第23話 父の沈黙
母屋に戻った陸は、その夜、改めて叢雲の前に座っていた。
「三輪玲と、話をしました」
叢雲は、湯呑みを傾けたまま、何も言わなかった。
「あいつの中に、九尾の因子があることも、確かめました。……父上、教えてください。俺と、あいつの間に、何があったんですか」
長い沈黙が、部屋を満たした。囲炉裏の炭が、小さく爆ぜる音だけが響く。
「……お前が、まだ幼かった頃の話だ」
やがて、叢雲は、ゆっくりと口を開いた。
「里の外で、ある事件に巻き込まれたことがある。お前と、そして──お前たちの母が、関わる話だ」
「母……」
陸にとって、母の話は、これまでほとんど聞かされたことのないものだった。心臓が、大きく音を立てた。
「彼女の名は、玉藻」
叢雲の声は、これまでになく静かで、そしてどこか、痛みを堪えるような響きを持っていた。
「今は、まだ、それ以上は話せない」
「父上、なぜですか。もう、俺は子供じゃない」
「分かっている。だが……順序が、ある」
叢雲は、目を伏せた。
「今すぐ全てを話せば、お前は、ただ混乱するだけだ。知るべき順番というものが、ある。俺は、それを間違えたくない」
陸は、拳を強く握りしめた。もどかしさが、胸の内で渦を巻く。だが同時に、父の声に滲む、深い痛みのようなものも、確かに感じ取っていた。
「一つだけ、教えてください」
「言ってみろ」
「あの日、里の外で何があったにせよ……三輪玲は、俺にとって、敵なんですか」
叢雲は、しばらく黙り込んだ後、静かに首を振った。
「いいや。あの子は、お前の──」
そこで、叢雲は、言葉を止めた。まるで、その先を口にすることが、何か大きな禁を破ることであるかのように。
「……いや。今は、これ以上は言えない。すまない」
「父上」
「陸」
叢雲は、まっすぐに陸を見た。その瞳には、これまで見たことのない、深い後悔の色が滲んでいた。
「俺は、お前に、伝えなければならないことが、まだたくさんある。だが、それを伝える資格が、俺にあるのかどうか──正直、今も、迷っている」
「資格、って」
「俺は、多くのものを、守れなかった。……その報いを、今もまだ、受け続けている」
その言葉を最後に、叢雲は、深く目を閉じた。それ以上、何を尋ねても、答えは返ってこなかった。
自室に戻った陸は、剣を握りしめたまま、しばらく座り込んでいた。
「玉藻……」
母の名を、初めて聞いた。だが、それがどんな人だったのか、なぜ自分に話されてこなかったのか、何一つ分からないままだった。
体の内側で、オロチの頭たちが、静かにざわめいている。特に、いつもは沈黙している奥底の何かが、母の名を聞いた瞬間、確かに、強く反応していた。
(お前は、知ってるのか)
問いかけても、答えは返ってこない。ただ、深い沈黙だけが、そこにあった。
障子の向こう、廊下から、小さな足音が近づいてくる。
「陸、起きてる?」
巡の声だった。陸は、静かに障子を開けた。
「聞こえてたか」
「うん……全部じゃないけど」
巡は、心配そうな顔で、陸の隣に座った。
「大丈夫?」
「……分からない」
陸は、正直にそう答えた。
「ただ、少しずつ、何かが動き始めてる気がする。良くも、悪くも」
巡は、何も言わず、ただ静かに、陸の肩に寄り添った。窓の外、月明かりが、静かに二人を照らしていた。
(第24話へ続く)




