたのが、ここまで嬉しいものなのだと、初めて知った。

 麻奈美も同じように僕を認めてくれるだろうか。意識が戻り、不運の現況が取り除かれたと分かれば、感謝してくれるに違いない。

 この事を知れば、令子だって僕を認めるかもしれない。そうなると、僕は、麻奈美と令子、どちらを選べばいいのだろう。

『あ、またへんなこと考えてる』

(な、何も考えてないよ)

 こういう部分は、心を読まれると困る。ゆみは聞こえていないフリをしているのかもしれない。あるいは表面だけしか聞かないようにしてくれているのかもしれない。なんにしても、聞かれれば馬鹿にされるのは違いない。

 僕の妄想かもしれない。しかし、ヒーローになった気分で、漫画の様にヒロインから好意を寄せられる存在になった気がしていた。

 僕は麻奈美に憑りついていた幽霊を退治したのだ。彼女に関する事件はこれで解決した。この事実は誇っていいのだ。

 何のとりえもないと思っていた自分に、思わぬ才能があった。今後、この才能を生かした分野で、生きて行けるのではないか。漫画などで、退魔師とか祓い人とか呼ばれるものに。あるいは聖職者の様になるのかもしれない。現実味はないけれども。でもとにかく、僕にできることができたことが嬉しかった。

 僕は、そう言った職業で生計を立てるという具体的な考えはなかった。どの程度仕事があって、報酬はどれほどになるのか、かかる費用は?などいう実務レベルには全く考えが及んでいない。ただ漠然と、それこそ本当に漫画の主人公のような存在になれる、なったと考えていたのだ。

 そしてこの結果をもたらしたのが、幽霊のゆみだ。彼女が女の人の幽霊をここに導いてくれなければ、何もできなかった。ゆみが見守ってくれていなければ、やはり何もできなかったはずだ。そもそもゆみに出会っていなければ、僕はいなかったかもしれない。ゆみの存在を思いだせていなければ、何もできず、ただただ事態の成り行きを、後から知らされるだけだっただろう。ゆみがいたからこそ、僕の自身の才能を発見できた。

 ゆみは僕の半身だ。彼女がいなければ、僕は体を動かすこともできず、行動を起こすこともできず、狭い思考回路の隅に隠れ住んでいたに違いない。あるいは、死という解放に向かっていたに違いない。

 つくづく思う。僕はゆみ無しでは生きていけないと。彼女が傍にいるだけで、僕は奮い立ち、心の迷路から脱出できる。心の痛みを取り除いてくれ、活力を与えてくれる。その無邪気な笑顔が、僕の全てだ。

 僕は礼を言うべきだと考えた。ただ、いざ口を開こうとすると、言葉が出ない。しかし、今言わなければ、言う機会を失うだろう。

 時間をたっぷりと消費した。時間が経つにつれ、色々な思いが覆いかぶさり、口が重くなる。それでも意を決し、口を開いた。

「あの、ゆみちゃん」

『なあに?』

 声を発したものの、次の言葉に詰まった。

 僕はベッドの上で体を滑らせ、ゆみを視界に入れた。ゆみはいつもの笑顔で、僕を見守っていた。この笑顔に、僕はどれだけ救われてきたことか。胸にこみ上げてくるものがあった。

