第9話 ネットの噂
海難救助隊の一件から、二週間が過ぎていた。
里には、目立った動きもなく、穏やかな日々が続いている。だが陸の中では、あの日海の底で感じた「飢えている何か」の気配が、消えずにくすぶり続けていた。
「陸、暇そうだね」
縁側で書物を広げていた陸のもとに、巡がひょっこりと顔を出した。
「暇じゃない。考え事をしてる」
「考え事してる顔、暇そうな顔と同じだよ」
「うるさいな」
陸は苦笑しながら、書物を閉じた。里に伝わる古い因子の記録──だが、あの日の痕跡と一致するようなものは、結局何も見つからなかった。
「白澤にも、もう一度聞いてみるか」
陸はスマートフォンを取り出し、アプリを立ち上げた。
「白澤、進展はあるか」
『おー、久しぶり。……うーん、正直、めぼしい情報はまだ入ってきてないなあ』
「そうか」
『ただ、ちょっと別件で気になる話がある』
「別件?」
『最近、ネット界隈で妙に顔が広い奴がいるんだよね。妖怪関係のことなら、儂よりよっぽど詳しいんじゃないかって噂の』
陸は片眉を上げた。
「白澤より詳しい、って」
『あくまで"噂"だよ。でもさ、うちの里と、あの怪しい警備会社の噂まで知ってそう、って話もあってさ』
「怪しい警備会社って……例の?」
背筋に、緊張が走った。里のこと、そしてあの"例の警備会社"のこと。それを外部の、しかも素性の知れない相手が知っているというのは、看過できない話だった。
『名前は──「夜行主」』
「夜行主?」
『そう。妖怪掲示板界隈じゃ、ちょっとした有名人。自分のことを「妖怪の総大将」とか名乗っちゃってる、まあ、痛い感じの奴だよ』
巡が、横から画面を覗き込んでくる。
「総大将って、なんかダサいね」
『こら、本人に聞こえたらどうすんの』
「聞こえないでしょ、これ」
『……まあね』
白澤は、少し軽い調子で笑った。
「白澤、その"夜行主"とやらに、接触できるか」
『できなくはないけど……正直、あんまりお勧めしない。あいつ、何考えてるか読めないタイプだからさ』
「危険なのか?」
『危険、というより……深く関わると、面白がって余計なことされそうな気配がある』
陸は少し考え込んだ。だが、選べる手札は多くない。
「それでも、話を聞いてみたい。他に手がかりがないんだ」
『まあ、あんたがそう言うなら。……儂から軽く繋いどくよ。あとは自己責任で』
「助かる」
『その代わり、次の"対価"はちゃんと払ってよね』
通信が切れる。陸は、少しの緊張と共に、スマートフォンを見つめた。
「陸、大丈夫? なんか、変な感じの相手なんでしょ」
巡が、心配そうに袖を引く。
「大丈夫だ。……多分」
自信はなかったが、陸はそう答えるしかなかった。
その夜、里のパソコンの前で、陸は一人、ある掲示板の書き込み画面を開いていた。白澤から共有された、接触用のスレッドだった。
しばらく画面を見つめたあと、意を決してメッセージを打ち込む。
《はじめまして。白澤の紹介で来ました。少し、お聞きしたいことがあります》
送信した直後、返信は驚くほど早く返ってきた。
《ほう。白澤の紹介とな。……面白い、話を聞こうではないか》
その文面に浮かぶ、妙に古めかしい口調。陸は、思わず画面に向かって呟いた。
「……本当に、大丈夫か、これ」
だが、もう後には引けなかった。
(第10話へ続く)




