第3話 現場検証
海難救助隊の詰所は、思っていたよりもずっと、何の変哲もない建物だった。
「草薙さん、ですよね。……本当に、来てくれるとは思わなかった」
出迎えたのは、憔悴した顔の渚紗だった。人魚の因子を持つとは聞いていたが、その姿は、ただの疲れ切った同僚を心配する女性そのものだった。
「渚紗さん。詳しい状況、聞かせてもらえますか」
「はい……こちらへ」
案内されたのは、崖の上の現場だった。海保の警察が一通り調べた後らしく、規制線代わりのロープが、寂しげに風にはためいている。
「亮太さんの足跡は、ここまで。この先は、崖です」
渚紗が指し示した先には、たしかに濡れた足跡が、途切れるようにして残っていた。
巡がしゃがみこみ、足跡の縁をそっと指でなぞる。
「変な感じ」
「変って?」
「亮太の足跡、なのに……亮太の"匂い"が、途中から薄くなってる。まるで、誰かに上書きされたみたいに」
陸は眉をひそめた。
「誰かに、上書き……」
「渚紗さん」渚紗の方を向いて、陸は続けた。「亮太さんは、普段から力を隠して、ここで働いていたんですよね」
「はい。あの人は……本当に、気をつけてました。訓練でも救助でも、絶対に"人間離れ"して見えないように。それが、里との約束だからって」
渚紗の声が、少し震える。
「あの人、いつも言ってたんです。俺たちは、人の世界に間借りさせてもらっている身だから、って。だから、絶対に目立っちゃいけないんだって」
その言葉に、陸は自分の胸の奥が、静かに疼くのを感じた。それは、里で幼い頃から叩き込まれてきた掟と、まったく同じものだったからだ。
人の範囲の中で生きろ。それが、俺たちにできる、精一杯の礼儀だ──父の言葉が、耳の奥で蘇る。
「亮太さんは、その約束を、最後まで守っていた人だったんですね」
「はい……。だから、余計に分からないんです。あの人が、自分から目立つようなことをするなんて、絶対に考えられない」
陸は崖の下、荒々しく波の砕ける海面を見下ろした。
「めぐ、この下は?」
「見てくる」
言うが早いか、巡はふわりと宙に浮き、崖の下へと降りていく。その姿を見て、渚紗が小さく息を呑んだ。
「……あの子も」
「はい。里の者です」
しばらくして、巡が戻ってきた。その表情は、いつもより硬い。
「陸。下の岩場に、何かの跡があった」
「何かって?」
「分かんない。でも……亮太のものじゃない。もっと、別の何かの因子の痕跡」
その一言で、詰所の裏で交わした会話が、陸の脳裏に蘇る。
海の近くで、似たような痕跡が最近、他にも上がってきてる。
白澤の言葉は、決して偶然の可能性を示唆したものではなかったのかもしれない。
「渚紗さん」
「はい」
「亮太さんが失踪する少し前、何か普段と違う様子はありませんでしたか。どんな些細なことでも」
渚紗はしばらく考え込んだあと、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば……ここ最近、亮太さん、妙に潜航時間が延びていたんです。訓練でもないのに、休憩時間まで海に入っていることが増えて」
「理由は?」
「聞いても、はぐらかされました。ただ……」
渚紗は言葉を選ぶように、続けた。
「一度だけ、こう言ってたんです。『最近、海の底が、妙に騒がしい気がする』って」
海の底が、騒がしい。
陸は、改めて眼下の海を見つめた。凪いでいるように見えるその水面の下に、何か──自分たちがまだ知らない何かが、確かに蠢いているような気がしてならなかった。
「巡」
「うん」
「もう一度、潜れるか」
巡は小さく頷くと、ポケットから金平糖の包みを取り出した。
「もちろん。──行こっか、"骨折り損"にならないように、ね」
陸は苦笑しながら、崖の縁に立った。潮風が、二人の頬を強く打つ。
海の底で、何かが待っている。それが確信めいた予感として、陸の中に静かに根を張り始めていた。
(第4話へ続く)




