第30話 争奪戦、その夜
「白澤から、平安の話を聞きました」
その夜、陸は再び、母屋の叢雲の前に座っていた。
叢雲は、湯呑みを傾けたまま、静かに頷いた。
「そうか。……あいつも、そろそろ潮時だと思ったんだろう」
「父上」
陸は、まっすぐに父を見た。
「母のことを、教えてください。全部でなくていい。今、話せることだけでいい」
叢雲は、しばらく目を閉じていた。長い、長い沈黙だった。
「……分かった」
やがて、叢雲は、静かに語り始めた。
「お前が生まれる、少し前のことだ。玉藻は、俺の妻だった。そして――三輪の家の跡取りとも、深い関わりがあった」
「三輪の……讓治さん、と」
「ああ」
叢雲の声は、驚くほど平静だった。だが、その奥に、深い痛みが滲んでいるのを、陸は感じ取っていた。
「玉藻は、俺と讓治、両方から求められていた。……いや、それだけじゃない。彼女自身の中に眠る、九尾の因子そのものが、俺たちの一族にとって、千年越しの悲願でもあった」
「悲願?」
「本家と分家、その両方が、それぞれの形で、彼女を――九尾の力を、求め続けてきた。それが、千年という時を経て、再び一つの場所に、集まってしまった」
叢雲は、湯呑みを置き、両手を静かに膝の上に置いた。
「争いになった。俺と讓治、それぞれの側が、玉藻を巡って」
「争いって……戦った、ってことですか」
「そうだ」
叢雲の声が、初めて、わずかに震えた。
「俺は、あの時、力を制御しきれなかった。オロチの、深いところにある力が、暴発した」
陸の心臓が、大きく音を立てた。
「まさか……」
「その力が、玉藻を、傷つけた」
その一言に、部屋の空気が、凍りついた。
「父上……それは」
「俺が、玉藻を死なせた。そう思っている」
叢雲は、静かに、しかしはっきりと、そう告げた。
「その直後だ。オロチの因子が、俺を見限るようにして、お前の方へと移っていったのは」
陸は、言葉を失っていた。頭の中で、これまで積み重ねてきた全ての違和感が、一つの重い真実として、結晶していく。
「思っている、って……」
陸は、かすれる声で、その言葉尻を捉えた。
「それは、確かなことじゃない、ってことですか」
叢雲は、しばらく黙り込んだ後、静かに首を振った。
「分からない。あの夜、俺の記憶自体が、酷く曖昧なんだ。誰の力が、何をしたのか……はっきりと、思い出せない」
「じゃあ、母さんは」
「亡骸は、確かにあった。だが……」
叢雲は、そこで、また言葉を止めた。
「これ以上は、まだ、話せない。すまない」
陸は、拳を強く握りしめた。もどかしさと、悲しみと、そして──かすかな、名状しがたい希望のようなものが、同時に胸を満たしていた。
体の内側、奥底の何かが、これまでにないほど、はっきりと、その存在を主張していた。
まるで、この会話を、一言一句、聞き逃すまいとするかのように。
(第31話へ続く)




