第29話 鏡が映した記憶
「九代目、本日も測定を」
研究員に案内され、玲は再び、あの地下の一室へと足を運んでいた。ガラスケースの中、YT-03は、相変わらず静かに佇んでいる。
「今日は、少し長めに接触していただきます。讓治様からの指示です」
「父上の?」
「はい。……検体No.7との連動実験の、事前確認だそうです」
その言葉に、玲は微かな違和感を覚えたが、口には出さなかった。
ガラスケースが開けられ、玲は再び、鏡の縁に指先を触れさせる。
その瞬間、前回よりもずっと鮮明な感覚が、脳裏に流れ込んできた。
海辺の景色。夕暮れ時。子供の笑い声。
そして――誰かに追われている。息を切らして、必死に走っている。隣には、同じ年頃の少年と、小さな女の子。
『こっちだ、早く!』
少年の声。それが、あの陸のものだと、玲は直感的に理解した。
女の子が、何かに躓いて転ぶ。少年が、慌てて助け起こす。玲自身も――幼い自分自身も、その場に立ち尽くしていた。
『……大丈夫か』
自分の声。震えていた。だが、それでも、何かを差し出そうとしていた。小さな、色とりどりの粒。
『これ、あげる』
その瞬間、映像は、鋭い痛みと共に、途切れた。
「九代目! 大丈夫ですか!」
研究員の声で、玲は我に返った。鼻から、うっすらと血が流れている。
「……ああ、平気だ」
玲は、震える手で、鼻を拭った。頭の中には、まだ、あの光景の残像が、はっきりと焼き付いている。
(あれは、俺の記憶なのか……?)
自分が、誰かを助けようとしていた。誰かに、何かを差し出そうとしていた。それは、これまで玲が知る自分とは、まるで違う姿だった。
「今日の測定は、ここまでにしましょう」
研究員が、慌ててガラスケースを閉じる。玲は、その様子を、どこか遠くから眺めているような感覚で見ていた。
自室に戻った玲は、一人、ポケットの中の金平糖を取り出した。
「これ、あげる」
先ほどの記憶の中の、自分自身の声が、耳の奥で反響する。
「まさか……」
まだ、確信には至らない。だが、点と点が、少しずつ、線になり始めていた。
(調べなければ)
玲は、密かに決意した。父に知られないよう、自分自身の手で、あの記憶の正体を、確かめる必要があった。
深夜、誰もいない研究フロアに、玲は一人、忍び込んだ。過去の実験記録、そして──自分自身に関する、古いカルテ。
「……ここに、何かあるはずだ」
薄暗い明かりの中、玲は静かに、キャビネットの鍵を探り始めた。
その手つきには、これまでの従順な"九代目"としての姿ではない、一人の人間としての、確かな意志が宿っていた。
(第30話へ続く)




