第8話 遠くの気配
同じ頃、遠く離れた都市の一角。
無機質なビルの一室で、白いモニターの光が、静かに壁を照らしていた。
「──三輪様、報告があります」
黒服の男が、恭しく頭を下げる。デスクに座っていたのは、五十代半ばの、隙のない佇まいの男だった。三輪讓治。海外の会合でも、その柔和な笑みから「ジョージ」と呼ばれることの多い、この組織の当主である。
「聞こう」
「先日の"回収"作戦、失敗に終わりました。対象は、分家の者たちに接触され、確保できておりません」
讓治の眉が、わずかに動いた。だが、その表情に大きな乱れはない。
「分家、か。……随分と早い介入だな」
「はい。海難救助隊に所属していた対象は、既に奴らの保護下にあるものと」
「構わん。所詮、まだ実験段階のサンプルの一つに過ぎない」
讓治はそう言って、デスクの上のファイルに目を落とした。そこには、いくつもの地図と、赤く印のついた地点が並んでいる。海、山、街──全国各地に散らばる、無数の点。
「本命は、これからだ」
一方その頃、玲は、施設の一室で一人、窓の外を見つめていた。
「九代目」
背後から声がかかる。振り返ると、白衣を着た研究員が立っていた。
「本日分の測定、始めます」
「……分かった」
玲は、静かに椅子に腰を下ろした。腕に取り付けられる、いくつもの電極。その一つ一つに、慣れた様子で身を委ねる。
『九尾因子──安定度、六十三パーセント。前回計測より、微減』
機械的な音声が、淡々と結果を読み上げる。傍らにいた研究員が、小さくため息をついた。
「またか……」
その呟きに、玲は何も答えなかった。ただ、モニターに映る自分自身の数値を、無感情に眺めている。
安定していない。それが、いつものことだった。
「なぜだろうな」
いつの間にか、部屋に讓治が入ってきていた。玲は反射的に、姿勢を正す。
「父上」
「……いや、いい。楽にしていろ」
讓治は、モニターを覗き込みながら、独り言のように呟いた。
「完璧に解析したはずなんだがな。理論上、これほど不安定になる理由がない」
玲は、その言葉に、何も答えることができなかった。自分の中で何が起きているのか、実のところ、玲自身にも分かっていなかったからだ。
ただ──最近、時折。
自分の中に、何か別のものが、確かに息づいているような、そんな奇妙な感覚を覚えることがあった。それが何なのか、玲はまだ、知る術を持っていなかった。
「今日はここまでにしておこう」
讓治はそう言うと、玲の肩に、そっと手を置いた。
「お前は、私の誇りだ。焦る必要はない」
その言葉は、優しく響いた。だが玲の胸の奥には、うっすらとした違和感だけが、いつまでも残り続けていた。
部屋を出た讓治は、廊下で鷹宮とすれ違った。
「讓治さん」
「鷹宮か。情報収集部の方は、どうだ」
「相変わらず、地味な仕事ばかりですよ」
鷹宮はそう言って、軽く肩をすくめる。だがその目は、廊下の奥、玲が消えていった扉の方を、一瞬だけ見つめていた。
「……何か?」
「いえ、何も」
讓治が去った後、鷹宮は小さく息を吐いた。
(あの子は、あんたが思ってるより、ずっと──)
その先の言葉を、鷹宮は口にすることなく、静かに飲み込んだ。
同じ空の下、遠く離れた里で、陸はまだ何も知らないまま、静かな夜を過ごしていた。
だがそう遠くない未来、二つの世界は、確かに交わり始めることになる。
海の底に潜んでいたもの。都市の奥で進められている実験。そして、まだ互いの存在すら知らない、二人の若者。
千年の時を経て積み重なった因縁が、今、静かに動き始めていた。
(第1部・完)