「ありがとう」

 その言葉が、あふれ出た。礼を言えたことには違いないが、何に対してなのかが不明だ。

『どういたしまして』

 ゆみは怪訝そうにしながらも、そう返した。

「色々と、ありがとう」

 ゆみは笑顔で答えた。

 僕はあふれる気持ちを押さえられず、同じ言葉を繰り返した。それ以外の言葉がまるで出てこない。

 ゆみは笑って、僕の頭を抱きしめた。

『いいのよ』

 ただ一言、そう言って、僕の背中を軽くたたいた。

 僕はゆみの小さな胸に顔をうずめ、あふれる思いが涙となって流れ出て行った。

 僕の涙が止まるまで、ゆみは小さな手で抱きしめてくれた。

 僕はヒーローになれたはずなのに、情けないものだ。感情の渦に飲み込まれ、打つ手がなかった。泣き虫なヒーローなど、あり得ない。

 涙が止まると、あまりの状況に恥ずかしさが増して、顔を上げられなかった。

 やっとの思いで顔を上げると、ゆみの優しい笑顔が迎えてくれた。

 ふと思うことがある。彼女が幽霊ではなく、現実の女性であってくれたら、どれほど嬉しかったことか。同年代として一緒に幼少期を過ごし、幼馴染に恋を抱いていたに違いない。僕は他の女性に恋をすることもない。彼女一人で十分なのだ。

 いくら妖艶な令子でも、ゆみとの心の絆を超えることはできない。だからと言って、僕は僧侶でも聖人君子でもない。異性に興味のある男として例外なく、生きた美しい女性に興味があった。この辺りは、葛藤を生んでしまう。ない物ねだりをしてしまう。ゆみが生きた女性であったのなら、と。

 僕はそっと手を伸ばし、ゆみの頬に触れた。彼女は笑顔のまま、受け入れた。幽霊なのだから、体温はないのかもしれない。でも、僕の手には、柔らかく、温かいものが触れていた。

 十歳の女の子に本気になっている自分が、あまりに滑稽だった。彼女が生ある女の子なら、僕は周りから犯罪者呼ばわりされそうだ。決して幼女趣味ではないのだが、誰も聞き入れてくれないだろう。

 自虐的ではあったが、それで僕は笑いを取り戻した。

 ゆみが怪訝そうに僕の目を覗き込んだ。

「いや、何でもないんだ」

 僕はそう答えてゆみから手を離した。その間も物問いた気にゆみが見つめている。僕の心の奥まで読まれると、あまりにも恥ずかしいので、何か話題を振って回避しなければ。

 必死に考えた末、ふと思い立ったことを尋ねた。

「ところで、あの女の人の幽霊、どうやってここまで連れてきたの?操るとか言ってた気はするけど」

『んー。ちょっとたいへんだったの。あの人、べつの何かにあやつられていたのかも』

 思いもよらない返事に、僕はびっくりした。

「操られていた?」

『うん。あの人、心のおくではマナミをたすけたいっておもっていたの』

「助けたい?」

『そう。えっと、マナミとカナミを守らなければ、って』

「守る?カナミ?」

『だれかは知らないよ。でも、目の前にいるマナミのことを、マナミとわかっていなかったみたい』

「幽霊って、生きてる人の見分けがつかなくなったりするの?」

『どうだろう?でも、目の前の子をころせ、にくいって声がおくそこまでひびいていたの』

「矛盾してるね。守りたいと、殺したい」

『うん。でもじっくり心のおくをのぞくひまはなかったの。そのころせ、にくい、って声が大きすぎて、あたしもおかしくなりそうだったから』

「大丈夫だった?」

『うん。なんとか』

「よかった」

『心のおくをよめればあやつるのはかんたんなんだけど、あんなだからたいへんだったんだよ』

「そか。本当にありがとうね。おかげで退治できたし」

 僕はそう言って、ゆみの頭を撫でた。

 ゆみは照れくさそうにしながらも、僕の手から逃れようとはしなかった。


 僕はこの時、すでに大半のヒントを得ていたのだ。この先に起こる事柄について、深く考えれば、皆川のような思考ができたのなら、答えを導き出せていただろう。

 この時の僕は全てが終わり、くつろぎの時間になったと、ゆみとの接触を楽しんでいた。この先があるとは思いもしていなかったのだ。

 だが、この先を洞察しえたとして、事が起こるまでに、僕に何か対処しえただろうか。おそらく、無理だ。でも、この時気付かなかったことの後悔が、ずっと心の奥底に潜むことになる。


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